トオカミエミタメ

小林こばやしあお

「チャンスは残り三回です」どこか楽しげに声は告げた。宇宙の片隅に私たちがいた。

いつまで経っても私たちはあのキャンプファイヤーを見つめている。

燃え盛る火柱をじっと見つめている。

パチパチと木の焼ける音がする。私の肌はじっと湿っている。彼の手を引いて、影に急ぐ。

私が川の流れに引き込まれそうになったとき、声は告げた。私は川床を必死に掴もうとしている。闇雲に手足をばたつかせている。私は魚だ。心は魚になって、水の流れに捉えられている。水が冷たい。死を意識したとき、私の意識は光に包まれた。

彼は空を横切る飛行機雲を見上げて、明日は雨になる、とよく言った。


彼の予告通りに雨になった。


私はレインコートに着替えて山を登っている。冷たい空気が肺を満たす。どんなに歩いても頂上は遠い。

私には彼の赤い登山用リュックに縫い付けたロゴが見えていた。英語で書かれたロゴを私は追う。彼は一定のペースでずんずんと山を登っていく。負けないように私もついて行く。

彼が産まれたばかりの赤子を抱いたのは、三日前だった。彼も私も病院から仕事にとんぼ返りだった。彼は親になった、いや、親になるような年齢になった。私も彼も人生を噛み締めるような歳だった。私は未婚で家庭を持ってはいなかった。家に帰っても恋人なんていない。つめたい弁当をインスタントの味噌汁で流し込む、そんな生活が長いこと続いている。私には世界を愛する理由がなかった。結びつけられた糸がない人間もいる。

私には仕事があった。夢があった。そこに人間性なんて入り込む余地がなかった。山中で植物の葉のうえに雫が落ちていく。ゆっくりとスローになって私の時間感覚を壊していく。夏の都市の白昼夢になって、白い光が私たちに告げる。楽しげに声は告げたのだ。

校正刷りの原稿に彼の名前が載っている。登山中の事故で、彼は死んだ。私はどうしてか死亡の文字を追って、安堵している自分に気づく。胸をなで下ろす、とでもいうのか。


私は生きている。

彼は死んでいる。


その事実を淡々と受け止めて、葬式や告別式のことを考えていた。私は息を吐き出し、思ったほどに涙も出ない自分の乾いた気分をただ感じていた。どのみち、長くはなかった。私は私であの仕事を続ける余裕はなかったし、彼だって家庭さえなければ仕事を辞めていただろう。

十代の頃、私たちは夏のキャンプで知り合った。私が川で流されたとき、遠くでヒグラシが鳴いてた。私の意識は遠のき、五感だけが鋭敏になっていた。私は川床の魚たちを、流れていく水をただ欲しがった。力強い腕で岸に引き戻される。朦朧とした瞳で彼の瞳を見つめ返す。

私はただ水になりたかった。

死にたかった。

彼の瞳はそれを許さなかった。

その夜、私たちはキャンプファイヤーを見ていた。

あの声を私たちは聞いた。私たちは互いに不思議がって、私たちにはきっと特別な力があると愚かにも信じていた。私たちは死ぬこともなく、永遠に生きられる。チャンスはなんたって三回もあるのだ。そんなふうに無邪気に信じ込んでいた。

二十代で彼は死んだ。チャンスは巡ってこなかった。あるとき私はポストに投函されていた彼の手紙を読んだ。まるで遺書だ。私には彼の手紙が読めなかった。それはまるで遠い未来から来た手紙のように私たちの未来が事細かに書かれた年表だった。私は彼の精神がなにかに囚われていることに早く気づくべきだった。


山のうえにはいつも神さまがいた。


神さまは巨大な船を用意していた。巨大な船は世界中のいたるところで発見された。

私たちは遣神使けんかんしだった。人類から寄越される神の使いだ。私たちは山に登って祝詞をあげ、人類社会に福音をもたらす存在だった。私たちには神の声が聞こえる。それはあのとき聞こえた楽しげな声だった。なにがチャンスなのか、なぜ三回なのか、そこに意味なんてないというのが大人たちの意見で、私たちは神遊びという遊びを毎年繰り返して山に登った。大人になってからもそれは変わらず、暑い夏の登山道で日焼けを作りながら、登り続けた。私たちには物資や食料がほぼ無償で届き、山小屋生活を送りながらも満ち足りた生活だった。私たちは山で生きて、山で死ぬ、人生とはそういうものなんだろうと私たちは理解した。

山小屋のベッドから起きると、薄暗い青に世界が包まれている。私は湿った空気を吸い込む。彼はきのう飛行機雲を見ていない。私は寝息を立てる彼を置いて、ひとりで神遊びへ向かった。

ごつごつした山を歩く。頂上へ向かうとすぐに、あの巨大すぎる船が見えてきた。船の底で私はあのとき聞いた声を自分の喉から発する。異国の言葉のようにも聞こえるそれは、私たちにははっきりと日本語に聞き取れたが、発声してみると日本語ではなかった。私はだんだん、気分が良くなってきた。古来の日本語に吐晋加美依身多女とおかみえみためという言葉がある。神さま、微笑んでくださいという意味だ。私たちは祝詞を発することで、神から福音をいただくのだ。神の声が空気を震わせる。私はきょうひとりでこの仕事を終えられたことに格別な喜びを得た。山小屋に帰ると私は目を擦る彼におはようと言った。彼にはこのことを秘密にしておいた。

私がこの仕事を辞めたのは、なぜだったのだろう。理由なんてないのかもしれない。私の霊感が告げたのか、神が私を嫌ったのか、それはわからない。私は山から離れて暮らした。繰り返しになると思って、私は彼との仕事を断念した。


彼の遺書を読んだ後、言い知れない恐怖があった。震える手で明日起こることを見つめている。

神が世界から消えるらしい――


私たちの世界が終わるような、そんな気がした。私たちは神の声を聞くことができる、私たちはずっと一緒だと彼が言ったことを思い出した。私に残された真実だ。

神とひと、そして、ひと。

彼の精神は神の精神に耐えきれなかったのだろうか。私は一人でも神に交信できるのに。

私は校正刷りをまとめてデスクに重ねた。遣神使はきっと私だけなのだ。私は慣れない足どりで山に登った。革靴が泥だらけになりながらも進む。汗がじっとりと首筋に流れて私の気を遠のかせる。運動不足から体のあちこちが痛む。私にとって彼がどんな存在だったかは知れない。命の恩人なのかもしれない。それより、もっと深い何かを私は信じたい。あの日、聞こえた宇宙の片隅で消えてくはずだった小さな命を運んでいく。チャンスは残り三回です、と神は私たちに告げたのだ。私たちはきっと生きることも死ぬことにも自由になれると錯覚したのだ。

彼の霊魂は山に消えたけれども、私の魂も消えるのだろうか。あの日、神と一人きりで交信した私は彼とは違った福音を得た。私にはもう神の使いとしての役目は終わっていて、ただ自由になれと神は言った。風が冷たかった。風の向きが変わった瞬間にもう私の耳に神の声は聞こえなくなった。いま山に登って何になる? 葛藤を抱えつつも、私は進む。この土地に遣神使はもういない。引退した私を除いては。神にまだここにいてほしいと私は望んでいる。世界のあらゆる問題が神の業によって解決した。P対NP問題がそうだ。

私たちの世界はあらゆる科学技術が魔法のように発展した。私たちにとって、いや大人にとって神がまだ必要なのだ。

神さま、消えないでください。彼の命では足りないというのなら、私の命を捧げます。


あの巨大な船が見えてきた。私は船にぽっかりと空いた穴を見つけた。階段が掛けられて、なかへと促される。こんなことは初めての経験だ。私には何もない。命を取られるかもしれないと唾を飲み込む。黒い大理石のような階段を上っていく。私の足跡が波紋になって振動する。私にだって分からないことがある。五段目でなかに入ることができた。なかはずっと上まで螺旋階段が続く。その螺旋をぐるぐるぐるぐる上っていく。私の、私にしかできないことがあると信じたかった。けれど神は神へと至る道しか用意してくれない。赤い臓器のような壁面が脈打つ。船の壁はどくんどくんとリズムを刻む。この船の出発は近いのだと悟った。私は頭のなかで空を横切る飛行機雲をイメージした。明日は雨になる、彼はそう言った。彼の横顔を思い出して、私はやっと人間みたいになって泣いた。人間になれたのが神の子宮のなかだったとは滑稽だ。またあの声がする。私はもう一度、どこかへ帰ろうとしている。たとえば子どもの私の欲しがった水だとか。

私はいつの間にか、砂漠の真ん中に立っていた。それは神が見せた幻影なのだと気づくのにしばらく時間が必要だった。私が砂漠の旅人であった可能性を神は知らせてくる。

私の未来に思いを馳せる。彼が送ってきた遺書には神の消失と人類の消失が詳細に書かれていた。神が消えるというのは理解できた。神さまは人類を見放したのだ。それだけのことなんだろう。けれど人類も消える? 

私は都市の雑踏に佇んでいた。これも神の見せた幻だ。神は世界を内包していた。私は気づいた。世界とは神の見ている夢なんだ、と。きっと彼も私も神の見ている夢の一部にすぎない。私は彼と分かたれてしまった。私はずっと彼の動かぬ瞳を見つめていたかった。彼がそばにいることで体温を感じていたかった。けれどそれは叶わなかった。私と彼は遣神使と、そうでない者に分かれた。あの仕事を続けていけばいずれ神に身体を少しずつ奪われていくのが、目に見えていた。食虫植物のなかだ。私たちは甘い香りに誘われてきた虫けらに過ぎない。神は私たちの夢を見る。そして誘導して私たちを食らうのだろう。あの声だって、神が私たちに心を開いたのではない。神は私たちに、虫けらにたいせつなことはいつだって言わない。


私はポケットに入れたライターに火を灯す。


いまから、私は神の言葉の逆言さかごとを放つ。何が起こるかは分からない。神は目覚めるのかもしれない。それでも構わない。私を、彼を、神は騙していたんだ。

私は祝詞を上げて、神を騙す。船が揺らいだ。ぐらぐらと足元が揺れる。私はきっと神の夢だ。夢のなかの人物が目覚めを諭したって、世界には大して影響はない。ただ、神と話すことのできる私ならどうだ。あの日、私の心に入り込んできた神は、たしかに私と彼を繋ぐ紐帯ちゅうたいだった。私は神によって彼に出会い、神によって彼と別れた。でもそんなことしなくてよかった。彼が死んだ日に私がいれば、彼を失う世界は存在しなかった。私は後悔していたのだ。船の螺旋階段を下りていく。

もうここには神はいない。神という存在を信じられた私の幼年期は終わった。ここにあるのは永続的に続く細胞のような原始的なシステムだ。言葉を介して、二度と私に甘く囁くな。私は大理石のような階段を一つ飛ばしで駆け下りた。霧が立ちこめている。見上げれば上昇する船が、ゆっくりと日の光に照らされていた。