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白亜紀

水無瀬ひな子

 

 清白亜紀は北海道の僻地に生まれ、14歳で東京へ越した。詳細は語らぬが、父親の転勤の事情である。亜紀の友人たちは亜紀の家族が出立する前夜、「本土さ、とってもこわいところだってきいたべ? ずんどこ、恐竜なもいるかしれんぞい」などといって執拗に彼女をおどかした。「ずんどこ」「なも」などと発音したかは本当はさだかではないが、読者諸氏が気になさることでもないだろう。さて、怯えは亜紀のみならず二つ年下の弟にまで伝染した。バンのトランクのみならず後部座席を天蓋のようにおおうほど目一杯つめられた家財道具に潰されそうになりながら弟と亜紀は抱きあって涙ぐんでいた。このくらいの年齢の姉弟にしてはめずらしく仲がよかったのである。闇夜、高速を約10時間突っ走り、空が濃紺にしぼられる早朝、バンは八王子市街のマンションへと到着した。同マンション『Cleavage』の駐車施設は居住棟から300メートルほど離れた位置にあった。これは同『Cleavage』のオーナーが市内の複数個所に点在する彼の持ち土地を遊ばせたままにしないことを誓いそれを優先的に実践した結果であり、貸宅の住人たちの便宜を図ることを二の次にしたからといって彼を責めるのはお門違いである。清白亜紀の父はまず管理人に挨拶し、しかるべき手続きを済ませた後、家族および手伝いに来てくれた東京都三鷹市住まいの友人(鳩司郎)を穏やかな声でしかし奴隷のようにこきつかい、はるばる海を渡ってきた大量の荷物を今後家族の住まいとなる予定の同『Cleavage』202号室へ運びこませた。がらんとしていた2LDKはたちまち段ボール箱の山に埋もれて、フローリングの床はきしきし悲鳴をあげた。
「こんだけ荷物さ運びこんだら、部屋の底が抜けるかもしれねえぞ。予想外に古いマンションだっぺ?」
 とは友人の鳩氏の言であった。問いかけに返事もせず父は曖昧な笑みを浮かべていた。母の真知子は白足袋で床の板目をなぞりながら、「二階さ、玄関があるのってきもちわるいけどねえ?」と亜紀たちに相槌をもとめた。弟は「うん」とうなずいたが亜紀は答えなかった。 重要文化財でも鑑みるような目つきで鳩氏は部屋を見まわし、
「築40年近いかな、こいつは。幽霊でもでるんじゃないかい?」
「司郎さん、厭なことをいって。これでも、実家よりは新しいね」
「はは、そりゃそうだ。真知子ちゃんの実家は大正時代の遺物だったなも」
 鳩氏が気安くいった。きくところによれば、母と彼は同郷の幼馴染であるらしかった。
「ちがいねえ」
 父はにこにことして同意した。
「荷を解くのは後にして、とりあえず昼飯でも食いにいこうや?」
 鳩氏がいった。ちょっと待って、と断ってから亜紀は用足しへ赴いた。横文字で「トイレ」と書くのもはばかられる和式の便所である。個室の四方と床にはりつけられた水色のタイルはいたるところが剥げ落ちていたし、剥きだしの水道管はあきらかにもうさびついていた。
 ことをすませた亜紀がため息をついていると、どぅん、どぅん、と下腹部に響くような刻みがあった。隣部屋から誰かが壁を叩いているのだと思い、迷惑な隣人が住んでいるのではと若干、不安にもなった。
「え、隣からだって? おかしいな。たしか空き部屋のはずだけん」
 近くのラーメン屋で汁椀が供されるのを待ちながら、なにげなく先の体験を話した亜紀に鳩氏は、文字通り鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていった。「気にすることないわ。どうせ亜紀がききちがえたにきまってる」と切り捨てて、強引に会話の主導権を奪い返したのは真知子である。邪険にあつかわれたような気がして、亜紀は嫌だった。父は例によって発言を控え、温和な顔で母と鳩氏の思い出話に耳をかたむけていた。
「東京へ来たんだから、ジャリーズのアイドルになろうかな」
 弟が思いついたようにいった。予断の余地なく思いつきであったのだろう。いいね、と亜紀は同意して、たわむれに艶やかな衣裳を着た自分がステージに立っている図を頭に思い浮かべた。
 次の瞬間、亜紀はまばゆいばかりのスポットライトと割れんばかりの拍手と歓声を浴びていた。何が起こっているのかわからなかった。だが目の前にはマイクがあったし、その向こうでは何千もの観客がケミカルライトをふっていた。ドラムが激しいイントロを奏でだした。ベースがうなりをあげ、ギタリストは暴力的なまでの荒々しさでスチール弦をかき鳴らした。圧倒的な勢いで内からこみあげてくる衝動にまかせて亜紀は歌った。声をはりあげ、喉がつぶれるまで愛と自由を叫んで、とどめにマイクスタンドをふりかぶったところで気絶した。 幻影は失せた。気づくとラーメン屋ではなく『Cleavage』の宅へもどっていた。荷はあらかた解かれ、整理されていた。亜紀は時計を見た。昼時にちがいなかった。安堵しかけたが、ふと目を遣った逆側の壁には見慣れないカレンダーがかかっていた。ブレザー型の制服を着た弟が亜紀のいるリビングへ入ってきた。どうしたの、その服。亜紀はたずねた。制服だよ、と弟がいった。昨日の夜、着てみせただろ。何で憶えてないの。そんな記憶はまるでなかったし、残存する記憶によればこの日は日曜で公立の学校は休みのはずだったが、なぜかカレンダーの日付欄の日曜ではなく月曜の箇所に、彼女の家族が習慣的につける当日印の ◎ が記されていた。そこへ、買物袋を提げた母が帰ってきた。
「放心しちゃって。昨日あんなに働いたから疲れたわけ? ばからしか」
 母は鼻を鳴らすと買ってきた食材をぴかぴかの冷蔵庫へしまいこみ、おもむろに寝室の扉をしめて閉じこもった。次に部屋から出てきたときには孵化した蝶のように化粧を施し着飾っていた。「母さん、ちょっと用事があるから」といって、ふたたび出かけようとする彼女の後ろ姿に、弟は「あれ、浮気かなあ?」と小声で疑問を投げかけた。亜紀はげらげら笑ったが、どことなくヒステリックな調子であった。
 玄関で、母と、サンタクロースの格好をした父が鉢合わせしたのは翌朝だった。ちょっとした口論が巻き起こった。こういったケースで寡黙かつ口下手な父が母にかなうわけはなく、彼はその非常識を一方的に責められ――まあ、この点に関しては異論はないのだが――家族みんなに対して謝罪せざるをえなくされた。
「狂ったわ、お父さん」
 ぷりぷり怒りながら母が昼食のパスタを茹でていたところに、くだんの鳩氏が訪ねてきた。
「司郎さん、いくらわたしが懐かしいからって毎日くるものやないわ。仕事とちゃうのん」
「そんなことをいっている場合やないようで」
 鳩氏はたいそう深刻ぶっていた。
「そうだ、今日はクリスマスじゃないか! 七面鳥と子どもたちのプレゼントを買いにいくぞ!」
 素っ頓狂な声をあげた父を母がひとにらみ。
 鳩氏はしばらく無情な目でサンタ姿の父を眺めていたが、
「真知子ちゃん、ここへきてからTVを点けてみた?」
 母はきょとんとしていった。
「いんや、まだケーブルも接続してないはずやけど」
「とっくに繋げてるよ」
 熱に浮かされたように父がいった。
 鳩氏はうなずき、特に断りもいれずリモコンをとって点けた。ざあざあいうノイズ画面が現われ、彼がチャンネルを切り替えても反応は同じだった。
「ん、接続がおかしいのか?」
 父が狼狽した。母は軽蔑したような目で父を眺めた。「いんや」とぶっきらぼうに鳩氏がいった。
「おかしいのはこのマンションの環境っちゃ」
「環境?」
「窓から見てみたらええが」
 亜紀は薄いカーテンを引き開けてベランダへとびだした。ぶっとい国道と何本かの枝道をはさんだ先の、やたらと広い駐車場が見渡せるはずだった。
 森がさえぎっていた。熱帯雨林だった。驚愕する亜紀のはるか頭上を巨鳥が過ぎさった。飛影は異常な形状をしていた。
「プテラノドンだ」
 窓際で弟が茫然と空を見上げていた。彼の両脇にたつ父と母も茫然としていた。鳩氏だけは――数時間前に驚かされたものの特権で――やけっぱちな余裕を漂わせながら煙草をくわえていた。
「表にでないほうがいいで。怪物に食われるかもしれんけ」
「恐竜だよ」
 弟が憤慨したようにいった。
「そ、恐竜に。でかいのがおったら危ないっちゃ」
「電話は繋がらんの? 警察は?」
 苛立ちと混乱が極点に達したかのように母が叫んだとき、どぅん、どぅんと便所で聞こえたあの不気味な拍動が響いてきた。
「隣からだ」
 亜紀がいった。騒いでいた家族は、にわかに沈黙した。
「足音じゃね?」
 弟が顫える声でいった。
 くぐもったような絶叫が迸った。続いて暴竜の咆哮も。
「隣だべ?」
「隣よ――」
「隣だ――」
 父は、亜紀がはじめて見るような厳しい顔になって叫んだ。白綿の付け髭が怒号に震えた。
「隠れろ!」
 隠れる暇はなかった。ミサイルをぶちこまれたように境の壁が吹き飛んだ。壁材のかけらが逆側の壁に突き刺さった。
 ぐぅおう。
 犀だと思った。錯覚だった。犀の身体ほどもある巨大な頭だった。亜紀の頭ほどもある目が鈍い輝きをはなっていた。岩の裂け目のような口から、コードと、なにか怪しげな計器のようなものを装着した白衣の男の上半身だけが飛びだしていた。あきらかに彼は死んでいた。
「ティラノサウルスだ」
 弟はそう教えてから、ちびった小便でズボンの股間を濡らした。失神しないだけましだっただろう。父と鳩氏が同時に、雄叫びをあげてとびかかっていったが、岩石のような肉食竜の鼻づらに直撃されて宙を舞った。
「し、司郎さ、助けてええぇっ!」
 頭から貪り食われながら母が絶叫したので、亜紀は母と鳩氏が密通していたことを知った。いまわの際には知りたくもない事柄だった。やがて血に塗れた恐竜の牙が迫り、金縛りにあったように身動きがとれない亜紀の躰をひとのみにしようとした――。

「ふむ、興味深いヘリオス・ヴィジョンだ。一家惨殺の目に遭った者がみるユメとはこんなものか。正直、鳥肌がたつのを禁じえないね。して、この症例を分析することが具体的には何の役にたつのかね?」
 声が届いた。亜紀はまぶたを開いた。
 皓々と光る室内灯。コードが伝う天井にはりついた姿見。
 白衣の人たちが二人――姿見に、逆さの像を結んでいる。
 骸骨のように肉がこけ、やつれ果てた少女の顔とともに。
「集合意識の根を掘りだす作業に必要不可欠だといえるでしょう。先に申しました通り、ヘリオス溶電素子は――」
「待ちたまえ。その、ヘリオスようでん素子の集積が〈記憶〉だということだったかね、きみ?」
「ヘリオス溶電素子です。溶電素子の集積体が記憶でありユメなのです。ユメはレム睡眠時に個人が視る抽象化された記憶の幻影であり、いうなれば個人の深層心理下において絶対肯定された世界認識の上に構築される〈ユメ・ヴィジョン〉であります。10×24乗分の1秒上の世界認識はしかし個人の自意識から逸脱することがないため、現実世界に影響を与えることはないといわれてきました。が――」
「まさか――死後の記憶、この世に無念を残して逝った亡者の世界認識が、この不幸な娘の心理に影響を及ぼしているというのかね?」
 少女の、顔。
 他人のではない、自分の顔。
「それとは少し違います。撞球を想像してください。棒で玉をつくとちかくに転がっている玉へ衝突。その玉はまた異なる玉へ衝突する。そのようにして、連鎖的に運動を波及させていくではありませんか。玉は記憶です。10×24乗分の1秒において収束した記憶のイマージュ(印象)が次なる記憶へと受けつがれます。それが個人の思考を支配する無意識のメカニズムですが、強烈なイマージュをともなう記憶はときに他人に伝播することがある」
「だってきみ、ユメは個人の意識中にしか存在しえないだろう!」
「そうともいいきれません。例えばこのようなケース――惨劇を目の当たりにしてしまった娘に、殺される家族の記憶が伝わってしまう」
「この娘のことではないか」
「彼女の無意識下に死にゆく者たちのイマージュが焼きついてしまっているのです。イマージュは彼女の中で変質し、細部はかなり極端に変容せざるをえない。物語は破綻せずにはいられないでしょう。しかしながらユメはそのような不確かで曖昧でいい加減な在りかたであれ受けつがれてゆくのです。彼女の――患者の中では、永劫にデリート(消去)されることなく」

 東京へ越して三日目に、いかれた強盗犯の手で両親と弟を嬲殺しにされた気の毒な患者。
 清白亜紀14歳――彼女自身の顔である。


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