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五つの絵画的小品
水無瀬 ひな子

水に葬る

 水に落ちた影はオフィリアの妹によく似ていた。さざなみは倫理的な穏やかさで姉を運ぼうとしたのだが岸辺へ届けるにはすこしおよばなかった。そのオフィリアは息絶えるてまえで蚊蜻蛉のように浮かんでいた。輪郭が恍けた浅縹のドレスはたおやかな少女の躰へまとわりついて離れず、黄ばんだ光沢を帯びた靴の自重で沈みかかる足は剥出しの骨よりも血の気の失せた肌を露わにして痛々しい趣きだったのが、オフィリアにははや人目をはばかるこころも失せていたからこそ、冷たくなりかかった矮躯よりいまだ脱けでない霊の有様であたりを眺められた。
草木が繁殖する水辺を過ぎたさきの庭地では青々とした芝を皮革の足下に踏みしだく足たちがおどけ、王宮のテラスに寄集まった貴賓のたてる靴音は高くかしましいあまりにオフィリアの耳に障った。オフィリアは自身を殺した仇を群衆のなかに見出した。それはかつては分身のように愛したオフィリアの実妹だったので、死に瀕して形而下のあらゆる欲望をうち捨てることに躊躇のない少女を驚きと悲嘆にくれさせた人ではあったが、呪うまでに憎悪を高めるには不充分な相手だったし、姉と愛し愛される仲であった婚約者を奪うために手を血で汚さざるを得なかった妹をかえって憐れむほどだった。瞼を閉じたオフィリアは仄かに明るんだ真昼の闇で涸れた肺を満たし、妹に幸福の訪れることを祈ってめまいするように深い眠りへ没した。魂が発ったオフィリアの肉体はこなみじんに分解して、膚は風に巻上げられ肉は土へ還ったが、粒立ちの黒真珠よりも輝かしい眼球は取残されて河の果てまで流れた。大洋に棲む魚の餌食となるにいたるまでの数週を塩気のつよい水に浸りながら眼は多くの景色を見てわたり、また数多の航海者と静謐に視線を交わした。

哀悼のかけら

 ぬると解けた髪がスウェットのせなかへ負われ、ころがり落ちた髪留めは踏みだす靴にこづかれた。音をたてた。ふりかえった。碧眼の小鬼がまじかへ駆けよってきていた。停止するそぶりもない小鬼を彼女は腕づくでとめた。呪文めいた彼女のささやきを聞いた小鬼はしだいに落ち着きをとりもどして、やがては赤面した。「お許しください。ぼくは音楽を愛する者です。興奮のあまり自制をまったく失ってしまっていたのです。とんでもないご迷惑をおかけして恥じいるばかりです。償いは何でもします」
「では私の髪留めをひらいなさい」
 声を高くして彼女はいった。髪留めは愛する母の形見だったからだ。小鬼は恐縮してオーク材の床に横たわったどんぐり状のそれに触れかけたが、彼が勢いよく手をつくたびにころころと転がっていったのでひらうことができなかった。小鬼ははんべそをかいて許しを乞うた。
「もうしわけありません。いかがいたしましょう」「もういいから、責任をとって死になさいよ」
 小悪魔的な気まぐれの上に悪魔的な冷酷さを塗布して彼女はいった。ささいな意地悪のつもりだったが小鬼は胸襟を正して自らの頚をへし折った。彼の死体を見下ろした彼女はずいぶん長いあいだ黙っていたが、木目節をついばむ芋虫の家族があざけったので、とおりすがりの鳩を捕えて、
「あのいまいましい虫をのこらず平らげておしまいなさい。それから私の髪留めをひらって。そうしてくれないならお前をシチューにしてやるんだから」といって脅した。臆病な鳩は彼女の命令をきいて、それが済むと矢のように逃げた。ほつれ髪を結わえようとした彼女は風化した小鬼の骨に足をとられ、塗装しがけの石壁に強く頭をうちつけて絶命した。

縁の猫

 ぼくが煩わしいただの子供にすぎない時分から、姉は神童と呼ばれた。紅葉のかけらよりも弱々しい掌に意外なくらい強く筆をにぎりしめると、あとは体力が限度をこえるまで絵を描きなぐった。優れた才能はいつでもむきだしの状態である。姉の本領は彼女が小首をかしげているときに発現した。構図は現在と未来を結わえ、色彩は過去を照らしだした。半径5メートルの生活を描いて全宇宙を省察した。そもそも絵心のないぼくに姉の美学など理解できるよしもなかったのだが、彼女の在り方は荒い筆致で描かれる絵とおなじく先鋭的だったので、はっきりとした理由もないままに彼女を畏怖した。
 ときどき、姉の目がうまれつき潰れていたならと考えたものだ。瞳を薄靄の幕にさえぎられ、茫漠とした白い闇の中で生きざるを得なかったとしたら、おそらく姉は、普段の彼女がそうであったように、不器用で投げやりな子供にすぎなかっただろう。
 それだって間のぬけた自死を選ぶよりははるかにマシな在り方ではなかったか。
 美術教室の屋上から飛びおりたとき、姉はきっとまぶたを閉じなかっただろう。目に映る何もかもを見届けようとしたのではないか。そもそもが彼女は命を捨てるつもりなんか毛頭なくて、青みがかった雨上りの空にひと刷毛された七色の光跡を見つめ、ふとした拍子に足を滑らせたのではないかと思う。
 ただひとつ、ぼくのような凡俗の輩に言えることがあるとしたら、それは姉が死んだことで結果的に一匹の猫の命を救ったという事実にほかならない。猫はいまでもときたま家へおとずれては、うるんだ瞳と澄んだ声で家族の誰かから餌をまきあげて消えるのだが、その奔放だが憎めない性質は生前の姉にすこし似ていなくもない。

さけび

 囁くような声でよびかけがあったのだけれど猫は応じなかった。なぜなら猫は爪立ちで縁をわたっていたのであって、紙縒よりもほそく和紙よりも薄い縁で足をとめなおかつ彼がいつもするように声帯を微妙に震わせて甘酸っぱい鳴声をあげてみせるなどという真似は端的にいって自殺行為であったから、すくなくとも金枝雀の枝がさがっている縁の端までたどりつかぬまでは飼猫の職分を忘却しないわけにいかなかったのだ。
 飼主の少女は仕方なくてっぺんへ戻った。裏側にのりづけされた指股が未分化である足の踏んだ跡をたどってゆく。いつしか少女の片側は猫の意識へと落ち、その経緯はつちふまずが平べったいかゆみを覚えたことからあきらかになる。
 猫少女もまた縁を歩いている。切りたった石壁と濁った沼沢の脅かしにもめげず、そこで飼猫と出会う奇跡を祈りながらおぼつかない足どりでわたる。
 飼猫は向こう方で毛を逆立てていた。その幸運を喜んで猫少女は駆けようとしたが、過まちだった。突然、砂よりももろく縁が崩れた。猫少女は一命をとりとめたが四肢の骨が砕けた。
 ぽっかりと猫の顔が浮かんだ。それは少女が慣れ親しんだ飼猫にちがいなかったが、普段のクールな表情とは異なって蔑むような笑いを表わした。猫はしなやかに躰をはずませて着地すると、少女の足のひとかけをかじりとった。少女の覚える痛みはなくまたこのような状況で人が往々にして感じるような悲しみも怒りもわきあがることはなかった。
 朱混りの唾をもって猫はかっこうがすんたらずの翼をかかげたかの形状をなした縁の全容を描いた。絵図は傷が癒えた猫少女の帰途を示し、助けとなり支えとなるだろう。

翼の祈り

 ふたごの被飾りを淡く輝かせる灯へとりすがった令嬢にピサロは祝福を与えた。葉書の一葉ほどの天窓からおずおずと射す月明りは重い煙のようにうちひろがる髪の輪郭を際立たせた。熟れたいちじくを象ったツインピースには艶めいたふくよかさを印象づけた。令嬢は小悪魔にも天使にも写った。時代がついた額縁の剥落ちた具合、顔料の劣化による油絵の褪色は、芸術家の魂を封入された被造物としての彼女の存在の値打を貶めるものではない。画家は何よりみずからの鑑賞眼に厳格をもとめ、手垢じみた銀貨とひきかえにこぼれおちそうな胸やしなやかな肢体を差出すモデルには筆にのせる顔料程度のつつましさを要求するほどの扱いだったが、気位の高い娼婦らからは疎まれたが目の高い顧客からはおざなりでない賛辞と名誉とをうけたその画家の情熱はある時期より、小鳩よりも軽やかな存在としてある令嬢の肩に架空ののびやかな白翼を生やす悪戯にのみ注がれたのだった。
 ピサロが令嬢を瞬きの後背に捕えたのは、爵位をもちながらいまにいたるまで文献に名を残すことのなかった彼女の父が1801年中秋に催した夜会においてであったと伝えられるものの定かではなく、ゆめみがちなこどもらの唇から唇へ渡しわたされる昔話の主人役として委細申分なく悲劇的な役回りを演じた令嬢の愛人として偉大な肖像画家の名が記録に著されるようになったのがその候より後であることから推されるばかり。絵画の令嬢は幼くして棺に封じられることもなくピサロの健筆により二百年を生きのびたが、あの朝独立国が象徴死を遂げた報に気散らした美術員が展示室を見廻った折は、騒擾にまるで無関心な様子の彼女はよるべなく片翼を掲げ彼方へ立つためにか羽根の繕いをはじめたという。

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