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Innocent maggick
水無瀬 ひな子

 世界とは多層からなるミルフィーユのごときだ。
 うわばりに当る流出界アッイルトより創造界ベリア、形成界イェツィラーと順に下ってわれらが地球を有する活動界アッシャーへといたる。上記四界にくわえて逆(ヘベク)を冠する下級階梯が存在する。すなわち逆活動界、逆形成界、逆創造界、逆流出界である。ヘベク・アッイルトの底をやぶれば完全なる闇へ落ちるという。
「全宇宙が地球を枢軸として構成される」と省察する天動説とは対立するようだが、物理的考察と世界論とではいささか勝手がことなる。現に天動説を提唱したアリストテレスは魔術師だった。彼はまれなる学究の徒だったと同時に、古今の魔術儀式に通じた神秘家でもあったのだ。――もっとも当時の学者といったら、天文も、哲学も、数学も、科学も、化学も、音楽も、魔術も平行してあつかったものだ。
 賢人はあるとき次のようにのべた。
「ピンとはった絃を爪弾くと音が発せられる。空気に波が生じるためであり、絃の長さ、指の強さによって音程に偏差が生じる。サモスのピタゴラスがのべたとおりである。この学者は人としては少々問題があったようだが、やはり格調高い論をものにしたひとかどの人物であると認識している。それはおいといて」とめずらしく嘆息した。「わたしとしてはやはり性質のよい嫁がほしかったんだよな」
「そうおっしゃいますが」とは弟子がいったのである。「教授は、オリーブの実を思わせる双眸と黒檀の肌をもつ奥方とご一緒になられたではありませんか。下賎な話、あの方にはたっぷり持参金もついてきたのでしょう。このうえ贅沢をおっしゃってはご自分の美学に反するではありませんか」
 賢人の配偶者は裕福なトルコ人の娘だった。アカデミアの学生たちのあいだでも夫妻が仲睦まじいことはひろく知られていた。
「そんな単純な問題ではないよ」賢人はもったいをつけていった。「たしかに妻をもつのはよいことだし、きみが主張するとおり私のそれはなかなか見目形が麗しい。だがしかし、こうるさいと思うときもあるにはある。美貌ではおよばなくとも娼婦のもとへ走りたいと思うときだってある。勉学熱心がすぎて妻をめとらない学生には不明の心境だろうがね」
「早い話が喧嘩でもなさったのでしょう」その学生は、鼻もちならない賢人の鼻をいともたやすくへし折った。「仲をこじらせないうちに和解なさることです」
「いやいや、そういう単純な問題ではないよ。いやまあ、たしかにそういう側面もなきにしもあらずではあるんだが」
「言い訳なさってはなりません。フィリア(友愛)が信頼のもといであると説かれたのはほかならぬ教授ではありませんか。それから」と学生は真面目くさっていった。「ご報告が遅れましたが、ぼくも先月妻をめとりました」
「あら、そう」
 本題に入る。
 大小さまざまな都市をあつめた複合国家の、Ωをかたどったような地形手前にアテナイという街がある。丘にはアルテミス女神をおさめた絢爛たる堂がそびえ建ち、港は業者の船舶が芋洗い。国際都市ここにしろしめすといわんばかりの繁栄ぶりだった。
 ここにエレニスという左官大工の娘がいた。齢は13で、来月、アポロン神をあがめる祭をむかえると歳ひとつ繰りあがる。
 ひときわ美しい娘だったので男たちから言いよられた。ふられた求婚者の総数が3桁に達するかと街の人々がうわさしはじめたころ、風のようにあらわれた美男が彼女の隣席へかける権利を占めるようになった。
 竪琴をたくみに奏でる彼はアウレリウスといい、エーゲ海屈指の貿易商の息子だった。宅に200人からの奴隷をかかえた彼が、年端もいかない少女の愛の奴隷になろうというのだ。エレニスにしても悪い気がしない。やがて二人のなかで愛は結婚の確信にかわる。
 数日中にエレニスの母親が神殿祭司のもとをおとずれ、愛する娘に豊かな神性にみちた式を挙げさせたいとつたえた。感激家の祭司はやはりいたく感激し、かくおっしゃるのであれば全市民にひらかれた式を催すべきでありましょう、と興奮気味に提案した。
 婚礼はアウレリウスの屋敷を貸しきってひらかれた。エレニスを懸想した者も、伴侶をねたむ者も、ただ酒にありつきたい者も、独身者も既婚者も子どもまでもがおとずれた。異邦人の参加は許されなかったが最終的にはなしくずしに陥った。三日三晩の宴はつまるところ規模の大きな酒宴にすぎず、うわさがうわさ、酔っぱらいが酔っぱらいをよんで収集がつかなくなった。ここにいたって母親はおおいに後悔したが、花嫁と花婿はまったく平気の平左でパーティを満喫していた。
 乱痴気騒ぎで発生する問題などかぎられる。奴隷が総出で調達した酒が足りなくなり、反対に料理はあまってあちこちのテーブルで腐りはじめた。
 弱りきった侍従長と母親が相談していたところ、透けるような銀の髪をヘソあたりまで垂らした少女が近づいてきた。身内でない者にあけすけな裏話を聞かせる理由もないので河岸を変えたが、気づけばいつのまにかそばにいるのだった。
 見ればわが娘と歳差もひらかない。客の連れ子をつけあがらせてはしゃくだし教育上もよろしくない。いまこそ花嫁の母として威厳をしめすべきだ。
 少女を一喝しようとしたエレニスの母は雷鳴のごとき怒声をまじかで聞かされるはめになった。慢性のぎっくり腰が衝撃で復活してしまったほどだ。毒蛇の眼光で少女は二人を射すくめていった。
「おろかしい人間の分際であなたはわたしに意見しようというのですか。わたしは屋敷にすまう女神です。あなたがたの窮状をみかねてきた清らかで可憐な美少女に、よそものの身上でありながらたいそう無礼な口をきこうとは我慢がなりません。そこの女、あなたの娘がひざまづいてわたしの足をなめるのでなければ、けっしてアウレリウスの家族としてみとめませんよ。くわ〜っっ」
 女神は煙のように失せた。騒ぎをききつけてアウレリウスの父がとんできたが、ことの次第を知ってよいかげんだった酔いを醒ました。父は若かりしころ、庭を散策する女神に程度の低いちょっかいをかけたことがある。少女の怒りをかった彼の足は丸太棒のように腫れあがり、二ヶ月にわたって風呂にも入れなかった。
「あなたの娘と一緒にしたら息子まで被害をこうむるだろう。もうしわけないが、結婚の話はなかったことにしていただきたい」
「そ、そんなばかな話がありますか!」
 エレニスの母は仰天したが、花婿の父はかたくなだった。参加者全員がわけもわからぬうちに邸内から追いだされ、当の新郎新婦が破談を報されたのは宴席の片付けも終わったころだった。エレニスとアウレリウスは泣いて抗議したがききとどけられなかった。
 卒倒したエレニスは頭のうちどころがわるくて半身不随になってしまった。ショックで口も利けなくなって「あー」とか「いー」とか「うー」とか喉を鳴らすだけのありさま。泣きぬれる娘をなぐさめながら母親は復讐をくわだてた。ひとでなしの貿易商と銀髪の女神に死の鉄槌を。綿密な計画をねる才覚も、ずさんな計略を実行にうつす手だてもないのが、不幸中の幸いといえた。
 アウレリウスは失意のなかにあれど活発に行動した。父にまかされた雑務が山積みで、各地を飛びまわらなければならなかった。有能な人は得てして愛した人を忘れてしまう。
 めいっぱい仕事に追われたエリートはある日、エジプトで奴隷を購入した。ためこんだ小遣いを浪費したい衝動にかられたのだ。
 市場へもぐりこむと、かけ値がつりあがった段階でせりおとした。奴隷は少年だった。ほほにできたうずまき状の斑紋が特徴で、長く見ていると胸焼けを起こした。濁った瞳も口許にうかべる下卑た笑いも不愉快きわまりなかった。
 つれかえったこの奴隷をアウレリウスはあざけった。
「おまえのような醜男に銀貨三〇枚もの値打があるとは到底信じられないね。ヘタクソな給仕をして鞭をくれられる前に、余興の芸でもしてみせろ。すこしくらいは見直すことがあるかもしれないから」
「ご主人、みにくく不器用なわたくしに高い値がつけられたわけをご覧にいれましょう。不遜ながら魔術遣いアジール=アビサイの血を引くわたくしにはご主人がいらだつ事情もわかってしまったのでございますよ」
「ほう、俺がおまえをうちたがるわけをあててみろ」
「簡単なことです。貴方様は恋をなさっておられる」アウレリウスの眉がぴくとあがったのを見てとると、奴隷は手をもみあわせた。「お美しい方。うちひろがるブロンドのお髪に豊かな胸、すらりとした肢体、針でつけば弾けてしまいそうなお肌。なるほどなるほど、男子たるものむしゃぶりつきたくなるのも道理。ですが残念ながら恋はやぶれてこころを曇らせておしまいに。――どうです、図星でしょ?」
「何が魔術だ。おまえのは全部あてずっぽうじゃないか。くだらない」
 声を荒らげてアウレリウスが鞭をとった。
「ちがいます、ちがいます。魔術はこれからです」頭皮のかゆい猿みたいに、奴隷は顔を守っていった。「ご主人をはずかしめようとしたのではございません。ご容赦、ご容赦」
「よけいな詮索はなしだ。笑える芸を見せてみろ」
「よござんす」汗をふきながら奴隷がいった。「妖魔ミプラッツを召喚して、かなわぬ恋の花を咲かせてみせましょう」
 奴隷が呪文を唱えると、またたくまに雲が覆った。大粒の雨が暴風とともに吹き荒れ、稲妻はたけって大地を引き裂こうとした。
 ずどおおん! と千のシンバルを一斉にうちならしたかの轟音があった。やぶれた壁のむこうには後光を負った老人が立っているではないか。なるほど、禿頭に膝までの白髭、高い鷲鼻、こけた?にほそった顎とくれば、人間より妖魔の方がしっくりくる。
「わたしの眠りをさまたげたのはおまえか。あのおろかなソドムの女のように、塩の柱に変えてやろうか」老人が傲然といった。アウレリウスは萎縮したが、奴隷はなれた様子ですこしも怖じなかった。
「偉大なるミプラッツのご老人、わたくしめは貴方様を崇拝してやまない者であります。ザーザースのまじない言をもってご老人をお呼びたてしましたのは、他でもありませぬ、この魔術遣いアシェラ=エル=グウィトであります! いやしい人間のくせにとお怒りになるのはごもっとも。ですがねご老人、罰をくだすのはすこしばかりお待ちになってね、わたくしの言葉に耳をかたむけていただきたい。時間を取りやいたしません」
 エル=グウィト君はたたみかけていう。あっぱれなまでの口八丁ぶりにアウレリウスはあきれたり蒼冷めたりしたが、魔術遣いの口上は立板に水を流すようでとどまるところをしらなかった。
「ここにはべるわたくしは小物、ですが、わたくしの主はそれはもう傑物でございます。わたくしの主と恋仲の女性とをとりもっていただければ、主はご老人の忠実な僕になると申しておりますぞ」
「妖魔のわたしに欲するものなどない。が、お主の願いはききとどけてやらぬでもない」妖魔の目が光った。「代償というわけではないが、お主らには活動界をのぞく七つの世界をめぐってもらう。さまざまな試練に遭遇するだろう。それらのすべてをのりこえたとき、お主らは一人前の術師に成長していよう」
 老人の瞳にすいこまれたアウレリウスたちは七つの世界をさまようことになった。無論肉体をおいて星霊体(霊気体)となってだ。
 永劫に脱けだせない悪夢さながらだった。無数の頭をもつ龍と戦い、甘い蜜をたらしてさそってくる魔女を鋼の忍耐力でしりぞけた。神性不可侵なるケルビムの聖光にうたれて溶けかけたこともあった。とっさに悔いあらためなければ、ぼうふらをわかせる水溜りにでもなって生涯を終えただろう。
 賢明なるエル=グウィト君の機知により――なんせ魔術をおさめた者がちの世界である――おしよせる強敵をかわしてはねじふせ、無理難題をどうにかクリアして、ヤハウェの御姿までおがんで還ってきた。生身へもどっても、しばらくは記憶が覚めやらなかった。旅なれた様子のエル=グウィト君はさきに回復し、心臓が焼けつくほどにからいペパーの煎薬でアウレリウスを気付けした。
 世界めぐりでの無能を反省したアウレリウスは、不思議の術を使いこなす奴隷を師匠と慕うようになった。男の友情とはかようにして育まれるものである。
 エレニスの居宅は何年も人が住まないように荒れはてていた。庭の荒廃もすさまじく、屋内へ踏みいると奴隷の死体が足の踏み場なく転がっていた。精神のバランスをくずした母親が家族ともども抹殺にかかったのだ。床についたエレニスは無事だったが、うつろな目をしてアウレリウスのよびかけにも反応しなかった。
「なんてこった」エル=グウィト君が服を引き裂いていった。「このうえ病の娘を強姦でもしろっていうんですかい。妖魔のじじい、こりゃあんまりだ」
 わめきたてる魔術遣いを無視して、妖魔の老人はアウレリウスに語りかけた。
「人の子アウレリウスよ。異界の旅でみききした魔術を遣ってお主が娘をよみがえらせるのだ。お主の力で娘エレニスを幸せにしてやればよい」
 裡からおおきな力がわきあがるのを感じた。
 アウレリウスは銀のナイフをもちい、みずからの手首から血をみちびいて、エレニスのまわりに六芒星を描いた。
 にぶい輝きをはなつ刃物を彼女の指へあてたときも胸は痛まなかった。
 彼女はわたし、彼女の指はわたしの指、彼女の痛みはわたしがひきうける。ながす血は一滴だって無駄にはしない。
「わたしの愛しいお姫様、おめざめの時間だ」
 血に濡れた傷、唾液に塗れた唇をふれあわせて、確信にみちて唱えた。

 ヘイカース ヘイカース  エス ティビィ ビィロイ
 ザーザース ザーザース ナスタナーダー ザーザース

「親愛なるアウレリウス様、こんなに傷ついてまで、わたしを求めてくださったなんて」
 エレニスはおどりあがってさけんだ。アウレリウスはおどりあがって喜んだ。愛の炎にあてられた奴隷たち、エレニスの母親までもがよみがえって、呆然とこの情景をながめていたが、
「お待ちなさいエレニス。あなたはあなたのにくい仇を無条件に許してしまうのですか。そこのぼんくら息子は父親ともども、わたしたちに生地獄を味わわせたのですよ。さあ、格好の機会ではありませんか。ナイフをとってその男の喉を突いておしまいなさい」
「それはできません」エレニスがいった。「この方はいまわたしを救ってくださいました。かえりみるべきは、泣いて暮らすよりしかたなかったわたしなのです。人を愛することの意味をただしく理解していなかった、おろかでおさなかったこのエレニスなのです」
「おのれ、アウレリウスよ。わたしが手塩にかけて育てた娘までたばかりおって。もはや許さぬぞ!」
 激高した母親は龍に姿を変えて、摂氏六千度の黒炎をアウレリウスたちに吐きつけた。エル=グウィト君が身を楯にして守ったので、二人は丘のアウレリウス邸へ逃げのびた。
 龍は屋敷の周囲をまわるばかりで中に入ってこない。件の女神を怖れたのである。他方女神は閉じこめられたエレニスと仲良くなって、日常的にくだらないおしゃべりに興じるまでにいたった。
 ある夜、女神の透きとおる御髪にエレニスが櫛を入れてやった。大変心地よかったので女神はこの優しい女友だちを祝福しようとしたがかなわなかった。
「わたしはかつて、あなたとあなたの母親とを呪ったことがあります」少女が困った顔をした。「あなたがひざまづいてわたしの足をなめないかぎり、わたしの呪いは有効であり、ひいてはあなたとアウレリウスの結婚をみとめられないのです。女神であるわたしの浅慮からこのような事態をまねいてしまっただなんて。ごめんね、エレニスちゃん、あなたはきっと幸せになれないのだわ」
「そんなこと問題ではないわ」エレニスは笑っていった。「女神様、あなたの御足を洗ってさしあげればよいのだもの」
 エレニスは水瓶を用意すると丹念に少女の足を洗った。足指の股をこすると微細な埃の生物みたいなのが散って、愛の讃歌をたからかに歌いだしたが、少女の一喝で鎮まった。ぴかぴかに磨いた足へエレニスが優雅に口づけたので、数年来の呪いはきれいに解けた。
 女神は彼女とアウレリウスの結婚を許してあらたかな祝福をあたえた。龍は金色の光につつまれた二人にはけっして近づけなかった。
 以前にまして壮麗華厳な婚礼の儀式がとりおこなわれ、以前にまして盛大無類な婚宴がもよおされた。やっとのことで龍から逃れたエル=グウィト君は、ステーキになりかけた脚を引きずって主アウレリウスの給仕をつとめた。辛酸をなめた経験からいまや公正かつ寛大な人格を獲得していたアウレリウスは、父親の反対をものともせず、長年にわたって忠義をつくした奴隷にはアテナイ市民の資格が与えられるよう助力する、とぶちあげた。エル=グウィト君は小おどりして彼をほめたたえた。
「善き魔術遣いの結婚はあらゆる異界の住人が祝うもの。ご覧くださいアウレリウス様、天がたからかに歌い、大地が喜びの声をあげております! おお、今宵より先は恒久に、わたくしめの友人に、われらがご主人に栄光あれ! 栄光あれ!」
 以下は付記となる。
 宴にはアリストテレス教授も出席していた。同伴した妻は夫の酔態がたえがたくなって途中で帰ってしまった。追おうとしない夫も夫だがこのさい問うまい。
 すっかりできあがった賢人は月をながめようと庭へでて、怒りくるう龍に遭った。
「こんなおめでたい晩にどうしたのだ?」アリストテレスはたずねた。
「何のめでたいことがあるものですか。仇がわたしの娘をうばったのです。かなうならば屋敷ごと地獄の業火で燃やしてしまいたいわ」龍が憎々しげにいった。
「事情は知らないがね、仇だの敵だのと考えるからいけないのだ。子や奴隷があやまちをおかしたらしつけなければならない。―ーだが、ときには親があやまちを犯すことだってあるのだからね」
 そういうと千鳥足の賢人は宴席へもどっていった。腹が空いたせいであるが、はたして酔っぱらいの説教で龍が改心したのかはわからない。

End

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