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レヴィ

水無瀬ひな子

 

 日課は厳守する。日常の進行を厳格な規律とたとえるなら、俺はさしずめ、口うるさいキーパーの役回り。
 早朝の六時に起きて、洗濯機を回す。ラジオ体操で体をほぐし、シャワーを浴びてから汁かけの飯を食う。煩瑣なもろもろの作業を終え、出勤とあいなる。午前中は蒲鉾工場でバイトだ。勤続四年で、それなりに信頼もされている。正午であがって、自転車をこいでアパートまで十分で戻る。炊飯器は十二時きっかりに飯を炊きあげる。かけもちで勤めるバーは夕方までひらかないので、三時間の仮眠をとる。
 『蘭花』へ行くには、バスと徒歩で二十分かかる。そこは実質、マスターと俺の二人で切り盛りする小さな店で、店裏の休憩室で制服を着用したが最後、閉店する深夜一時までほぼ立ち仕事。客は、常連が過半数を占める。それも入れ替わり立ち代わりといった感じなので、二、三十平米のせまい店でなければさばく手間はかからないはずだが、あいにく一服する余裕のあったためしがない。
 閉店後の片づけはマスターにまかせ、帰途に着く。一応パート店員である俺が終バスを逃がすとまずいから、というのが彼の口吻だ。マスターは『蘭花』のオーナーを兼ね、店二階の事務所兼自宅で暮らす楽隠居の身分だから、遠慮はしない。帰りついて、午前二時までには布団に入る。
 歩行速度から歯をみがくリズムまで一定に、日々、ことはすべからく、規則正しく繰り返されている。穏やかな生活に水を差す者はいない。
 無用の混乱、まして波乱万丈の物語なんか期待するバカがいるものか。反復は正義だ。あるとき不意に悟ったのだ。潮の満ち引き。毎日、昇っては沈む太陽と月。めぐる季節。自然が規律に従って動いているなら、人間だって準ずるべきだろう。暗黒の宇宙をまわる星々の運行にしたって、実は規則的だというではないか。俺が、世界の摂理にあやかっていけない理由はない。

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 女がいる。何時間でも、『蘭花』の前の電話ボックスに閉じこもる若い娘だ。頭の先から爪先まで黒の衣裳で固めている。冬なら毛織のコート。夏ならTシャツ。髪はいつだかに親切な「お友だち」がざく切りにした。人と喋るとき、無意識にか彼女はてのひらで首の背をおおい隠す。見られたくないのだ。口数はすくなくとも、始終伏し目がちな金壷眼が訴えている。『蘭花』の常連なら誰だって知っている。彼女のうしろ髪の下には、みにくい火傷の痕がある。
 金曜の午後十一時を回ったころに女は現れ、レジ前の小棚に並べた五千円のテレフォンカードを買い、酒は注文しないで店を出る。本来なら苦言を呈すべき不逞の客なのだが、暗黙の了解でマスターも俺も口を出さないし、客だって彼女と目をあわさない。
 街中探してもほとんど見かけなくなった、公衆電話。そのいまどきめずらしい利用客。
 女は、不撓不屈の意志で習慣を慣行していた。店表の看板を片づける時分に俺は様子をうかがう。通話自体は終っているにしろ、彼女は大概まだボックスに閉じこもっている。泣いているときも度々あった。気まぐれにのぞいているだけの俺には、果たして彼女が、リアルに相手と通話しているのかすら判別できない。
 疑う根拠はあった。
 〈レヴィ〉。
 神経症じみた警戒心におびやかされる都心住民が、口から口へと語りついだ民間伝承、いわゆる都市伝説というやつの一パターンだ。
 市内の公衆電話で〈レヴィ〉にコールする。十万円分の時間、抱えた悩みを話せば、願いを聞き届けてくれる。憎い仇をとり殺してくれるのだと聞く。〈レヴィ〉。都合が良いことに物騒な神は通話区域内に住んでいる。十円一分の一万分、百六十六時間の願掛け。
 ときおり、晴れわたる台風前夜の空を見上げたように、どす黒い不安がこころに兆す。なんだかんだで二十枚相当のカードを女に売ってきた。雷雲は頭上を掠め移動していく。

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 六月、埼玉の女子高で惨劇が起きる。陰湿ないじめを受けていた少女Aが、いじめの主犯格であった少女Bに刃渡り十五センチのナイフで切りつける。少女Bは胸に傷を受けるが、かえって逆上して、取り巻きの連中が少女Aを取り押さえたあとには、率先して殴る蹴るの暴行を加える。折れた骨が内臓を突き破り、八時間後、少女Aを死に至らしめる。
 少女Bは被害者でありなおかつ加害者でもある、という微妙な立場に立たされることとなる。元はといえば、少女Bの素行に問題があったからではないか、と冷たい目で世間は見る。衆人の蔑む視線にいたたまれず強度のノイローゼに陥った少女Bはその後、裁判の結果を待たず、自宅マンションの屋上から飛び降りて、短い一生を終える。

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 梅雨も暮れかかる候の、ある晩。
 小雨をかぶるのを嫌ってか、客はちらほらとしか訪れなかった。日づけが変わった頃、悪友の来訪を待つ、としぶとく粘っていた肺臓病みの常連客がついにあきらめて、勘定を払い、いかにもしょんぼりした風情で闇へ紛れた。
「客足が途切れましたね。店を畳んじゃどうです」
「冗談にするには惜しいね」
 マスターは中指と人差し指であごを撫でた。
「早いですけれど、こんな晩のこんな時間に客も来るまい。店仕舞いとしますか」
「いいんですか。定刻より一時間も早いですよ」
「君と一献酌み交わしたところで愉しくもないですからね。わたしが中を整理しますので看板と外回りを片づけてきてください」
 扉が開き、ドアベルがやかましい音を立てた。レースのついた安っぽい黒傘を荒っぽく傘立てに差し、女が入ってきた。
 俺は仰天してとっさに声が出なかった。破れて泥まみれのシャツ。力づくで襟ボタンがむしりとられた、と一目でわかるカーディガン。泥水のしたたるタイトスカートは二箇所に大きなかぎ裂きが生じていた。女は口を半開きにして、呆然としていた。わななく膝。急にばったり倒れてもおかしくない様子だった。
「呉君、二階からタオルを」
 さすが年の功でマスターは落ち着いていた。指図を受けた俺がとってきた大ぶりのバスタオルを、震える女の肩を包むようにそっとかけてやりながら「ここは安全だから、安心しなさい。だいじょうぶ」と言い聞かせた。
 ソファに腰を降ろしてからもしばらく女は放心していたが、やがてこみあげてきた涙と鼻水が顔をぐちゃぐちゃにした。不明瞭な発音で「レヴィ、レヴィ」と、壊れた目覚まし時計のように連呼しつづけた。
「まあ、気を静めてください。いったいどうしたというんです」
 業を煮やしたマスターが、口調は穏やかながら眉間にしわを寄せだしたタイミングで、俺は砂糖抜きのブラックコーヒーを彼、ブランデー入りのアイリッシュを女に提供した。
「警察に来てもらうほうがいいっすかね」
 そう独りごちた瞬間、女がキッと俺をにらみつけた。
「電話する気ならあなたの耳を食いちぎってやるから」
 すごい剣幕だ。たじたじとなった俺をマスターがチラッと見上げて、台所へ引っ込んでいろ、とアイコンタクト。
 元はイタリア料理店だったから、オムレツや簡単な軽食の調理にしか使わないわりに、本格的な厨房だ。シンクにたまったグラスや小皿を洗いながら、俺は耳を澄ませた。女とマスターの会話は聞こえてこなかった。手持ち無沙汰でシンクの隅まで拭いて、ようやく一息をついたところで、マスターからお呼びがかかった。
「さっきは言いませんでしたが、こちらが従業員の呉君」
 女が上目遣いに俺を見て、すみませんでした、事情があって、と謝った。何のことか、と首をひねったが、そういえば一言脅されたな、と思い出して、
「とんでもないです。俺が至らないことを言ったせいでしょう」
 女は黙って俺を見つめる。じとっと濡れた双眸。肉づきの悪い顔の輪郭は、のみで粗くけずったように骨張っていた。

「レヴィ、やめてってお願いは聞いてくれないから」
 ああ、やっぱり〈レヴィ〉がお相手だったのか、と俺は冷静に思うが、その時点で事の重大さを認識してはいなかった。
「この近辺で女性に暴行を加える輩が出たのは初めてです。怖ろしいことだ。――財布や身に着けていた大事な物を盗られませんでしたか。そうであれば、早急に対策をとらねばなりませんから」
「ううん、平気」
 答えると女はふたたびマスターの膝にすがって、今度は泣き伏すのではなく嘔吐した。
「だいじょうぶです」と優しく諭して仔犬を撫でるように女の髪を撫でながら、わずかに彼が顔をしかめるさまを俺は目撃した。とりあえず、と電飾を消して看板を中に入れる。閉店の札を扉にかけ、ガレージを半分閉める。雨はいつのまにかやんでいる。昼間なら、ビルの向こうに虹のかかっているのが望めたかもしれない。マスターが吐瀉物の始末を終えると女はぽつりぽつり、ことの発端から話しはじめる。俺は胸襟をただし膝をそろえて、痛ましい告白に耳を傾ける。
 女は名を立原ゆう子といった。通っていた高校で、クラスの「お友だち」からてひどいいじめを受けていた。高校入学当初からはぶり者にされていたらしいが、都立の進学校だということもあり以前のそれはおとなしいものだった。しかし三年になって、受験を控えた「お友だち」のストレスが急激に高まり、虐げ方が苛烈をきわめるようになる。
 ゆう子さんは自殺を考えた。風呂場で剃刀を握ったのも一度や二度ではなかった。だがいざ手首に当てた刃を横引きしようとすると、辛さよりもためらいと恐怖が勝った。
 死ねない自分に怒りを覚え、夜の街を徘徊するようになる。学校へもほとんど行かなくなる。身をひさいで金を作り、悪い仲間とつるんで遊びだす。巷によくある話だが、ここからの展開はやや毛色が変わっている。
 仲間たちのあいだでは肝試しが流行していた。都内に伝わる数多の都市伝説の「検証」と称し、それらを実行していたのだ。なにか賭事で負けた者の罰ゲームとしてはじまった可能性もあるが、ともかく「検証」は彼らにとって刺激的な遊戯だった。
 開始当初に限っては。
 死人が出た。「呪い」の効果をなぞるようにして人が死んだ。「検証」をもっとも多くこなした少年。「検証」を一種類しか試さなかった少女の二人。その他、死なずとも大怪我を負ったり、何らかの事件に巻き込まれて廃人同様になるまで追いつめられる者が仲間内で続出した。仲間たちはすこぶるつきの刺激的なゲームに手を出さなくなった。
 ゆう子さんは密かに彼らの被害のデータをノートへまとめ、0・2パーセントの確率で有効的と考えられる〈レヴィ〉のゲームに、一人で、参戦する決意をした。憎んでも憎みきれない「お友だち」をこらしめるためなら、手段は選ばない。
 先々週のことだ。
 幻の電話番号にかける。『蘭花』前の公衆電話から十二回かけたがつながらない。普通の人なら諦めるだろうが、精神的に追いつめられていたゆう子さんは、十三回目をトライした。回線がつながったとき、驚きの気もちでいっぱいになったという。相手は喋らなかったが「レヴィさん、お耳を貸してください、お力を貸してください」と決まり文句を唱えるとザアッとノイズのような音が応えた。
 レヴィ、わたしの敵を殺してください。代償にわたしの命を奪ったって、かまいませんから。
 泣きながら一時間、電話機にすがりついていた。
 三日後に戦果が挙がる。常に六人ほどでつるんでいたあくどい「お友だち」の集団は、その日、学校の火災に巻かれて全員死亡した。〈レヴィ〉の力によって、ゆう子さんはその光景を幻視した。校舎の長い廊下で蛇女ゴルゴンのごとき人型の焔が少女たちの肉と骨を焼き、手足や髪を燃え上がらせた。少女たちは踊りくるっていた。白目を剥いて失禁している者もいた。焔は彼女たちをじわじわと責めさいなんだあげくに、炎の塊をぶつけて、ひねりつぶした。悪霊の哄笑がゆう子さんの鼓膜に突き刺さった。耳をおおったにも関わらず、声は彼女の脳中で鳴り響いてやまなかった。
 〈レヴィ〉は、ゆう子さんの用向きが済んだあとも彼女を解放してくれなかった。幻視の光景は間歇的に目の中に現れた。翌日か翌々日の新聞を読めば、どの事件なのか容易に知ることができた。それらはみないじめっ子たちが悲惨な最期を遂げることで片がついていた。しかも被害は爆発的に拡大していった。
「レヴィさん、もう充分ですから、これ以上、人を傷つけないでください」
 後悔の念を抱いたゆう子さんはふたたび〈レヴィ〉に直談判しようとしたが、同じ番号に何十回かけてもつながらなかった。それどころか街中歩いて公衆電話を探す彼女に災厄が降りかかるようになった。今晩は雑司が谷の公園での電話が通じず『蘭花』のボックスへ歩いている途中、マスクをつけた暴漢に襲われあやうく犯されそうになって、なりふりかまわず逃げてきた。剥きだしの悪意が襲来する。
「夜歩くだけで怖いけれど、悲劇の連鎖を食い止めないと、わたしは生きながらにして、畜生道へ落ちてしまうから。レヴィと刺しちがえる覚悟はできています。呼び覚ましたのは自分だから。でもどうすれば霊を斃せるのですか。同級生と戦うことすら難しかったわたしが」
 彼女は思いつめたようにいった。
「悪霊を斃す手段は存じませんが、ご武運を祈りましょう。それより安全な場所へ匿ってもらわないと、休眠をとることもままならないでしょう。呉君、今晩は君が彼女を泊めてあげなさい」
 エクソシストか坊主でも呼べよな、と黙ったまま考えていた俺は「はあ?」と間抜けな声を発したが、マスターは本気のようで、笑いもしない。
「彼なら心配ありません。若いのに老成した、立派な――いわゆる紳士なのですよ」
 彼は語尾を濁していたようだが、俺の気にしすぎだろうか。

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「悪霊に電話が通じなくなったのは、あなたが願いを叶えてしまったからじゃないかな。そこの公衆電話か。なんなら俺がレヴィにかけてやろうか」
「ちっとも信じていないんですね、わたしのいったことを」
 俺は真剣なゆう子さんの眼差しをかわしながら、歩道を歩いた。どんより濁った空も、明日には晴れるのだろうか。
 電話ボックスを素通りしてバス停へ着く。すぐにも終バスが停まる。いつもの俺なら、アパートへ直帰して翌朝の仕事に備えただろうが、
「五分で戻るから、ここで待っていてくれない」
「どうしたんですか」
 彼女の昏い視線に現われた危険注意のシグナルさえ、女性を家へ招く、となって浮かれ気分の俺には通じなかった。目的地はいうまでもなく通りすぎたボックス。百円の硬貨を二枚投入して、彼女が先ほど教えた番号にかける。
 『この電話は現在使われておりません――』というおなじみのセリフを無視して、一回、二回、三回、と続ける。
 そんなに期待していたわけではないが、時間と手間ばかり食うので馬鹿馬鹿しくなってくる。十三回目もかからず、十四回、十五回と無為に労を重ねる。
 国道にバスのライトが光る。そろそろ潮どきだ。
 行かなくちゃ。乗り遅れて一時間以上歩く羽目になる。
 そのときだった。
 プチッと奇妙な音がした。
 それから笊であずきを転がすようなノイズがかすかに耳朶を震わせた。数秒でノイズが失せた代わりに、見知らぬ二人が対面で押し黙っているかのような、不自然な沈黙が場を支配した。
「レヴィ、さん――?」
 俺のつぶやきに反応してか、ふたたびノイズが耳孔から侵入してきた。
 なすがままに。欲望を包み隠さず、伝えよ。
 抗いがたい声でそう命じられたような気がして、俺は口を開きかけた。
「ばかっ!」
 勢いよく電話ボックスの折り戸が開いて、俺は歩道側へ引っ張られて尻餅を着いた。
 ゆう子さんがボックスへ飛び込んで、受話器を握りしめ、
「やめてください。悪いこと吹き込まないでください。呪うならわたしだけにして!」
 とまくしたてるのを、茫然として俺は聞いた。
 ドオンッ、と鈍重な音が響いたほうへ首を振り向けると、長雨のせいで半ば池泉と化した道路の真ん中でバスが横転していた。古い木製電柱とバス停のポールをへし折り、ベンチを傾斜した崖地の繁みへと押しやっていた。
 蒼ざめた街灯の光の下でぼやがくすぶっている。身動きかなわず竦んでいる俺の傍で、ゆう子さんが荒い息を吐いた。

 どうやってアパートまでたどり着いたのかは憶えていないのだが、翌朝は初めて工場のバイトを休んだ。それも出勤時刻を大幅にすぎるまでぶっ倒れていたせいで、ずる休みとなってしまった。隣の布団で彼女が寝息を立てていた。正午近い。
 観念して工場へ電話をかけた。「すみません、風邪をこじらせ重態でした」。主任は俺の体調を気にかけてくれた。インフルエンザとか流行ってるものね、といいながら、なんと一週間の養生休暇まで。くそ、災難だぜ、と歯噛みした。生活費は減り、生活のリズムは崩れ、良いことなど一つもないじゃないか。
 もっとも、昨日の今日でまともな働きができたかと問われれば、いささか心許ないのもたしかだったが。
 艱難辛苦は引き続いてマスターをも襲った。夕方、出火元不明の火事によって『蘭花』が全焼した。放火の可能性もあるとのこと。
 渋谷まで店の内装雑貨を漁りに出かけていたマスターは、警察からの一報を受けるや、うーんと唸って卒倒してしまった。東京近傍には身許引受人がいなかったため、刑事から俺の携帯へ電話がかかってきた。
 ついでに俺もゆう子さんも呼び出され事情聴取を受けたが、特に疑わしい点もなかったため(と、捜査状況を推測)放免されて、傷心のマスターをアパートへと連れて戻った。ショックを受けたマスターが日がな一日、布団へもぐるようになったせいで、ただでさえ狭い八畳間は身の置き所もない状態に。
 それから三日間、ひどい場合だと二時間おきにゆう子さんは〈レヴィ〉の暴れっぷりを幻視した。整理すると、初期段階においては、いじめっ子を呪い殺すパターンが大部分を占めていたのだが、そのうちに暴漢や凶暴な暴力団員、悪辣な金融業者や詐欺師まで殺すようになっていった。
 〈レヴィ〉による被害者層の推移が手に取るようにわかって、俺たちは慄然とした。このままでは下手をすると、ゲームの取り合いで小学生の弟を小突いた兄貴やら、奥さんに内緒でへそくりを溜める風俗ぐるいの親父やらが命を落とす羽目になる。
「もっといえば、〈レヴィ〉が性悪説を狂信するとすれば、地球人類が滅亡することだって考えられるぞ」
「そんなこと」
 彼女は絶句して、
「とめなければ。わたし、もう死んでもいいから。とめなければ」
「全霊かけて手伝うよ」
 歯を磨きながら俺はいった。
「ありがとうございます。こんな心強いことありません」
 ゆう子さん、涙うるうる。まあ、ながらく友だちがいなかったわけだからしかたあるまい。
「俺だって、世界の終わりに立ち会いたくはないからね」
 さりとて幻視はことの先読みではなく、事が起きるそのときになされるのであって、手も足も出ないのだった。

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 電話がかかってきたのは籠城五日目の六月十九日だ。
 豪雨。
 鬱屈した俺は近所の本屋へ逃避していた。いくらか体調の回復したマスターは冷蔵庫へ無造作に放り込まれたほうれん草をソテーにしようとシンクへ立っていた。ゆう子さんは発作的に幻視するおそれがあるため一歩も外へ出ず、部屋の隅で膝を抱えてうつらうつらしていた。
 トゥルルル、トゥルルル。反射的に、ゆう子さんが受話器をとった。
『そちらは呉さんのお宅ですかね』
「はい、そうです」
『む、女性の声だ。あなたが立原ゆう子?』
「どうして知っているんですか?」
 震える声でゆう子さんは尋ねた。相手は、むふふ、とくぐもった笑い声を立てて、
『わたしはゴトウといいます。〈レヴィ〉に娘を奪われた者ですよ。いやぁなに、あなたに因縁をつけようってわけじゃありません。悪しからず』
 京橋のKビルで〈都市伝説被害者・友の会〉を主催しているのだ、とゴトウはいった。先月来、活発化している悪霊〈レヴィ〉の活動データと反応を、超科学分析用のスーパーコンピュータにかけたところ、どうやらあなたの思念が〈レヴィ〉の動きにある種の制限を加えているようだ、と判明したのです。
『お一人で、とは申しませんが、現段階であなたの保護者である、といえる呉さんたちとこちらまでご足労いただけませんかね』
「はあ」
『信じられないのも無理はないでしょう。しかし』
 と間をおいて、ゴトウは自信たっぷりにいった。
『あなた一人では無論のこと、われわれ数十人がかりでも、あの〈レヴィ〉を斃すことはむずかしいのです。ですからここは力をもった者同士、協力しあう姿勢が必要不可欠ではないでしょうかね。今すぐ結論を、とは申しません。呉さんともご相談なさって、よぉくお考えくださって結構です』
「わかりました、よく考えてみます」
『心よりご来訪をお待ちしておりますよ』
 電話は切れた。十分足らずで俺は帰ってきたのだが、その日、ゆう子さんはいっさいを語らなかった。彼女なりに迷いがあったのだろう。それでも翌朝まで自分一人で考えて、最後には結論を出した。
「呉さん、一緒に京橋まで来ていただけないかしら?」
「京橋へ。大事な用事でもあるんですか?」
「戦う方法が見つかるかもしれないのです」
 事情をきいて、マスターは無言でうなずいた。お嬢さんを一人で行かせられない、という騎士道精神の発露。
 俺たちがメトロの電車へ乗り込んだのは午後四時をまわった頃だったと思う。曖昧な言い方をするのは、そこから先、時間経過をふくめ記憶がはっきりしないせいだ。 

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 太平洋戦争後の東京復興期に建設されたKビルは、都心の中心に七階層を構え、縦横に狭くて上下に長い。一階辺りの面積は文字通り猫の額ほどであるにも関わらず、地下から屋上までを貫いたぴかぴかのエレベータが増設されている。
「〈被害者・友の会〉か。そのゴトウって人がゆう子さんを娘の仇と信じ込んでいないともかぎらないよね」
「本当のことですから。ののしられるのは覚悟しています」
 と、ゆう子さんがいった。マスターがたしなめるように俺を見遣った。瀑布の上空を飛んでいるかのように、エレベータの稼動する低いうなりが聞こえてきた。自動開閉の扉が開いた。乗り込んで、ゴトウが告げたとおりに〈最上階〉と表記されたボタンを押した。
 エレベータから降りた瞬間、誤ってSF映画のセットへ足を踏み入れてしまったのかと錯覚した。しかも三十年前のヴィジュアルセンス。
 古代神殿の円柱をくりぬいて基地にしたような空間。まばゆいばかりの白一色をきわだたせているのは、複数の大型蛍光灯だ。
 上は軽く三階分はあろうかという高天井で、足元には毛足の長い絨毯が敷かれていて、歩くたびにスニーカーが沈み込んだ。
 部屋の中央に医療用と思しき寝台が置かれてあった。近寄って「ひっ」と、まっさきに悲鳴をあげたのはゆう子さん。絨毯に足をとられながらマスターが寄って、彼女の肩越しに寝台を眺めまわした。俺も後に続いた。
「手足を固定する拘束器具がついているね。これがわたしたちのために用意されたとなると、いささか厄介な事態ではありますな」
 マスターが思案していった。
「厄介ではない。あなたがたはただ、椅子に座って休憩なさっていればよろしいのです。われわれは立原ゆう子に復讐できればそれで満足なのですから」
 金属のこすりあわされる甲高い音がして、湾曲した一枚板のように錯覚していた壁側に長方形の穴が開いた。スライド式のドアの奥は通路らしかった。空舞台に白衣の男が登場した。ロシア人好みの銀髪に、鷹匠を思わせる鋭い眼光。
「申し遅れましたな。わたしがあなたがたをお招きしたドクトル・ゴトウです。今後ともお見知りおきを」
「ゆう子さんに手を出すおつもりなら、わたしたちは抵抗しますよ」
「おやおや、あなたのお店も彼女のとばっちりを受けて燃やされた、とどうしてお認めにならないのです。マスター、あなたにだって復讐する権利はあるのですよ。いかがです、われわれとともに憎い小娘をいじめ殺すのは。悪くないでしょうが」
 まさか、と俺は息を呑んでいった。
「夜道で彼女を襲ったのも、あんたらの仕業だったのか」
「うふふふ、あなたには名探偵の素養があるようですな」
「呉君、退散するとしよう。こんな邪悪な者と同じ空気を吸っているだけで気分が悪い」
「聞き捨てなりませんな。呉さん、あなたはよもや、われわれが娘のために行使すべきである正当な権利を、放棄しろなどとは言われますまいが」
「言いますよ。ばっちり言っちゃう。たとえ愛娘殺されて復讐の一念に凝り固まっているといえど、女子供に手ぇあげる人間失格の野郎に同情なんぞできますかっての」
「交渉は決裂、親の心知らぬ蛮人に説得は通じませんか。ならば仕方がありませんな」
 ドクトル・ゴトウは咳払いをしていった。
「では始めましょう。立原ゆう子、娘を殺したおまえへの復讐を――」
 鬨の声とともに湧いた黒覆面の雑魚どもが、たちまち俺たちをふんじばった。ご丁寧に拘束椅子まで準備してやがった。手かせ足かせをはめられ、もがいても鉄製の椅子はびくともしない。ゆう子さんだけは寝台で大の字に縛られていた。猿轡をはめられているため俺たちが必死で呼びかけても返事もできない。
「ではオープン。裏方、用意」
 ゴトウの号令一下、円壁の曲面に沿って三十度に一つ、合計十二個のスチール製の電話ボックスがせりあがってくる。
「中央ボックス、用意」
 寝台の傍に仁王立ちしていたゴトウが、ちょうど手を伸ばして届く位置に、十三個目のボックスがリフトオン。
 男たちがわらわらと群がって、電話ボックスを占拠していく。みながみな、爛々と目を輝かせ受話器を握っている。首謀者たるドクトル・ゴトウもまた仰々しい動作で受話器を拝領してから、天を仰いで祈るようにいった。
「セットアップ完了。復讐の時間は今より始まるのです」
「何をする気だ」
 声をそろえて叫ぶ俺たち。
「むはははは。わかりきっていることではありませんか」
 ゴトウが笑っていった。
「レヴィに復讐を手伝ってもらうのですよ」
「それでは本末転倒だ、あなたの娘だって浮かばれない――」
「耳の孔かっぽじってよぉくお聞きなさい。ここにいる〈友の会〉のメンバー全員とも、レヴィに大切な者を奪われました。レヴィが憎くないといえば嘘になります。だがかつて某国の大統領が言ったように『殺す武器が悪なのではない。殺す者が悪なのだ』。ですから最悪の魔女を殺すためにレヴィという武器を用いるのは、至極合理的ではありませんか」
 敵は聞く耳をもたない。
「コール、準備よし」
「準備よし」
「準備万端、整いました」
「でぇは諸君、祝杯の受話器をかかげぇよっ。いざぁっ!」
 いよいよ電話がかけられる。万事休すとはこのことだ。俺は目をつぶる。マスターも、ゆう子さんもたぶん。
 爆音がとどろいた。強烈な爆風が床面固定された拘束椅子の脚を折って、俺たちを壁に叩きつけた。ぐにゃりと重い感触が腹の上に乗った。おそるおそる目を開けるとゴトウの鬼神のごとき形相がどアップで迫ってきた。怖気をふるって、俺はゴトウを払いのけた。抵抗はなかった。ぐわっと開けた大口から血まみれの椅子の脚が飛び出ていた。後頭部に脚が突き刺さって悪漢は退場した。死に損ねた男どもの阿鼻叫喚がコロスの慟哭のように響きわたる。黄褐色の埃がもうもうと舞った。血煙の混ざった人膚の粉塵にちがいない。まるで戦場だ。いたるところにちぎれた手足が転がっている。クリームのようにとろけた眼球がゴキブリのように天井から落ちてきて、それはゴトウの死体のへそに、たこ焼きの型に流し込んだみたいにはまった。とびきりの悲鳴。塵芥の煙渦も収まりかけていた中、百足のように地を這って、ばらばらになった身体の部分を拾い集めていた男どもの首に、女が槌か斧のような武器を振り下ろすのが見えた。
 ざくざくざく、とたやすく切断した。耳を聾する嘆きの声は一掃された。ざっと周囲を見渡して、男どもが残らず死んだのを確認するや、女は得物を捨てて、濃色の埃の中へとわけいった。嵐のようだった塵が、吹雪のようだった塵が、花が舞うような穏やかさで、落ちていった。惨状はもはや、陽の目を見るより明らかだ。死屍累々。吹き飛んだ天井。外では子を捜す親鯨のようにサイレンがわめきたてていた。(鯨は鳴く。哺乳類だから)。アンバーのゆらめく影と熱。赤黒い炎。黒々とした煙にとりまかれている。マスターは気絶したのか。それとも傍らの首がもげた死体のように、すでにこの世の人ではないのか。脳髄が痺れる。よちよち歩きの赤ん坊にだってわかる。焼けた鉄板に座るよりは「ケツをマクってずらかる」のが賢い。(みな、まくるケツがない)。
 俺にはわからない。わからなかった。
 朦朧とする意識。
 脂の燃えるにおい。
 炎の爆発をさまたげる豪雨。滝のように激しくなっていく。
 雨と煙と塵。
(望みをかなえようか)。
 地の底から響いてきたかの、おぞましい声。ぞっとする。女が立っている。いつのまにか、ぐったりとしたゆう子さんを抱きかかえて、俺の傍に立って、見下ろしている。鬼女面そのものといってよい顔の造作。彼女が〈レヴィ〉であることを俺はとうに理解している。
 俺はなんとか言葉を発しようとするが、喉は干乾びている。声はかすれて発することができない。
 やばい、殺される。首ちょんぱされる。
 だが、女の――〈レヴィ〉の問いは、俺の深層心理から答えを引きだすためのもので。気がつけば、俺は意味の通らないイメージの断片を脳内言語に換えて放出している。
(唇は火か。赤いのか)。
 氷のように淡く青いのがいいな。
(髪は檸檬か。芳しいか)。
 夾竹桃のように艶やかなのさ。
(女は、におうか)。
 考える動物はみんなにおうさ。
(おまえは、べっこう)。
 俺は鐘だ。時を刻んで生きる。
(おまえは、逝き残す)。
 帽子のひさしを直すように富士額をぐいと押して、〈レヴィ〉もゆう子さんも、その額の孔に吸いこまれて消える。俺と奇妙な耳鳴りが残る。脳にやきつけられる異常語。
 それが電波の振動であると俺はなぜか悟っている。ちなみに、こんな感じに聞こえている。

 *PォkくRA×●●だpんw;あv0−bpwおうぃえおgじょあkヴねlがzhbwヶbp

 サイレンと雨音。風通しのよい穴あきの壁のおかげで、消防士たちの怒号が、階下から徐々に近寄ってくるのが手に取るようにわかる。俺はやがて救急車で運ばれ治療されて警察と裁判所にいたぶられる。良いことは何もない。そうに決まっている。
 騒ぎは収束にさしかかっている。俺はそっぽを向いて、蒼々と闇をはらんだ黄昏の空から目を逸らす。彼女らは電波となって空を走る。それを身近に感じる不幸を熟知してなお俺は生きていく。
 いや、思えば。レヴィの声に脅かされるかぎりはゆう子さんの存在を実感できるのだから。そんなにわるいことばかりじゃないのかも。
 そんなふうに無理矢理自分を納得させて、あさましくも俺は生き延びた。きっと長生きするのだろう。
 ろくでもない。

(幕)


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