騒音のなくなった世界で

糸井翼

街中でくしゃみの音がした。街を行く皆がいら立ちと、人によっては恐怖を含んだ顔で、その音の方を向く。くしゃみをした男はかなり気まずそうな顔をして、下を向きながら足早に去っていった。この暑い8月になぜくしゃみが出るのだろうか。思わず私もため息をつく。もちろん、音を一切立てないで。

世間がこれほど音にケアするようになったのはいつからなんだろうか。昔は、学校の先生や街中の人が大きな怖い声を出していて、自動車やバイクがすごい音を出していたと思う。今思えば、すごくストレスフルだったはずで、どのように過ごしていたのか思い出せないのが正直なところだ。それが今や、技術の発展のおかげで物がことごとく静かになり、自動車やバイクのエンジン音は聞こえなくなり、人も気づけば静かになった。

いまだに静かにできないのが子供と高齢者、それと動物で、それを完全に制御することはできないし、責めることはできない、ということで、これも技術で解決した。学校や公園、老人施設など、子供や高齢者、動物の集まりそうな場所には特殊な音波装置で囲い込んで、中の音が外に出て行かないようにされたのだ。これで世の中は静寂と言っても過言ではなくなった。私のように大きな音で苦しんでいた人たちは、今や解放されたのだ。

…なのに。

私がため息をついたのは、汚いくしゃみの音を聞いたから、というだけではなかった。今日から新しい職場に異動となった。新しい人間関係、仕事、それだけでも気分が下がるが、その仕事内容が明らかに私には不向きだから。

公園緑地課。今回、私が異動するのは、公園の管理などを行う部署。つまり、音のない静寂な世界の仕事ではなくて、騒音にまみれた世界の仕事。私はそんなにタフじゃないんだ。見た目で明らかだと思うのだが、人事担当は私のことを見てくれているわけではない、ということなんだろう。前の職場の上司からは、静寂を作るための仕事だから意義深い、と言われたが、私はその果実だけ受け取って暮らしていきたいのに。

異動の多い仕事の宿命というもの、ツイていなかった。にしてもあんまりだ。

そして初日を迎えた。基本は執務室での事務仕事が多いから、と引継ぎの説明を受け、少し希望を持った直後、班の上司に早速厳しい通告を受けた。

「でも初日だから、まずは現場に行ってみようか」

車の中で、新しい上司に尋ねる。

「うるさくないんですか」

「場所によるけど、にぎやかなところもあるね」

にぎやか、という言葉を聞いたのはいつ以来だろうか。音のないため息が自然に出る。私のため息に気が付かず、新しい上司は話す。

「この仕事をやっていると、この道の方が不自然に思えてくるよ。何にも音がしないでしょ。本来生きていれば色んな音が出て当然なんだよね」

「技術発展って素晴らしいですよね」

私の感情のこもっていない返事に、上司は笑った。

「慣れれば大丈夫だと思うよ」

公園の前。夏休みだから、子供がたくさん遊んでいる。中の音は全く聞こえない。

自分の心臓の音が聞こえてくるんじゃないか、というくらい、脈が上がっている。暑いからじゃない。音のプレッシャーで押しつぶされそうだ。

上司が何でもないような感じで音波装置の内側に入っていく。この機械の管理と、中の草木の整備がこの職場の仕事。私は契約や事務処理が担当のはずなのに、なぜ来なくてはならなかったのか。

「中に入らないと機械の管理できないからね」

目をつむった。今日一日乗り切れれば。

音のある世界に、足を踏み入れた。

「あっ…」

ものすごい蝉の鳴き声に包まれた。そこで子供たちの声は、すごく明るかった。笑っていた。こんな声を出すなんて、これを聞いたのはいつ以来なんだろう。

私はいつからか声を上げて笑わなくなっていた気がする。全力で叫ぶことも。いや、大人なら特別なことじゃない、当たり前のことだけど、いつから大人になっていたんだろう。

小さい頃の記憶を少しだけ思い出した。合唱や体育祭の応援合戦、ときに思いっきり大きな声を出すのは、決して嫌いじゃなかった。普段の声も小さくて、あまり自信を持てない私は、むしろ、そのときだけ、本当の自分になれていたような気がしていたんだ。

蝉の鳴き声と子供たちの声で、上司の機械の説明がほとんど聞こえない。

「なんて言っているんですかあ」

私も思わず久しぶりに大きな声が出た。上司が少し驚いた顔で私を見て笑った。

「大きな声、出せるじゃん」