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花村慈雨

(1)偉大なるジョナサン

「これがペンですか」
 あまりの軽さに驚いてしまった。素材を思えば予想できたはずだった。罪の重さのことばかり考えていたのかもしれない。
「厳密にはペンシルという種類らしい。どうせヴァイオリンとヴィオラみたいなもんだろう。長さか太さか違うだけで、これがいちばん密輸しやすいサイズってことなんじゃないか」
 彼に、いや、彼らに出会うことができたのは、ジョナサンのおかげだ。

(2)7×52≒365

 今から25年前の25週目あたりに、私は初めて刑務官の職に就いた。その小さな刑務所で、ジョナサンはたった一人の受刑者だった。つまり、若者向けの簡易な職場である。明かりを点け、食事を運び、独房の掃除道具を渡し、食事を運び、本を貸し、食事を運び、全てを回収し、明かりを消す。もちろん私語は禁じられていたが、そこには私たち二人しかいなかった。翌年また(もちろん別地区の)刑務所に勤めたとき、年上の同僚に何度か私語を注意された。その次の年以降、私が若い同僚を注意していた。
 ジョナサンを世話した一週間、私はジェイムズだったが、ジョナサンはその前の週もジョナサンだったし、その前の前の週もジョナサンだった。かなり昔からジョナサンだった。今も生きていればジョナサンだろう。
 同じ名前を使い続け、同じ場所で暮らし続ける特権階級がいることを、それまで私は知らなかった。ジョナサンはその階級の出身ではなかったが、勝手にジョナサンと名乗り続け、そのせいで逮捕され、囚人として同じ場所で暮らし続けていた。
「だから俺は幸せなんだよ」
 そのこだわりは理解できなかったが、何か大切なことのために罪を犯す人間がいるということを私は学んだ。それどころか、罰を利用して目的を達成しているのだ。これを賞賛せずにいられようか。ジョナサン以外の受刑者も同じなのかもしれないが、私語は禁じられているのだから知りようがない。概して、刑務官は寡黙であり、受刑者の沈黙は刑罰である。
 例外的な一週間、ジョナサンは多くのことを教えてくれた。無知な私は半信半疑で喜び、笑った。全ての地区にいるはずの特権階級の見つけ方。彼らだけの社交界が存在すること。彼らが建国へ貢献した人間の子孫であること。彼らが物を知っていること。彼らが物を持っていること。等々。他のことは忘れてしまった。
 ガラガラ響く騒音の中を移動するバスに揺られながら、毎週ちょっとずつ忘れていった。

(3)会いたかった

「ところでレイチェル。先週はどんな名前だったんだい?」
 平均すると、年に三回ほど出会うことができた。嫌な顔をする人間もいた。思うに、「あなたは犯罪者ですか?」という問いかけに等しかったのだ。しかし、実際には犯罪者ではないし、好奇心を抑えられない人間がほとんどだった。なぜ自分達のことを知っているのか、と。
「あらためて、こんばんは。君を愛してるよ」
「私もよ。ずっと会いたかった。そんな気がする」
 なぜか。物語の出発点はジョナサンだ。ジョナサンが勝手に始めたこと。理由など考えもしなかった。ただ、本当に会えたら面白いな、と。
 なぜジョナサンは知りえたのか。物好きな誰かがジョナサンに漏らしたのだろうと、私も、レイチェルも、他の人々も、そう考えた。
 彼らにたいした特権は無い。同じ名前で、ほとんど同じ場所で、ほとんど同じ人間と暮らすこと。同じ階級の、同じ人間に会えること。年に一度、望んだ職に就けること。それだけだ。いつでも好きなときに壁を越えられるわけではない。好きなところでバスを降りられるわけではない。ただ、小さな秘密を共有する。その意味では、私もジョナサンも特権階級である。近頃の私は、職場以外とはいえ、ジョナサンと名乗り続けてさえいる。
「レイチェルは私だけなの」
「もちろん。同じ地区に同じ名前は1つだけだ。レイチェルが他にいたら君のことを何て呼べばいいんだ?」
「レイチェル27ね」
「27歳?意外とお姉さんなんだな」
「私は27番目のレイチェルなの」
「26人のレイチェルにも会えるかな」
「無理ね。会えないから私がレイチェルなの」
 彼女たちの名前は、現在この国で誰も使っていない名前から選ばれる。私は何度もジェイムズだったし、何度もジェイムズに会った。しかし、ジョナサン以外のジョナサンには会ったことがないし、私自身が公的にジョナサンであったこともない。ジョナサンを知ってる人間に会ったこともない。真相は不明だ。たまたまかもしれない。体感の話になるが、名前の数は意外と多い。
 毎週1000人に会えば、10年で50万人に会える。それでも全国民の1%でしかない。そもそも同じ地区に居合わせた全員に名前を聞いているわけじゃない。ジョナサンは私のすぐ隣にいたかもしれないのだ。
 いつかまた、ジョナサンに会えるだろうか。レイチェルに会えるだろうか。食堂でジンジャーエールを飲むたびにそんなことを考えた。

(4)会いたくなかった

「レイチェル、愛してるよ。こいつらはジョンとデイヴィッド」
「俺もだ、レイチェル」
「僕もだよ、初めまして」
「ええ、私もよ、ジョン、デイヴィッド、えーと、ジャックだっけ」
 隣のテーブルから聞こえる挨拶に、少し遅れて立ち上がった。そして何も言わず座った。床に落としてしまったスプーンがなかなか拾えず、笑い声が上がった。
「大丈夫ですか?」
「ありがとう。愛してるよ」
 代わりのスプーンを持ってきてくれた配膳係に笑顔と、落としたスプーンを返した。
 そして彼女に名前を聞いた。今週の名前と先週の名前。食堂中で名前を聞いた。この計画について相談、協力できる人物を探すために、何度も何度も愛を語った。愛し、愛されながら、探した。
 それから5週間後、やっとペンを譲り受け、私は手を汚し始めた。
 まず、文字を書く練習が必要だった。図書館で適当な、つまり誰も読まなさそうな本を開いて、黒い部分をなぞっていく。図書館犯罪の専門家であれば、この明らかな痕跡を見逃さないはずだ。しかし、逮捕されることも、各図書館での警備が厳しくなることもなかったから、そうした専門職は存在しない、あるいはごく少数である、と私は判断している。
 ペンの形と持ち方は古い図鑑で見知っていたから、近い形状のもので予め練習しておいた。それでも最初は苦労したし、古い文字をなぞることに慣れたと思っても、新しい文字を書く難しさは別格だった。苦しくはなかった。私は書かねばならないのだ。私の思いを残さなければならない。それが何であれ。
 いや、分からない。これでいいのか。しかし、私は書く。そう決意したのだ。

(5)告白

「同じだ。ずっとブライアンだ。ジョナサンを知ってるよな」
「はい。ジョナサンを知っている人に会ったのは初めてですよ」
「君の計画も知っている。あまり目立つことはできないが、君を支援しようと考える派閥がある。せっかくの出会いだ。遊んでるだけなのはもったいない。とはいえ、これが冷めてしまうのはもっと残念だ。食後に、うちへ案内しよう」
 物語の出発点はジョナサンだった。ジョナサンが勝手に始めたこと。ジョナサンに会ったのは私だけ。名付けてはいけない名前だった。彼ではなく私を識別する名前だったのだ。
 おめでとう、ブライアン。
 遅くなったけれど、おめでとう、私の1番目のレイチェル。
 当たり玉より、愛を込めて。



(了)

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