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九 龍 城クーロンの女

岡本賢一

 通路の入口には『大龍新路』と朱書きされていた。だが名前とは逆に、巾も高さも一メートルに満たない四角い穴を思わせるような通路である。
 彼はためらうことなく、身を屈めてその中へと入った。こんな通路には慣れている。むしろ、まだ通ったことない通路の先を確認できるのが嬉しかった。
 二〇〇〇年以降の増改築で出来た階層のずれを、無理矢理つなげるために作られた通路である。旧九龍城の付近ではそうめずらしくはない。
 通路に照明はなく、明かりは左右の窓から漏れる室内の蛍光灯のものだけである。
 窓から中を見ると、右は室内の天井付近で、左は足元付近の光景が見えた。
 粉だらけの製麺所。椅子ひとつの床屋。ビールケースに板を渡しただけのバー。症状を聞きその場で調剤する薬屋。様々な瓶に水を入れて売る水瓶屋。どの部屋も六畳か四畳半ほどの広さしかない。
 左の窓から男が出て来て、彼の前を横切り、右の窓へ消えた。
 しばらく進むと、擦り減って坂のようになった階段が上下に分かれている場所へと出た。下はもとの広い通りへと出る階段である。上は更に狭く、窓からの明かりもない。
 彼は地図を出し小型ライトで照らしながら位置を確認した。
(おそらく……、旧老人街か、第二西条路に出られるはずだ……)
 小型ライトをバンダナで頭に留め、彼は上を目指した。
 二階ぶんほどあがった先の通路は、更に狭く暗かった。もはや通路ではなく、枯れた下水道か配管ダクトの中を這い進んでいるような感覚に、彼は捕らわれる。
 ときおり、壁の隙間から人の声や物音、室内の明かりが漏れ来るだけで、窓のある場所にさえ出られない。
 すえた黴の臭いと、ザラついた床の感触だけが続く。
 幾度か壁の材質がコンクリートからレンガに変わって右や左に曲がったが、いっこうに出口が見えてこない。
 電池を節約するためライトを消し、彼は対向者が来ないことを願いながら先へと進む。
 幼い子供か、ガリガリに痩せた者ならば、どうにか擦れ違うこともできるが、彼と同じかそれ以上の体格を持つ人物ではどうにもならない。どちらかが後ろむきのまま後退することになる。
 彼が後退するとなると、入って来た階段までもどらなくてはならない。十数分はかかるだろう。
(変だ。こんなにも狭い路がこうも長く続くなんて……。本当に道ではない場所へ入りこんだのか?)
 彼は不安を抱く。それでも、道の先がどうなっているのか知りたいという好奇心の方が勝っていた。
(行き止まりということはないだろう。入口にはなんの表示もなかった……。誰かが、いたずらして持ち去ったりしていなければ……。まあいいさ。なるようにしかならない……)
 やがて――。
 前方でかすかな物音がした。
 対向者である。流れて来た匂いでわかった。
 彼は舌うちしてから怒鳴る。
「ダメだ! 戻ってくれ。こっちは引き返せない」
 小型ライトをつけ、彼は路の先を照らした。
 つかえて動けなくなっているのでは、と思えるほど肥え太った男の姿があった。
 男はまぶしげに目を細めて「消せ!」と、高圧的に怒鳴る。
 彼はライトを消し、できるだけ穏便に告げた。
「すまないが、引き返してもらえないか? 俺の後ろは、ずいぶん先まですれ違える場所がないんだ」
 けれど男は、少しも彼の言葉に耳をかさずに怒鳴った。
「行け。さがれ」
「そっちも同じなのか? だいぶ先まで十字路とかないのか?」
「うるさい。さっさとさがれ」
 さすがに、彼も腹にすえかねた。
「ずいぶん一方的じゃないか。こういう場合、十字路に近い方がさがるべきだろ?」
「ここは俺たちの路だ! おまえみたいな流れ者が使っていい路じゃない」
「そうならそうと、どうして路の入り口に書いておかないんだ?」
「うるさい! さがれ! さがらないと……」
「さがらないと? ……どうする?」
 太った男は腹の下から短い棒のような物を取り出し、サヤを抜いた。大きめの果物ナイフのようなものである。
「片目を無くすことになるぞ! 望みなら、両目ともえぐってやる」
 男の横暴さに彼は怒り、腰のカバンから拳銃を取り出した。錆びついて引き鉄をひくこともできないマカロフ銃である。むろん、弾も入っていない。
「力ずくで来るなら、こっちはこれだ」
 銃が壊れていることを知られないように、彼は小型ライトを灯して男の目をくらませる。
「……本物か?」
「無駄な弾はつかいたくないが、お望みなら、あんたの体で試してやる」
「おまえ、こんなことをして、ただですむと……」
「思ってるさ」
 太った男は、犬のように小さくうなりながら、あとずさりしはじめた。憎悪で赤く煮えたぎったような顔を、彼にむけながら――。
 男を追ってゆっくりと進みながら、彼は男に喧嘩を売ったことを後悔しはじめた。
 男の胸に赤い蛇の刺青がわかったからだ。それは、このあたりの地域を牛耳る黒社会の構成員であることを示している。
(まあ、いいさ。どうせ……、なるようにしかならない)
 太った男は十メートルほど後退すると、そこで向きをかえた。わずかに広くなっているらしい。
「俺に銃をむけたこと、後悔させてやるぞ!」
 そう捨てゼリフを吐き、逃げるように遠ざかってゆく。
「なんなんだいったい? 最初から、たったこんだけ後退すればすむことじゃないか! バカヤロー」
 彼はそう怒鳴った。そして、銃が本物ではないことを悔やんだ。本物だったなら、彼は男へむかって発砲していただろう。
 少し広くなっているその場所まで進むと、左から女の声がした。
「バカはあなたよ。あんな男に、ケンカなんか売ったりして」
 壁に小さな丸い石戸があり、かすかに開いていた。
「言われなくても、……わかってるさ」
 そう答えると、石戸がさらに大きく開き、女の白い丸顔が覗いた。
 漆黒の大きな瞳が、まっすぐに彼を見つめる。いつか見た星のない夜空のように、彼はその漆黒の中に吸い込まれそうな気がした。
 血のように赤い唇をかすかにゆがめ、女が笑う。
「ここから入れる? 入れるなら助けてあげられるかもしれないわよ」
 突然の申し出に、彼は戸惑った。それに、ぎりぎりで穴につかえるような気もした。
 けれど――。
「……わからない。試してみよう」
 彼はそう答え、穴の中に腕を差し入れる。冷たい女の手が彼の腕を引く。
 頭を差し入れると、女の甘い香りが強く彼の鼻を刺した。
 彼は肩を斜めにして、どうにか穴に通すが、腰骨でつかえる。あと、ほんのわずかであるが、どうにも通らない。
「ダメそう?」
 ささやくように女が言う。
 女は生地の薄い、青い服を着ていた。背後からの明かりで、体の線が透けて見えた。
「いや……、待ってくれ」
 彼は体を回し、どうにか腰の通る場所をさぐる。ほんのわずかであるが、穴は楕円になっていた。そこからどうにか、彼は部屋の中へ身を収める。
(この穴、なんだかまるで……、俺の身体に合わせて作ったみたいだ……)
 ほっと息をつき、彼は部屋の低い天井を見あげた。
 これほど天井の低い部屋はめずらしい。通路ほどではないが、床に座って、どうにか頭がつかないほどの高さしかない。
 そのため天井に蛍光灯は無く、奥に置かれた小さな電気スタンドと、ノートパソコンのモニターが、薄暗く部屋の中を照らしている。
 六畳ほどの部屋だが、殺風景なほど家具が少ないため、思いのほか広く感じる。
 天井を支えているかのように壁際に並ぶ、本棚とクロゼット。パソコン用の机と赤い冷蔵庫。食器棚とその横に積まれた水瓶のケース。それだけである。
 床には、まだ竹の香りがするラグが敷かれていた。その上に丸いクッションが三つあるだけで、テーブルも無い。
 そして窓も無い。
「この部屋、少し暗すぎないか?」
「そう? 暗い方が落ちつくわ。本を読むなら、スタンドの明かりで充分だし」
 女はそう答えながら石戸を固く閉ざし、かんぬきをかける。
「どこから来たの?」
「光人街の方からさ。でも、特に決まった寝ぐらはないよ。流れ歩いているんだ」
(そう、俺は黒社会にケンカを売る、住所不定無職の男だよ)
 女が不安を抱き、すぐに追い出されることを覚悟しながら、彼はそう言った。
 けれど女は、どうでもいいことのように「ふーん、そうなの……」と答え、冷蔵庫の横にある木製の引き戸を開けた。洗い場のある二畳ほどの部屋に続いていた。洗い場といっても水道の蛇口はなく、大きな金のタライと、大量の水瓶が積んであるだけだ。
 水瓶の水でタオルを絞り、女が彼にむける。
 服の汚れを落とせ、という意味である。それを受け取って、彼はたずねた。
「ここは、どの辺なんだ? 龍城光棟の西、十八階あたりだと思うけど?」
「ちゃんとした住所なんて知らないし、覚える気もないわ。階数や番地なんて、増築や区画整理ですぐに変わってしまうんだから。それに、ダイクンストアーの裏路地にあるロウソク屋の右隣、それでちゃんと荷物が届くのよ」
 彼は汚れを落とす手を止め、地図を開いた。
「なるほど、このあたりか……」
 と、通って来た道をその地図の上に書き込む。
「もしかして、この部屋は海に面しているのかい?」
「そうよ」
 女は小さな冷蔵庫を開き、水瓶を彼にむけた。
「ありがたい」
 天井に頭をぶつけないように気をつけながら、彼はあぐらを組んで座り直し、水瓶を受け取った。栓を開き、いつものやや塩辛い水を覚悟しながら口にふくむ。しかし、中に入っていたのは無味の水だった。
「あっ、蒸留水じゃないか?」
 彼が蒸留水を口にしたのは、数週間ぶりのことだった。
 九龍城の水は、おもに井戸水である。最上階までポンプであげた井戸水を、水道管が各部屋へ運ぶ。ただし金のある者だけで、半数以上の住人は水場か水瓶屋で水を買わなくてはいけない。
 いずれにしろ、塩辛い井戸水である。海が近く、どうしても海水が地下水にまじるからだ。
 彼は水瓶のラベルを見て、それが輸入品であることを知る。
「いいのか? こんな高級なものを、俺みたいな通りすがりに飲ましても?」
 九龍城の中で作られる品はすべて安く、外の世界のおよそ半値である。だが逆は高い。いくつもの仲買の手を通るからだ。
「いいのよ。私ひとりじゃどうせ飲みきれないし」
「とっておいても、そうそう腐るものじゃない」
「気にしないで、冷蔵庫に入りきらないほどあるんだから」
 冷蔵庫の横に積まれたケースを指さす。どうやらすべて蒸留水らしい。
「じゃあ、遠慮なく……」
 喉をすべり落ちてゆく冷えた液体の感触を楽しみながら、彼は水を飲み干す。
「ねえ、もう一本どう?」
 女は微笑みながら、彼にむけて水瓶を差しだす。
 彼はうなずいて空の瓶をかえし、それを受け取る。
「極上の強いお酒もあるけど、水割りで飲まない? チーズもあるわよ」
 ふたつ返事でごちそうになりたいところだが、女の過剰な親切ぶりに彼は警戒した。
「ありがたいが、先を急いでいるんだ」
「急いでいる人が、こんな裏道を通るわけ?」
「黒社会の男たちが、俺を捜しに来るはずだ。ここでのんびりしていると、君にも迷惑がかかる」
「すぐに出る方があぶないわ。少しのんびり構えた方がいいと思うけど。それに、私があなたを匿ってるなんて、あいつら絶対に思わないし」
「どうして?」
「私を変人だと思ってるからよ」
 そう言って女が微笑む。
 罠にはまってゆくような居心地の悪さを感じながら、彼は二本めの水を半分ほど飲み、たずねる。
「……変人って?」
「あなた、警戒してるんでしょ? 私がお酒に毒を盛るとでも?」
「いや、そうじゃないけど……」
「すぐに出たいなら、外壁を伝って上の階へ行くといいわ」
 電気スタンドを手にした女が、冷蔵庫の横の引き戸を開け、右側の奥を照らす。
 彼は中腰になり、女の背後から奥を覗く。
 壁に、四角い窓のような木製の引き戸がふたつ、左右に並んでいるのが見えた。
「右の戸が、海に面した外壁へ続いているわ。でも、壁面の鉄梯子がずいぶん錆び付いてるから、うまく登れるかどうかわからないけど」
 下が海とはいえ高さがある。落ちれば確実に命はない。たとえうまく登れたとしても、上の階から中へ入れるとはかぎらない。
(壁面を登るより、黒社会に捕まってしまう方が命があるかもしれないな……)
「左の路はなんだ?」
「行き止まりよ。覗いて見ればわかるわ。鍵のかかった鉄の扉が奥にあるから」
 彼は好奇心にかられて洗い場へと出る。
 左の引き戸を少しずらして覗くが、暗くて見えない。小型ライトをつける。
 女の言ったとおり丸い扉が見えた。中央に丸い取ってのある鋼鉄製の頑丈な扉である。
 ついでに、右の引き戸を開いてみた。折れ曲がった通路の奥から、風の音とともに潮の匂いが流れて来た。まちがいなく、建物の外へ通じている。
「鋼鉄製の扉もめずらしいが、部屋から海側へ通じているのも、めずらしい」
「そうなの? 私、他の部屋のことは知らないの。これがあたりまえだと思ってたけど」
「海に面した窓や出口を作ると、そこからゴミや汚水を捨てるからだ。そう聞いてる」
「でも、私の部屋のように、ぜんぜん無いわけじゃないんでしょ?」
「俺もそう思って、十四の夏に探したことがある。建物の中から海を見る。それが目的の旅だった。食料を背負って、闇雲に通路を進んだんだ。三日も放浪したが、最初の旅では、建物の中から海を見ることができなかったよ。意外なことに誰も海へ通じている路を知らないし、関心さえないんだ」
「海なら、屋上から見れるはずよ」
「そうさ。屋上からなら見れる。誰もがそう言う。だが、それじゃダメなんだ」
「どうして?」
 彼は水を飲み干し、すねた少年のような口調でつぶやいた。
「………言っても、どうせ信じてはもらえないさ」
「そうかしら……」
 女はトレイの上にグラスをふたつ用意し、青く細長い瓶の栓を抜く。上等なスコッチの香りが、あたりに漂った。
「私、そういう話が聞きたいの。だからあなたを部屋に入れたの。これは取引よ。話を聞かせて。そうしたら、いろんな物をごちそうしてあげるわ」
 女はメニューを彼に渡し、冷蔵庫からチーズや牡蠣のオイル漬けを取り出す。
「今はこんなのしかないけど、あなたの話がおもしろければ、好きな物を好きなだけ注文していいわよ」
 チーズも牡蠣も高価な外国製である。渡されたメニューも、値のはる一流店のものだった。
「金持ちのように見えないけど、いったいなんの仕事をしてるんだ?」
「仕事は計算機で使うプログラムのデバッグよ。デバッグってわかる? 電子のムシをひとつひとつ取り除く作業よ」
「金になるのか?」
「省庁で使われている計算機のプログラムだから、わりといいわ。それに私、食べることと本を読むこと以外に興味がないから、お金をあまりつかわないの。外に出るのも、人に会うのも好きじゃないし」
 それを裏付けるように女は、絵画のヴィーナスのように丸みのあるふくよかな肉体をしている。
「なるほど。だから変人だと思われてるわけか?」
「どう? 私にあなたの話を聞かせてくれる?」
 彼はなにか、女の言葉に納得がいかなかった。話が聞きたいというのは、本心のように思える。けれど部屋に入れたのにはなにか、別の理由があるような気がしてならない。
(取引を断って、表から外へ出た方がいいのだろうか? 黒社会のあの男につかまることになったとしても……)
 返答に迷いながら部屋の中を見まわし、表の通路へ面した戸が無いことに、彼は気づいた。
「出口はどこだ? 通りに出る出口は?」
 女はくすりと笑い、タンスの引き戸を開け、さらにその奥の小窓を開いた。そこから表通路と思われる光景がわずかに覗いている。
「表通路に面しているのは、この小窓だけよ。注文やゴミ出しも、この窓を使ってるの」
「それじゃ出入り口は、こっちの石戸だけなのか?」
「そうよ」
 彼は気づいた。自分より肉付きのよい女が、抜けられる穴ではない。
「あんた、外に出ないんじゃなくて、出られなくなってるんじゃないのか?」
 女は笑いを堪えながら答える。
「そうね。そうとも言えるわね。この前の区画整理で、表に面した扉が塞がっちゃったのよ。そっちの裏口から抜けられると思ってたんだけど、ちょっと太っちゃったみたいだわ」
「どうして助けを呼ばないんだ? 裏口の穴を少し広げるくらい、簡単なことだぞ」
「助け? 必要ないわ。だって外に出る必要が全然ないんですもの」
 彼は出されたごちそうに目をむけ、うなるように言った。
「まさか俺を太らせて、ここに閉じこめる気だったのか?」
 女はくったくなく笑い、うなずいた。
「そうよ。だからたくさん食べて太って。そうしたら、あなたはここから出られなくなる。私はたくさん、あなたから話が聞ける」
 女はふたつのグラスに酒を注ぎ、蒸留水で割る。
「本気で言ってるのか? 少しくらい太ったとしても、穴をひろげればすむし、助けを呼ぶこともできるぞ」
「そうね。ちょっと浅はかな計画だったわ」
 と、女が笑う。
 彼は深く考えるのをやめた。
(まあいい。この女のおかげで命びろいしている。そのうえ、うまいものが食えるのだから、悪くない)
「つまらない話だが、それでいいなら……」
 彼はそう言ってチーズをひとつ、口に入れる。
「……うまい。九龍の工場で作っているチーズの味とは、雲泥の差だな」
「聞かせて。まず、あなたの生い立ちから。それと、どうして屋上からじゃなくて、建物の中から海を見る必要があったのか」
 女がグラスを手にして水割りを口にふくむ。それを真似るように、彼もグラスを口にした。
「俺が生まれたのは、双城棟の東、最上階近くの部屋だ。広い部屋だったが、いつも三家族で住んでいた。全員、つみれ工場の従業員さ。幼い子供までもが三交代で昼夜ずっと、つみれを丸めてた。人手が足りなくなると、俺は学校を休んで、つみれを作らされた。食事もできそこないのつみれ料理ばかりで、うんざりした。今でも、つみれは見るのも嫌だ。十五の時に家出した原因のひとつも、つみれのせいだ」
 彼が水割りを飲み干すと、女はそのグラスをうばうようにつかみ取って、酒と水を注ぐ。一杯めよりも少し濃く。
「他にどんな理由があったの? 話を続けて」
「俺たちを雇っていた工場長が、つみれ以上に嫌いだったからだ。父も母も、その男に安い金で、奴隷のようにこき使われてた。そんな両親の姿を見ているのが、俺は我慢できなくなった。それと……」
 彼は胃がふくれることにかすかな抵抗を感じながらも、ふたつめのチーズをつまみ、水割りを飲む。
 女が冷蔵庫の中から新しいチーズの包みを取りだし、先をうながす。
「それと、なに?」
「屋上の一番高い給水タンクに登ったとき、俺は見たんだ。確かに見たんだ。海側の外壁から、ガラスのように透明な階段が、空にむかって伸びているのを。半分ほど海に沈みかけた夕日を受けて、そいつはオレンジ色に光っていた。見えたのは、一分か二分の間だった。雲が夕日にかかると、虹みたいに消えてなくなった。それから毎日のように夕暮れまで給水タンクに登っていたが、見ることはなかった」
「海側の外壁から海を見ようとしたのも、そのせい?」
「そうだ。一度めは失敗したが、二度めは地図を手に入れて、外へ出られそうな場所をひとつひとつあたってみた。戸があっても鍵がかけられた場所ばかりで、意外と苦労したよ。結局、ここみたいに外に通じている部屋を見つけて、その人に頼みこんで見せてもらった」
「どうだった? 階段は見えた?」
「いや、見えなかった……」
 彼がチーズに手を伸ばすと、女がメニューを開く。
「お腹、空いてるんじゃないの? よかったら、なにか注文してよ。遠慮しなくていいわ。それとも本当に太るのが心配?」
「それじゃ、遠慮なく……」
 メニューを開き、肉のシチューと、サラダを指さす。
「これとこれを……」
「そんなんでいいの? 男なんだから、もっと食べられるでしょ? これとか、これなんかどう?」
 そう言って、三人前はありそうな骨付きソーセージと肉の盛り合わせを指さす。
(この女、本気で俺を太らせようとしているのだろうか? 俺を閉じ込めて、いったいなんになる?)
 そう不審に思いながらも、彼はうまそうな料理の写真に目を奪われ「それじゃそれを」とうなずいてしまう。
 女はすばやく注文伝票を書き、小窓から表通路へ落とした。
 それに気づいた数人の子供たちが、奇声をあげながら駆けよって来る。その伝票を店へ届けることによって、いくらかの駄賃がもらえるのである。
「さあ、続きを聞かせて」
 女に急かされ、彼は水割りで口を湿らせながら続きを話しだす。
「幻覚を見ただけだ。そんな階段なんかありはしない。皆が俺にそう言った。とくにあの工場長は、俺をキチガイあつかいした。だから家出した。階段があることを証明して、見返してやりたかった」
「それからずっと放浪しているの?」
「そうだ。それからずっと、いろんなところを点々としている。九龍の中や外で、いろんな仕事をした。嫌いな、つみれ工場で働いたこともある。すべてあの階段を調べるための資金を稼ぐためだ」
 酔いがまわったせいもある。彼は饒舌になった。いかに苦労して金を稼ぎ、調査を続けたかを女に細かく語った。
「船を借りて、海側から調べたこともある」
 流れが荒く、岩場の多い場所である。漁師でさえ近づきたがらない。それでも、彼は船を近づけさせ、下から外壁を見あげた。
 ダムのようにそびえたつ灰色の壁が広がっているだけで、彼はなにも見つけることができなかった。
「図面を買ったり、建築家たちに話を聞きに行ったこともある」
 九龍城の増改築のほとんどが、専門家の手によるものではない。海側の外壁のように、一部、国が作った部分もあるが、残された資料は皆無だった。
「軍の作った階段じゃないかと疑って、いろいろ調べたりもした」
 それが原因でスパイ容疑をかけられ、彼は幾度も取り調べを受けている。
「それでも、なにも見つからなかった」
 彼は急に暗い表情を見せ、水割りをあおると、そのまま黙りこんでしまう。
「それからどうしたの? それでもう、あきらめてしまったの?」
「あきらめてなんかいない。今だって……。けれど……」
「けれど、どうしたの?」
 また黙りこむ。
「言いにくいこと? 話したくないなら、無理に話さなくてもいいわよ」
 女が水割りを作る。
「いや、話す。それがごちそうになる条件だ」
 そう言ってグラスを受け取ると、彼は一気に半分ほどあけた。そしてグラスを置くと上着を脱ぎ、女に左肩を見せた。
「わかるか? ここにある小さな斑点が」
「刻死病?」
 数年前から流行りだした悪性の皮膚癌である。
「そうだ。今はまだ小さいのが、身体のあっちこっちにあるだけだが、いずれ全身に広がって死ぬ。俺の命はあと五年しかない」
 女は少しも驚いた様子をみせず「そう……」と、うなずく。まるで、会った時からそのことを知っていたかのように。
 ふいに、部屋の壁を叩く音が響いた。さっきの黒社会の男が捜しにきたのではないかと、彼は身構える。
「料理が来たみたいね」
 タンスの引き戸をあけ、女は表通路に面した小さな窓から、次々と料理を受け取る。
 肉、魚、野菜、果物、菓子。
 豪華な料理で部屋の床が埋め尽くされてしまうのではないかと心配になるほど、次々と料理が並ぶ。
「まちがいじゃないのか? こんなに頼んでないぞ。第一、とてもふたりじゃ食いきれない」
 引き戸が閉じられるのを確認してから、彼がそう女に言う。
「ゆっくり食べればいいわ」
「どういうつもりだ? 本当に、俺をここへ閉じこめるつもりなのか?」
 女は笑って答えず、ナイフを手に、大きな魚料理を切り分けはじめる。
「答えろ!」
 彼は怒鳴り、銃を女にむけた。
「私をそれで殺すつもり? うれしいわ。やってみて」
 女は少しも恐れる様子を見せず、微笑みながら銃口へむけて額を突き出す。
(この銃が撃てないことを知っているのだろうか? それとも……)
「どうしたの? 撃たないの? 撃たないなら、そっちの棚から皿をとって、料理を分けるから」
 彼は銃をしまい、無造作に皿をつかんで女にわたした。
「ありがとう。嫌いなものある? つみれの他に?」
 憮然としたまま、彼は答えない。
「怒ったの? あなたを太らせたくて、こんなに料理を頼んだわけじゃないわ。私が自分で食べたかっただけよ。気に入らないなら、食べなくてもいいわ。でも、話の続きは聞かせてね」
 女が料理をとりわけた皿を、彼へ突き出す。
「食べない?」
 横眼でにらんだまま手を出さなかったが、彼の腹の虫が素直に「ぐー」と応えてしまう。
 しかたなく皿を受け取り、彼は黙って食べはじめた。
 何年かぶりにありついた、豪華な食事である。彼は夢中になって食べた。
「話の続きを、聞いてもいいかしら?」
 彼の食事が一区切りついたのを見計らって、女がそう催促した。
「二年ほど前、第二光明街の地図屋に勤めた。九龍の中を歩き回って、地図を作る仕事だ。それがおもしろくて、俺はしだいに、階段のことを忘れるようになった。皆が言うように幻覚を見ただけなのかもしれない。そんなふうにも思うようになった。一年、一年、煙に覆われるみたいに、俺の頭の中で情熱が霞んでいったんだ。そのままなにも無ければ、俺は今も、あの地図屋で働いていたはずだ……」
「刻死病ね。いつ知ったの?」
「三か月前だ。あと五年の命だとわかったとたんに、俺は思いだしたんだ。あの階段のことを」
 彼は地図屋を辞め、もとの放浪生活へと戻った。
 最初にむかった先は、最初に階段を目にした給水タンクの上だった。そして、両親の住むはずの部屋だった。
 しかし、どちらも今は建て替えられて、その痕跡を残す物さえ見ることはなかった。
「なにもかも無くなってた。あの階段と同じように、俺の過去そのものが、幻覚だったみたいに消えていた。それから俺は……、最初の旅と同じだ。俺は闇雲に手がかりを探して歩き回っている。けれど、何ひとつ見つけられない。たぶん……、このまま何も見つけられずに俺は死ぬような気がする。人生なんて、そんなものだ。そうは思わないか?」
「そうかもしれないわね」
「そろそろすべてをあきらめてもいいような気もしているんだ。俺は幻覚を見た。それで、人並みに死ねる。今のままだと俺は、犬猫と同じように、どこかの路地で転がって死ぬことになる」
 彼は骨付きのソーセージをつかみあげ、かぶりつこうとしてやめた。腹が気になる。
「だいぶ腹がふくれちまった。もう、あの穴を抜けられないかもしれないな」
「そうね、そうかもしれないわ」
「いいのか?」
「なにが?」
「俺みたいな男が、いすわることになるんだぞ」
「別に……、かまわないわ」
 女の、緑菜を食むパリパリという音がやけに大きく響いた。
「どういうつもりだ? 俺は、おまえを犯すかもしれないぞ」
「抱きたいなら、抱けばいいわ。でも、乱暴はごめんよ」
 女はドレッシングに濡れた指を舐め、引き出しをあける。そして、藍色の液体の入った小瓶を取り出す。
「乱暴するようなら、これをあなたにふりかけてあげるわ。皮膚についただけで死んでしまう猛毒なんだから」
 本当なのか嘘なのか、笑いながらそう言った女の表情からは、真実が読めない。
「あんたは、男の体が欲しくて俺をこの部屋に……」
 言い終わらないうちに、料理の盛ってあった皿が彼の顔に投げつけられていた。
「バカにしないでよ!」
「……すまない」
 彼は謝り、散らばった料理を拾い集める。
「そういうつもりじゃないんだ。望まれても、俺は、あんたを抱いてやれないってことを、言いたかっただけだ」
「体に、問題でもあるの?」
「……。昔、俺がもっと若かったころ、誘われて娼婦を買ったことがある。でも、俺は買った女を抱くことができなかった。ナニがすっかりしぼんじまって、ぴくりともしないんだ」
 女がくすりと笑う。
「若かったからじゃないの?」
「そうかもしれない。でもそれ以来、好きになった女しか抱けない体になった」
「抱けない? 抱かないのまちがいじゃないの?」
「そうかもしれないが、どうでもいい。試したいという関心もない。だから、男としては不具だ」
「そうかしら。女から言わせれば、まっとうな思考をした男のように思えるけど」
「……いい加減に聞かせてくれないか。あんたの目的はなんだ? なぜ、俺をこの部屋に入れた? なぜ俺を太らせて、ここに閉じこめようとする?」
「そうね……。なぜかしら? たぶん……。あなたに、ここに居てもらいたいからよ。一生じゃなくていいわ。三日ほどで、かまわない。抱かれたいとか、愛して欲しいっていうんでもなくて……、ただ、そこにいてくれるだけでいい。そう思ったからよ」
「どうして? 俺みたいな男を? 誰でもよかったのか?」
「最初はそんな気はなかったわ。あなたの目を見て、なんとなく助けてあげたくなっただけ」
「俺の目?」
「すべてを失ったような目をしてたわ。なにも望んでいない。死人のような目。あなたを部屋に入れて、話を聞いて、私はあなたを部屋のすみに飾っておきたくなったの」
「飾ってどうする? それで満足なのか?」
 女は口を閉ざし、食べるというわけでもなく、パンをゆっくりと細かくちぎりはじめる。
「食い物を粗末にするな」
「仕方ないわ。どうせ捨てることになる。私ひとりじゃ、どうせ食べきれないんだから」
 彼は女の手をつかみ、それをやめさせる。
「いいかげん、本心を言ったらどうなんだ。なにが望みなんだ?」
「わからない……。でも、三日たったら、わかるかもしれない。あなたがどういう人間で、私がどういう人間なのか。そしてたぶん、私とあなたの心が変わる。どう変わるか、わからないけれど……」
 今にも泣き出しそうな目でそう言った女は、ふいに彼の手を振りはらう。そして、背筋を伸ばし、まるで別人のような明るい口調で言った。
「次の取引よ。三日間だけ、私とここで暮らしてみない? なにもしなくていいわ。ただ私のそばにいて、食事をして眠るだけでいいわ。私はあなたになにも求めない。どう? もう少しここで、おいしいものを好きなだけ食べたいと思わない? 三日もたてば、外であなたを待ち構えている黒社会の男たちも、あなたのことをあきらめるはずよ」
 彼はうなずく。
「悪くない。けれど、三日後には完全に太って、俺はここを出られなくなっているかもしれないぞ」
「出たいなら、穴を広げて出て行けばいいわ。出て行きたくないのなら、そのままずっとここにいればいいわ。いつまでも、あなたがいたいだけ」
「そんなことをしたら、俺はおまえを抱くかもしれないぞ」
「望むなら」
「おまえを孕ませるかもしれない」
「そのとき私が、あなたを好きになっていたなら、産むわ」
「俺の子だから、半端な人間だぞ。それでもかまわないのか?」
「半端かどうかは、その子が自分で決めることよ。私たちじゃないわ。でも、こんな心配は三日後でかまわないんじゃない? あなたは私に愛想をつかして、ここから出て行くかもしれないんだから」
「まあ、そうだな。いいだろう。とりあえず三日、ここにいよう。どうせ俺にはもう行くあてがない」
 彼はそう言いながら、腰につけたカバンを取り外す。
 女は食べ残した料理を保存するため、いくつかにまとめはじめる。
「そうだ。やっかいになるほんのお返しとして、こいつをひとつやろう」
 カバンの中から、光る小さな石をいくつか束ねた耳飾りを取り出し、女へむける。
「なに?」
「俺の今の商売道具だ。その地区でしか売ってないような商品を捜しだして安く買い、他の地区で高く売る。それが糧を得る手段だった。これをひとつやる。一番上等なのを」
「ありがとう」
 女が髪をかきあげ、左の耳へそれをつける。
「どう? 綺麗?」
「少し、曲がってる……」
 彼は、氷のように冷たい女の耳にふれながら、耳飾りを直す。
「……これでいい。なかなか綺麗だ」
 照れながら男がそう言うと、女がくすりと笑う。
「まるで結婚式みたいね。私の伯母の地区だと、花嫁になにか飾り物を贈って、花婿がつけてあげるのが結婚の儀式になってるわ」
「とりあえず、三日間の婚約だ」
「そうね。とりあえず三日間のね」
 あまりにも間近にある女の笑顔に、彼は急に気まずくなり顔をそむける。
「ねえ、教えて。もし、その階段が本当に見つかったならどうするつもりだったの?」
「登ってみるさ」
「それで?」
「それで? その先を確かめるだけだ。それが死につながる行為だとしても、俺は構わない」
 彼は遠い眼を、少年のように輝かせた。
 女は逃げるように顔をそむけて言った。
「少し、出ててくれない? あなたが寝られるように部屋の中を片付けるから。そっちの海へ通じてる通路の方へ。ついでに外の景色を見てきたらどう? もしかすると階段が見つかるかもしれないわよ」
「ああ、そうしよう。この部屋は海に通じているのがいいな。広い世界を、いつでも好きなときに好きなだけ見られるのがいい」
 そうつぶやき、彼は洗い場へと出ると、外壁へと通じる引き戸を開いた。風といっしょに、かすかに潮の匂いが流れて来る。
 ゆっくりとその通路へ這い出し、彼はすぐに気づいて女を呼んだ。
「おーい!」
「なに?」
「この路、大丈夫なのか? 腐蝕の匂いがするぞ」
 塩を含んだ風の影響で、建物の外壁が腐蝕し、くずれてしまうことがある。その腐蝕の影響で立ち入り禁止になっている場所がいくつもあったことを、彼は思いだした。
「心配ないわ。このあいだ夕陽を見たけど、なんでもなかったわよ。それでも心配なら、これを体に巻き付けて行けば?」
 女が太めの紐を彼に差しだす。
「こっちの端を柱に縛りつけておくから、腐蝕で路が崩れても安心よ」
「ああ、そうしよう。念のため」
 彼は紐を腰にまき、先へと進む。
 わずかに右へカーブしている路を、十メートルほど進むと、穴の先がみえはじめた。その穴のむこうに青い色が見えた。
(空だろうか? 海だろうか? どっちにしろ、鮮やかないい色だ)
 彼は歩みを速めた。崩れる心配はないと言った女の言葉を信じ、警戒することを忘れて。
 見えていた青が空の青であることを彼が知った次の瞬間、床が泥のように崩れだした。
 とっさに腰の紐を引いたが、まるで手応えがない。崩れはじめた外壁といっしょに、彼の体が落下しはじめる。
 遥か眼下の青い海面を目指して――。
 彼は叫びをあげ、両腕を振り回してなにかに捕まろうともがいた。しかし、床も壁も、泥をつかんだように手応えなく崩れてゆく。
 彼は死を覚悟した。
 だが――。
 床へ深くめりこんだ右手の先が硬いものをつかむ。ペンのように細い鉄柱である。いつ、へし折れても不思議のない、頼りない物だった。
 彼はそれにぶら下がり、辛うじて身を支えた。
「おーい!」
 彼は女を呼びながら、紐を左手で手繰りよせる。紐の先が、だらりと彼の腰に長く垂れ下がった。
 彼はやっと、女に騙されたことに気づく。
 腐蝕の心配はない。数日前に夕陽を見た。紐の先を柱にしばりつけておく。
 女の言葉がすべて嘘であったことを、彼は知った。
(なぜ俺を騙した? なぜ殺そうする? 俺といっしょに暮らしたかったんじゃないのか?)
 彼はなにかもが、わからなくなった。
 けれど、耳飾りをつけたときに女が見せた笑顔までもが嘘だったとは、彼にはどうしても思えない。そう思いたくもなかった。
 彼は紐を細い鉄柱に巻き付け、体を固定する。
 下から吹き上げて来る潮風が、彼の体を大きくゆらす。
「答えてくれ!」
 彼は怒鳴った。崩れかけた穴の奥へむかって。
「なぜ、俺を殺そうとする。いったいどんな得があるんだ? 答えてくれ!」
 返事はない。
「教えてくれるなら、この手を離して、死んで見せてやる。どうせ俺は、もう……。うまいものを食わせてもらった礼だ。望むなら、おまえのために死んでやろう。だから教えてくれ。おまえはなぜ、なんのために俺を殺すんだ?」
 しばらく待ってみたが、消えうせてしまったように、穴の奥からはなんの気配も感じられない。
 風の音だけが聞こえる。
 彼はため息をつき、紐に絡めた手をもちかえた。そのとき、その不可思議な物体が彼の視界に入った。
 左横、数メートル先の壁から突き出している。飴細工のように薄い透明な階段だった。
 建物の壁から垂直に十メートルほど突き出し、そこから空へむかってゆるやかにあがってゆく階段だった。どこまでも天へあがってゆくその階段の先は見えない。
 なにかに支えられているわけでもないのに、折れることも、風に揺れることもなく、空間に描かれた絵のように透明な階段がそこにあった。
(また幻覚を見ているのか? いや、幻覚でもいい。夢でもいい。これだ! 俺が見た階段はこれだ)
「教えてくれ! あの階段の先になにがあるんだ? どうやったら登れるんだ! 誰か教えてくれ!」
 彼は首を伸ばし、階段がどこから始まっているのかを知ろうとした。
 鋼鉄製の丸い扉があるのが見えた。女の部屋から、あの扉へむかって通じる路があったことを、彼は思いだした。

 どのくらいの時間を要したのか、彼にもよく分からない。腐蝕した壁を少しずつ崩し、しがみついている鉄柱と同じ物を探り出し、壁の安定している部分へ進む。
 そんなことを繰り返し、日が沈みかけた時分、彼は女の部屋へと戻った。
 部屋の中央、白いドレスで着飾った女が、眠っているように死んでいた。
 これから結婚式へ出かけようとしていたかのように――。
 かたわらに藍色の小瓶が落ちていた。
 そして、スタンドの明かりが、壁に書かれた女の遺書を示すように照らしていた。
『ごめんなさい。
 私、あなたを殺すことにしました。
 三日間の生活はきっと楽しいものになるでしょう。でも、あなたはきっと、部屋から出てゆくでしょう。あなたはきっと、あの階段の先を見に行きたいと言いだすはずです。
 わかっています。でも、もしそのとき、私があなたを本当に好きになってしまっていたなら、それはとてもつらいことです。
 寂しいおもいを、もうしたくありません。
 私、あなたと同じ刻死病です。あなたに裸を見せられないほど、酷い状態です。なんども、毒を飲んで死のうと思いました。
 でも、怖くてできませんでした。
 私はたぶん、いっしょに死んでくれる人を探していたのかもしれません。でもそれは、あなたには迷惑な話ですね。
 三つめの取引です。
 私は死にます。あなたといっしょに、死にます。そう思って死にます。母の残してくれたこのウェディングドレスを着て。
 でももし、あなたが生きてここに帰って来たなら、私の持っている全てをあげます。お金も食べ物も、全て。
 そして、鍵もわたします。あの扉を開ける鍵です。私の祖父が持っていたものです。あの道の先にどんな世界があるのか、祖父も知りませんでした。
 あなたにあげます。あなたが生きて行くのに必要な冒険の鍵です。
 少年のような目で、あの道の先へ進んでゆくあなたの姿が目に浮かびます。
 耳飾り、ありがとう。とてもうれしかった。
                                     エル』

「……そうか、まだ、名前も言ってなかったな。俺の名はレイだ。レイ・ウォン。双城棟の東、最上階近くの部屋で生まれた。父の名はラウ。母の名はリン」
 彼はそう言って、そっと、女の冷たい体を抱きしめた。
 握りしめていた女の手の中から、小さな音をたてて鍵が床に転がり落ちた。

(了)

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