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ひとりの女が夢を見る

たなかなつみ

 右に五歩、左に三歩。
 彼女が小さな声でつぶやいているのが聞こえる。それに合わせて彼女の体が動く。右に五歩、左に三歩。
 音からはずれてはだめだ。
 それは彼女のなかの小さな妄想でしかないのかもしれない。けれども、小さな頃からずっと、頭のなかの数字に耳を傾けていた彼女の体は、それに合わせて歩数を数える癖が抜けなかった。
 頭のなかで、音が鳴る。彼女はそれに合わせてつぶやく。
 右に三歩、左に六歩。
 小刻みに足を前に出しながら、彼女はつぶやき続ける。まるで呪文のようだと、彼女自身も思う。けれども、その呪文は、何ももたらさない。
 ただ、繰り返すだけ。
 とにかく、音からはずれてはだめなのだ。
 だから歩くことは、彼女に極度の集中力を強いた。誰かと笑ったり喋ったりしながら歩くことなど、彼女には考えられなかったので。自然と、彼女の周囲から人はいなくなっていった。
 それでも彼女は、その習慣を変えなかった。左に二歩、右に一歩。
 彼女は立ち止まらなかったので、そのことについてゆっくり考えることもなく、ただひたすら進むだけだった。
 音楽があれば、彼女も踊ることができたのだろうか。
 でも、そこには音楽はなかったし、だから彼女も踊ることはなかった。そもそも踊ることを彼女は知らなかった。彼女はつぶやきながら、ただ歩みを進めるだけだった。一歩、一歩。
 彼女にとって、その歩き方は自然なものだったので、何かに耐えている気にはならなかった。
 ではいったい、何が問題だったのか。そもそも、何か問題があったのだろうか。
 問題といえば、彼女の頭のなかで鳴る音こそが、問題だったのかもしれない。それは彼女が子どもの頃からずっと同じように響いており、彼女が成長してからも変わらず鳴っていた。そもそも、この音さえ鳴らなければ、彼女がこんなふうに数をかぞえながら歩くこともなかったはずなのだ。
 けれども、彼女は知っている。仮に音が鳴らなかったとしても、彼女はなんらかの方法で、数をかぞえていただろう。数をかぞえていない自分の存在を考えることは困難だ。それは、彼女にとって、生まれてこなければ、という仮定に等しい。
 それで、彼女は意味のないことだとは知りつつ、こんな問いを自分に投げかけてみる。
 もしヒトとして生まれてこなければ、どうなっていたか。
 彼女は考えてみる。ヒトでない自分。例えば、自分自身がふるえ、音を発生する装置。
 それも悪くない、と彼女は考える。わたし自身が数になる。うん、悪くない。
 けれども深くは考えない。また頭のなかで、音が鳴り出すからだ。彼女は慌てて歩き出す。右に三歩、左に二歩。そう、いつもどおりに。

 困るのよ、と彼女は言った。いつ音が鳴り出すかしれないんだもの、いつでも歩き出せるように準備をしておかないと、だから、と彼女は言った。
 だから、誰かとつきあうとか、そんなこと、考えてみたこともない。
 正面を向いてきっぱりと言い放った彼女をおもしろそうに眺めていた男は、じゃあ、と返答する。じゃあ、きみが立ち止まるときなら、ぼくたちは愛し合えるわけだね。
 彼女は困る。「愛し合う」なんて、そんな、恥ずかしい言い回しを使うなんて、と彼女は思う。けれども、そうは言わない。ただ、困って。
 彼女は歩き出す。右に三歩、左に二歩。男は黙ってついてくる。困る。
 そんなふうに、あたしを理解したふりなんかしなくてもいい。あなただって、わたしについて歩くのは、困るでしょう、あたし、まっすぐ歩かないし。
 きみは困っているんだね。男が言う。
 そう、とても、困っている。彼女が眉根を寄せる。
 そして、きみは、いま、立ち止まっている。
 そう、わたしは、いま、立ち止まっている。
 ぼくと話をするために。
 あなたと話をするために。
 違う。今は、音が途絶えているから。あたし、困るのよ、こんなことしていると、音が聞こえなくなるかもしれない。
 彼女は心底おびえた様子を見せる。男は笑う。
 聞こえなくなれば、きみは、ただ、立ち止まっていればいいだけじゃないの?
 そうかもしれないけれど、と彼女は言う。でも、そうして、もうそこから、どこにも歩き出せなくなってしまったら? それはとても怖いことでしょう?
 男は笑う。
 そうしたら、ぼくがきみを運んで歩くよ。
 やめてよ、そんなのって、すごくいや。いったいぜんたい、何なの? あなたはそうやってあたしにからむことで、何か得になるようなことがあるの?
 ぼくはただ、と男は言う。ただ、きみに触れたいと思っただけだよ。
 なぜ。
 なぜ? 触れたいと思う気持ちに、理由がいるの?
 わからない。彼女は途方にくれる。どうしたらいいかわからない。こんな男は初めてだ。
 彼女はおびえて頭を抱える。頭のなかで音が鳴る。右に二歩、左へ三歩。彼女は小刻みに足を進めるが、心ここにあらずといった調子で。何度も振り返る。男がそこに変わらずいるのを確かめるために。

 夜は、ベッドまでたどりつくのが、一苦労だ。音は、彼女の都合のいいようにだけ鳴ってくれるわけではない。何度も、ベッドに近づき、また離れ、近づいては離れ、を繰り返す。音が眠りにとりこまれて、聞こえなくなるころ、なんとかシーツにくるまって倒れ込めればいい。うまくいかない日もある。眠ることは、とても難しい。
 それでも、彼女は、頭のなかの音に耳をすますことをやめることはない。
 男は、うん、それでも、いいんじゃないのか、と言う。
 変わった人だね、あなた。やめればいいのに、とは、何回も言われたけれども、いいんじゃないかって言われたのは、初めてだよ、と彼女は言う。
 そう? だって、その音って、他の人には聞こえないんでしょう。あなたの特権みたいで、いいじゃない。そう、男は言う。
 それで彼女も、そんなものなのかな、とちょっと思う。仕方のないことだと思ったことは何度もあったが、特権だなんていうふうに考えたことはなかった。
 なんて変な人だろう、そう思い、彼女は男の顔を見る。
 何度も見ているはずなのに、それまでほとんど男の顔を記憶していなかったことに、彼女は気づく。
 でも、たぶんもう、忘れない、と思う。そして、男の、頬のなだらかなカーブに、彼女は触れたいと思う。そして、そう思う自分に、なぜ、と思う。
 なぜ? 触れたいと思う気持ちに理由がいるの?
 確かに。彼女は苦笑する。確かに理由はないねえ。触れたいから触れたいのだ。
 でも、彼女は触れたいと口に出しては言わない。それはとても、デリケートな問題だから。
 彼女はいつもと同じように歩く。右へ三歩、左へ七歩。いつもと同じ。

 男は彼女に合わせて歩く。彼女が足を止めたときに、ふたりは急いで用件を伝え合う。それは大切な用事だったり、どうでもいいようなお喋りだったりする。彼女は喋るのが得意ではなかったので、男のほうから彼女に声をかけてくることが多かった。彼女は男の声に、頷いたり、首を振ったり、違う意見を言ったりした。
 わたしとしては、すごくありがたいことだけれども、と彼女が言う。
 何が?
 つまり、あなたはわたしのテンポに合わせてくれて、わたしはわたしの動きたいように動いて、あなたをつれまわして。でもそんなのって、実際のところすごく、わがままなことじゃない?
 そうなの? いいんじゃないの? ぼくもこういうのが楽しいんだよ。
 そもそも、あなたは、どうしてあたしに近づいてきたの?
 理由、理由、理由。理由が好きだねえ。理由なんかないよ。ただ、近づきたかっただけだよ。
 すごくありがたいことだけれども、と彼女は言う。少し困惑しながら。
 音楽はないけれども、それは少しダンスのようなものだ。男が彼女に寄り添って立つ。そして進む。右へ六歩、左へ二歩。小刻みに、でもゆっくりと、彼女は男のそばに立って、歩く。こんな歩き方は初めてで、だからなんとなく不思議な感じがするのだが、そうすると妙に満ち足りた気分になるのが変だ。彼女は歩く、左へ五歩、右へ三歩。そうして立ち止まって、ゆっくりと彼の手をとる。まるでそれが自然なことのように。

 彼女はペンキ塗りの仕事をしている。それがいちばん音と暮らすのに自然だと思ったからだ。
 右へ、左へ、揺れる彼女の仕事にはムラがあって、あまり評判はよくない。それでもなんとか仕事が途切れないのは、この仕事が自分に合っているからだと彼女は思う。右へ五歩、塗る、左へ三歩、塗り直す。そんなふうに、彼女は仕事を進める。
 男は彼女の仕事中にも顔を出す。手を動かす彼女の隣で喋り、水筒のお茶を入れて渡す。男は自分の仕事については何も言わない。だから、彼女も何も聞かない。
 ときおり、この男は自分のつくった幻想ではないのかと思うことがある。
 そして、それでもいいのだと思う。
 いや、そんなことはないのだと思う。
 迷ったときは、彼女は男に触れる。男はいつも手の届くところにいて、彼女を安心させる。なぜ男がそこにいるかは問わない。ただ、触れるだけ。
 男が言う。きみの仕事は丁寧だ。
 彼女は困惑気味に、けれども、ありがとうと言う。ほめられるのは嬉しいことだ。たとえそれがお世辞でも。
 男以外の人間が彼女をほめることはないので。
 男の言葉は、いつも気だるい感じで、けれども彼女を有頂天にさせる。まるで麻薬のようだと思う。もう男を手放すことはできないだろうと彼女は思う。そして実際、男のいないあいだは不安でたまらなくなるのだ。
 彼女の生活は数をかぞえることと男に触れることとでできあがっていた。いつの間にかそうなってしまっていた。
 そして彼女は男について何も知らない。
 聞いてはいけないと思っていたのではない。ただ、聞く暇がないのだ。
 数をかぞえて、歩いて、仕事をして、食べて、寝て、起きる。そのあいだに、男と話すことは、限られる。
 あなたは何をしている人なの? そんな簡単な問いの答えも、彼女は待つことができない。左に三歩、右に二歩。歩いているあいだに、彼女は自分の発した問いを忘れる。男も何事もなかったように、立ち止まったときには新たに彼女に触れ、別の話を語りかけるのだ。
 立ち止まるたびに新しい話をすること。いつの間にかふたりのあいだにはそんな約束ができあがっている。

 セックスはことさらに難しい。
 立ち止まるごとに触れる。立ち止まっては触れる、立ち止まっては触れる。それを繰り返す。
 歩いているあいだに着ているものを脱ぐ。三歩歩くあいだに一枚、二歩歩くあいだに片袖。そのあいだにも触れる。脱いでは触れる。それを繰り返す。
 歩きながらは無理だよ。そう言う彼女に、やってみないとわからないじゃない、そう答えたのは男。
 そうして無理やりやってみる。そのあいだ数をかぞえては、彼女の足が空中を蹴る。蹴る。蹴る。
 きみを抱えたまま、ぼくが歩いてもいいけど、と男が言う。
 そんなこと言わないでよ。どうしたらいいのかなんてわかんないよ。
 だから結局、男は彼女を抱えては歩かない。彼女はただ、数をかぞえて、そのあいだじゅう空中を蹴る。蹴る。蹴る。
 それでいいなら、夜、寝るのも簡単じゃない?
 そんなこと言わないでよ。あなたが言うほど、ことは簡単じゃないのよ。
 そう言いながらも、彼女自身がわからなくなる。これでいいのかどうか、よくわからない。
 案外、抱えて歩いてもらうのもいいものなのかもしれない。そんなことも考えてみたりする。

 男との関係は、進んでいるようで進まない。ふっとひとりになるとき、彼女は怖くなる。あの人はいったい何ものなのだろう。わたしはこのままあの人といっしょにいてもいいのか。
 けれども、実際のところ、そうすることしかできない。彼女は不安を隠し、男に対して笑いかける。
 ある日、男が彼女の手を握り、少しのあいだ、旅に出るから、と言う。彼女は頷くしかできない。そうなの、いったいどこへ? 少し遠くへ。男は答える。
 帰ってくる? 彼女の問いかけに、男は笑って、当然、帰ってくるよ、と答える。どれぐらいのあいだ? それはちょっとわからない。
 帰ってくるよ。男は笑ってそう言う。なので彼女も笑って送り出す。元気でね、待っているよ。
 ひとりになったとたん、猛烈な不安にかられる。帰ってくるってあの人は言った。けれどもいったいどこへ。どこから。
 あの人はわたしがどこにいるか知っているのに、わたしはあの人がどこにいるか知らないのだ、まったく。
 けれどもその不安も長くは続かない。彼女は数をかぞえなければいけないから。右に五歩、左に一歩。断続的に訪れる休止の時間に、彼女はこれまで感じたことのない空虚さを感じる。男が帰ってくれば、この空虚さを埋め合わせることができるのだろうか。わからないわからない。
 彼女は歩みを止める。
 なんのことはない、彼女はひとりだというだけだ。これまでと同じく、これからも。今までだってずっとひとりだったのだ。そういうことなのだ。
 何も問題はない。
 彼女は深呼吸をして、また歩き始める。左に三歩、右へ二歩。


 強い風の音がしている。
 とらわれの身になったまま、男は苦悩していた。助けを呼ぶこともできない。この風では、少し先までも声は届かないだろう。
 男は壁に寄りかかり、おまじないのように数をかぞえ始める。二、三、一、五。そしてそれに合わせて歩き始める。右に二歩、左に三歩。それで助かるわけではないということはわかるのだけれども、他にできることもない。そして実際、歩いてみると安心するのだ。
 なるほど。ただ歩いてみればよかったのだ。ただ、自分で数をかぞえてみればよかったのだ。
 そして男は孤独を克服する。


 男は帰らない。右へ七歩。男は帰ってこない。左へ六歩。
 そして彼女も男を探したりしない。右へ十二歩。
 なぜ。探してみてもいいのに。左へ二十九歩。
 けれども、探さない。
 探してみて、男なんていなかったとわかるのが、怖いのだ。
 男の用意してくれたお茶、あれも自分で用意したものだったのかもしれない。男のしてくれた楽しい話、あれもどこか別のところで聞いた話だったのかもしれない。
 男なんていなかった。いなかったのだ。左へ三十三歩。
 だったらもうそろそろ立ち直ってもいいと思う。そもそも自分がつくった幻影が消えただけなのだったら、何も哀しむことはないのだと思う。
 けれども、彼女は顔中を涙でぬらし、目をはらしている。泣きながら、そして、数をかぞえることはやめない。いつまでも。左へ五十六歩。
 それで、気分が晴れるわけでもないというのはわかっているのに。
 男は帰ってこない。男は帰ってこない。左へ七十二歩。

 彼女はパスポートをとることにする。じっとしていられないので、彼女も旅に出ることにしたのだ。事務官は素っ気なく書類を手渡した。彼女は机の周囲を歩きながら、書類に記入した。目的、旅行。期間、わからない。行き先、わからない。
 足踏みを続ける彼女を、事務官はにらみつける。彼女は何年ぶりかと思う愛想笑いを浮かべて、事務官をにらみ返す。事務官は書類にサインをしてくれる。
 数日後、彼女のもとに二つ折りのパスポートがやってくる。彼女は荷物をまとめて、パスポートとともに出発する。右に三歩、左に四歩。狭い飛行機のなかで、体をすくめて、彼女は足踏みを繰り返す。右へ三歩、左へ五歩。シートベルトをおしめください。鮮やかな色のスカーフをつけた乗務員がやってきて、彼女の腰回りを探る。すみません、飛行機に乗るの、初めてなんです。彼女はそう言って、泣きそうになりながら、また愛想笑いを浮かべる。
 最初に降り立った地は、石畳の街で、彼女は思う存分、入り組んだ小道を歩き回る。左へ三十一歩。右へ五十歩。途中で、通りすがりの人から、道を聞かれる。彼女は顔を赤らめて、すみません、この街は初めてなんです、すみません、と答える。
 次に降り立った地は、土埃の街で、彼女は始終、せきとくしゃみに悩まされる。彼女はのどを守るために、大判のスカーフを買って、顔に巻く。
 初めて見る景色に、彼女の頬は紅潮する。道行く人たちの異国の装いに。目の覚めるような建物の色合いに。これが旅なのか。なんてすてきなんだろう。
 そしてなんて帰りたくないんだろう。
 今や彼女は理解したと思う。男も帰りたくなかったのだ。いったん旅に出てしまえば、もう帰りたいなどとは思わないものなのだ。今の自分にはわかると彼女は思う。
 そして、男は帰らなかった。そして、彼女は。
 わたしは、どうするのだろう。
 またあの街に帰るのだろうか。帰って、数をかぞえて、ペンキを塗り、そうしてひとりでひっそり暮らすのだろうか。
 彼女は眉根を寄せて考え込む。そのあいだも足は数に合わせるのを止めない。右へ十二歩。左へ六歩。

 逡巡した挙げ句、彼女は自分の街へと帰ってくる。おみやげにチョコレートを山のように買って。彼女は一個ずつそれを口のなかへ放り込みながら、仕事道具を片づける。捨てられるものは捨て、譲れるものは譲る。得意先に挨拶回りに行く。転職しようと思います、と彼女は告げる。相手はめんどうくさそうに挨拶をし、電話帳から彼女の名前を削除する。
 手元になにも残らなくなると、彼女はようやくゆっくりと体を伸ばし、シーツにくるまって丸くなる。これからどうしようか、と彼女は考える。自分にいったい何ができるのだろうか。
 彼女は眠る。
 夢のなかには男がいる。昔のように、彼女の隣にひっそりと座っている。彼女は夢のなかでは冗舌だ。なぜ、あなたはここにいるの。なぜ、あなたは行ってしまったの。なぜ、あなたは帰ってこないの。なぜ。なぜ。男はあいまいな笑みを浮かべるだけで、なにも答えない。
 夢のなかでは彼女は数をかぞえない。だから彼女はしっかりと男に向き合う。目をそらすのは男のほうだ。彼女は男の腕をとって、答えて、と言ってせまる。なぜ、帰ってこないの。なぜ。なぜ。
 彼女は眠る。

 戦争勃発のニュースを見たのは、新聞でだった。彼女は目を疑った。では、あの街といま戦っているというのか。あの街にいま爆弾を落としているというのか。つい最近、自分の目で見た、鮮やかな情景が思い出せるというのに。まるでひとごとのように、彼女はそのニュースを読んだ。
 彼女のもとへも戦局を伝える号外が届き始めた。彼女はそれを読み返した。何度も何度も。
 昼間は数をかぞえて歩いてまわり、夜は数をかぞえながら眠った。夢のなかに男が出てくるたび、彼女は男を問いつめた。なぜ、なぜ、なぜなの。男は答えない。

 近所の人のうわさ話で、消えた男たちが、男だけではないことを、彼女は知る。血相を変えて問いただす彼女に、人々が口々に答える。こんな時期だから。何が起こってもおかしくない。向かいの家の知り合いの人も。はす向かいの親戚も。
 彼女は焦れる。うわさ話だけでは、かれらがなぜ消えたのか、どこに行ったのかはわからない。
 何よりも、そのなかに男がいたのかどうか、確認する手だてにはならない。彼女は憤りにも似た感情を覚える。
 もしかしたら、男は自分から去ったのではなく、そう、去ったのではなく、帰りたくても帰れないのかもしれない。彼女はその考えにすがろうとする。
 彼女は男を心配するふりをする。もしかしたら危険な目にあっているかもしれないから。もしかしたらたいへんなことになっているかもしれないから。もしかしたら助けが必要なのかもしれないから。
 彼女は男を探すことに決める。

 彼女は数をかぞえながら、パスポートを申請した事務局へ行く。
 今は、渡航許可はおりないよ。事務官はそっけなくそう言う。
 いえ、そうではなく。数カ月前なんだけれども、パスポートをとりにきた男の人がいませんでしたか。
 そりゃいるだろうよ。毎日いくらかずつパスポートは渡しているよ。そのなかにその人もいただろうよ。
 黒髪の、少し伏し目がちの、なで肩の男なのですが。
 言いながら、彼女は自分の指に男の顔を感じる。じれったい。この指でなら男の表情まで知っているのに。男の体温も、男の歯も舌先まで、伝えることができるのに。
 けれども彼女は指を握りこんで続ける。年齢はわたしと同じぐらいで、背はわたしよりも少し高いぐらいなのですが。
 そりゃ、そんな人も、いただろうよ。なにしろ、毎日いくらかずつ、渡航許可を出していたからね。事務官は悠長なしゃべり方で応じる。
 それでは、なんの答えにもなっていません。わたしが知りたいのは、かれが、かれが、ここに来たのかどうかなのです。
 あいにくだけどね、と事務官は答える。そんなひとりひとりのことまでは覚えていないよ。その人を探しているのなら、ほかをあたることだね。
 彼女はもう少しで泣きそうになりながら、事務局をあとにする。

 彼女は数をかぞえながら、少し前に彼女が降り立った飛行場へ行く。
 今は、飛行機は飛んでいないよ。職員がぞんざいな口調で言う。
 いえ。あの。数カ月前に、飛行機に乗った男の人がいませんでしたか。
 そりゃたくさんいるよ。毎日何人乗せていたと思っているんだ。
 年齢はわたしと同じぐらいで、背はわたしよりも少し高いぐらいなのですが。
 あのね、そんな人はたくさんいるんだよ。そんな質問には答えられないね。
 お願いします、かれが、かれが、ここに来たのかどうか。
 あいにくだけどね、と職員は答える。それだけじゃ、こちらもなんにも答えられないよ。申し訳ないけど、よそへ行ってくれ。
 彼女は今や泣き出している。そして、なんのために男を探そうとしているのか、もうわからなくなっている。

 彼女はおまじないのように数をかぞえる。五、三、一、二。そして歩く。右に五歩、左に三歩。それでどうなるわけではないのだけれども、他にできることはなかった。そして実際、歩いてみると安心するのだ。
 音をたどると、そのうち男のところへたどりつけるだろうか。彼女は数をかぞえながら、雑踏のなかを進み、やがてそれは大きな群衆となった。
 群衆は、かたや、何ごとかを叫ぶ人がおり、かたや、太鼓を叩きながら踊る人たちがいた。手にプラカードを持つ人たちがおり、背中に刺繍の入った布を巻いている人たちがいた。
 彼女には、戦争の是非はわからなかった。だから行進に参加する気もなかったのだが、いつのまにか、そこが、彼女の歩く道になっていた。右へ六歩、左へ二歩。太鼓の叩かれる音にリズムを合わせて歩みを進めているうちに、そこにいるのが当然という気になってきた。
 彼女は叫ぶ人たちに声を合わせた。そして太鼓のリズムに身をまかせた。そのあいだも、数をかぞえるのは忘れなかった。右に五歩、左へ七歩。
 この先に男はいるのだろうか。
 この先に、男がいてもいなくても。
 彼女はすでに歩くのをやめられなくなっていたし、そもそも最初から、彼女にとっては歩くことに意味などなかったのだ。
 彼女は歩いた。やみくもに。

 夜になると、彼女は丸まり、夢に男を見た。待っている? と聞くと、あいまいな笑顔で男は答えた。どうしてわたしだったの? と問うと、待っていたからだよ、と答える。きみがぼくを待っていて、ぼくがきみを待っていたからだよ。簡単なことだよ、と。
 でもわたしはあなたを待っていなかったんだよ。
 でも今は待っているだろう?
 そう。今は、そう。あなたは? あなたはわたしを待っている?
 男はあいまいな笑顔で答えた。そしてけっして、待っているとは、答えないのだ。夢のなかでさえも。

 朝になると、彼女は数をかぞえて広場へ行き、数をかぞえてまちなかを練り歩いた。ほんとうのことを言うと、この戦争がどうなろうと知ったことではなかった。けれども、今はまるで一大事のように、戦争について語り、ハンタイ、と叫んだ。そこにいると、彼女は、男がいないことで泣いても、誰からもとがめられなかった。そんな人はまわりにいっぱいいたからだ。だから彼女は、そんな人たちとともに泣き、ともに励まし合った。安否のわからない男を待つ女の役目は、やってみると案外と彼女には楽で簡単だった。
 彼女は、宛所のない手紙を書いた。元気でやっているか、と。こちらは元気でやっているので安心してほしい、と。会いたくてたまらない、と。会いたくて会いたくて会いたくてたまらない、と。少しでもいい、顔が見たい、と。あなたに触れたい、と。触れたい、と。
 なぜ? ふと我にかえって彼女は自分に問いかけた。なぜ、こんなにも、男が恋しいのだろう。
 理由なんてないのだ。ただ、触れたいから恋しい。それだけだ。

 そして戦争は、始まったときと同じように、突然に終わる。
 行進もぱたりと終わり、男たちもみな帰ってきた。彼女の男を除いては。
 彼女は、行く場を失い、戸惑った。数をかぞえて外に出ても、もう通りはがらんとしていた。帰ってこない人のことを思い、泣く人たちもいたが、彼女はその人たちといっしょに泣く気にはならなかった。
 男が帰ってこない。ただ、帰ってこないのだ。
 そして、彼女は、またもといたところへと押し戻されている自分を感じていた。
 ひたすら空っぽな気分が、彼女を待っていた。


 男は、解き放された。解き放されたことに、男はおびえた。
 行くところはどこにもなかった。いや、そうではなく。
 行きたいと思うところが、どこにもなかった。
 今や、彼女のところさえ、男にとっては戻るところではなくなっていた。
 なぜ?
 いや、これといった理由はない。触れたいと思わなくなったので、恋しくなくなったのだ。
 それだけのことだ。


 彼女は、朝、目覚める。頭のなかで響く音に合わせて、数をかぞえ、歩く。一、二、三。朝食はあまり入らないので、牛乳をたっぷり入れたカフェオレをつくって流し込む。お湯をわかす。一、二。牛乳を注ぐ。二、三。数をかぞえながら服を着替え、彼女の朝は終わる。
 彼女は、昼、歩く。さんさんと照りつける陽光のなかを、ざんざんと降りしきる土砂降りのなかを、数をかぞえ、歩く。一、二、三。お昼はパンを買ったり、果物を買ったりしてしのぐ。数をかぞえながら小銭を探す。二、三。そろそろ貯金も限界かもしれないと思う。でもまだもう少し。三、四。
 彼女は、夜、家に戻る。脱いだ服をたらいに入れて石鹸をこすりつけ、ついでに自分の体も洗う。髪をふいたあと、もう一度カフェオレをつくり、簡単な麺料理を口に運びながら、部屋を一周する。四、五。あとは眠るだけ。六、七。
 これが彼女の一日だ。

 ある日、彼女は、家を出て、歩き出したところをつかまえられる。反戦運動の先導者として、彼女の名前が浮かびあがり、国に訴えられたのだという。
 彼女にはなんのことだかわからない。それはいったいどういうことなのでしょう。わたしはただ、数をかぞえて、歩いていただけなのだけれども。
 そしてそれは、ほんとうのことなのだけれども。
 彼女の訴えは、一笑に付される。誰も、理由なく、歩いたりはしないものなのだということを、そのとき初めて彼女は知り、心底驚く。
 彼女は困る。そして狼狽して、つい男のことを口に出す。
 名前さえ知らなかった男のことを。
 彼女と男の悲恋は、ビッグニュースとして取り上げられる。彼女はただ困る。誰も彼女の言うことを聞こうとはしない。ただ、おもしろおかしく、彼女と男との日々を、誤って伝えるだけだ。彼女は耳をふさいでうずくまる。
 今や彼女のまわりにはくろやまの人だかり。てんでに、彼女のことを責め、ほめたたえ、うらやましがり、同情する。彼女の耳には、彼女がほんとうに聞きたい頭のなかの数字以外の言葉が、否応なしに入ってくる。彼女はそんなものを聞きたくないのに。彼女はただ、数をかぞえたいだけなのに。
 彼女は泣く。

 どうして。彼女は誰を相手に問いかければよいかわからず、泣き続ける。
 どうしてわたしのそばに近づいてきたの。どうしてわたしの手をとったの。どうしてわたしの名前を呼んだの。どうしてどうしてどうして。
 答えてくれる男はいない。
 そして、実際、男がいて、その問いに答えてくれたからといって、彼女の状況に変化がないことは明らかだった。
 彼女はただ自分にないものを、ただ自分にないからという、ただそれだけの理由で、ただ。泣くのだ。
 彼女は部屋のなかから鍵をかけて、誰にも会わないようにする。すでに仕事のない彼女には、そうすることは難しくない。彼女はカーテンを引く。外からの日ざしが入らないように。自分を何ものからも守れるように。
 残った林檎をかじりながら、彼女はつぶやく。……二、三。三、四。

 そうして。

 彼女は夢のなかに男を探しに行く。夢のなかの男は、変わらず彼女に優しい。彼女は混乱しながら、男に触れ、泣く。
 彼女は数をかぞえながら眠る。一、二。そしてもう、二度と目覚めないと決める。二、三。
 そう。もっと早くにそうすべきだったのに。なぜ、こんな簡単なことが、今までできなかったのだろう。
 そして、彼女は、やっと幸せを感じたと思う。そしてそれが、彼女にとっての、真実なのだ。
 彼女は夢のなかで数をかぞえ続ける。二、三。そしてやがてそれすらも終わるときがくるだろう。
 四、五。


 けれども、男はどこかに帰らなければならなかった。帰らなければ、男はいるべきところを見いだせなかった。男は考えた。男にとっての帰るべきところ。
 男は、自分の部屋にたどりつき、服を脱いだ。
 指が、恋しがる。
 男はため息をつき、数をかぞえる。四、五、六、七。
 恋しがる指を握りこんで、男は夢のなかへと流れ出す。
 男は、夢のなかで、自分がひどく優しげに変更を加えられていることを知る。そして、それは自分の知らない男だけれども、それでもやっぱり自分なのだと思い知る。
 あのさみしげな指を、覚えているのは自分なのだ。
 男は夢のなかで、誰とは知らず自分に触れてくる手を、いとおしむ。
 そして、男は夢のなかでもう一度眠りに落ちる。深い深い眠りに。


 彼女の一日が始まる。
 彼女は、朝、目覚めない。
 彼女は、昼、目覚めない。
 彼女は、夜、目覚めない。
 そうして、彼女の一日は、終わる。

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