流れる季節と優しい時間

杉村 修

鈴木将星は、とあるギャラリーで一点の絵画に目を奪われていた。

絵画だけではない。オルゴールや南部鉄器の茶釜まで、あますことなく置いてある展示品。 そこにある作品はまさに将星の探求心を大いに満たす。このギャラリーは広くて安らげる場所。元は町が運営していた美術館であった。

展示室にカフェスペース、ホールにスタジオまで様々な環境が整っている。

そんな聖域とも言えるここを見つけたのは、彼にとっては偶然のことだった。

数ヶ月前、東京での生活をやめた将星は、実家の岩手県に戻ってきた。 年齢は二十八歳。人生も少しずつだが折り返しに近付いている。戻ってきた理由はあるといえばある。しかし、それは人には言いづらいことだった。

目の前の絵画は、ここ岩手ののどかな田園風景を描いたものである。 稲穂が金色の色彩で明るく、彼の心を魅了する。心臓が跳ね上がるような感覚に陥ると絵画から目を背けた。 作品名は『はせがけ』とあり、一昔前の稲の干し方である。 二本の木材を交差させ、その上に横木を置き稲穂を掛けていく。実際にやったことのある将星にとっては懐かしいものであった。

絵の中には他にも農作業をしている家族が描かれていた。まるで昔の将星の家族のように……

「この絵がお好きなようで」

声のした方を見ると、白髪交じりの男性が立っていた。将星は少し驚いたが、すぐに絵画に目を向ける。彼は一呼吸すると……

「ま、まあ凄い作品ですよね。モネやピカソのような芸術的な作品で! さぞかし有名な画家が!」

「この絵は私の叔父が描いたものです」

将星はその言葉を聞いて押し黙る。無知がばれた彼は、恥ずかしくて男性の方を向けなかった。 どうやら絵の作者は甥である彼に「死んだらこのギャラリーに預けてもらいたい」と言い残したらしい。

「なぜこのギャラリーだったのか……」

男性は終始ほくそ笑んでいた。

帰り道、息をのむような稲穂が将星を待っていた。 コンバインで刈り取っている風景を見ながら、彼の右手には不採用通知の紙が握られている。今回もダメだった。 あの悦に浸っていた男性の姿を思い起こす。本当のところ気持ちが悪かった。

家に帰ると母が待っていた。

「おかえり」

将星の母はスーパーでパート勤めをしている。父は自動車の整備工を生業としていた。

彼は知っている。最近母は休みをよく取るようになり、役場に行っていることを。 それも将星のことについてだ。高齢化するひきこもり、ニートに準ずるような子供を持つ親の懇談会である。 「私達が亡くなったら残された子供はどうなるのでしょう……」

不安になっている家庭は今の時代多くあるはず、将星の家庭もそうだった。彼も頑張ってはいた。 できるだけ早く職に就きたい。だが、スキルもない二十八歳を雇う会社はなく、十社目の会社に落ちた頃から親を遠ざけるようになっていた。

彼は自分の部屋に入るとドアの鍵を掛けた。机に参考書を広げ資格の勉強をはじめる。むなしいものだ。 就職活動をしながら資格の勉強、ときどきネットで趣味の小説を食い入るように見る。 これが将星の一日だった。独りで戦い独りで壊れ、希望も何もなかった。益体もないことに時間を費やす。 それでも、続けなければならない。将星の精神はもう限界に達していた。

昔の将星の家は農家だった。祖父が他界するまで、父も母も農業で利益を出そうと必死であった。 米の収穫量がよくても利益は百万にも満たず苦しい生活を送っていた。将星はそれでもよかった。 「家族みんな」が手を取り合い、「家族みんな」が笑いあっていたからだ。

あれから十年、家族の変わりようを見るにつけても、今昔の感に堪えない。また、彼は思い出から抜け出せずにいた。

「どうしてこうなったんだ! ちくしょ……」

部屋でベッドに横になり自然と声が出た。

「そういえば」

ふいにギャラリーで言われたことを思い出した。

『このギャラリーにはお客様の琴線に触れる品が必ずございます』

彼が最初にギャラリーを訪れたときに言われた言葉だ。何かが始まるのではないか? まるで何かを期待させた。

「明日も行って……みよ」

将星は眠りについた。


翌日、将星はギャラリーにいた。午前十時開店と共にギャラリーへと人が入って行く。 その人達のほとんどがどこか虚ろな目をしていた。皆、何を思ってギャラリーに来ているのだろう。 いまだにそれはわからない。なぜならいつも来ている彼でもわからないのだから。今日はどうしようか。考えていると大きな掛け時計が目に入った。

(あれ、こんなのあったっけ)

吸い寄せられるように掛け時計の元に足が進む。近くで見ると古くて大きなからくり時計だ。 どうやら動いてはいない。足が止まると夕焼け空を思い出す。あれは稲刈りが終わったときのことだ。 家に帰ると広間にある掛け時計が止まっていた。 もう何回目だろうか、電池式の時計だったので電池を替えればすぐに動き出すと思っていた。 近くにある棚から新品の電池を見つけ、入れてはみたが動き出すことはなかった。 将星は(まあいいか)と思い、稲刈りで使った作業着を脱いで洗濯場に持っていった。

洗濯は自分でするように、と言われていたので自分で洗濯をする。 夕日の斜光が広間に入った頃、戻ると時計は動いていた。近くには父がドライバーを持って立っていた。

(そうだ。このとき、僕は父さんを尊敬していた)

後のことは覚えていないが、彼にとっては懐かしい出来事だった。

「あの~」

遠慮がちに声を掛けてくる。女性が将星の右隣に立っていた。年齢は彼と同い年くらいだろう。よく見ると彼女は妊婦だった。

この町は福祉の分野では県内でも上位に入る。住みやすい町としても有名であった。 病院の誘致はもちろん、介護から、子育ての相談まで充実したサポートを得られる。そんな町に住みたいと移住してくる人達も少なくはない。

「は、はい、な、なんですか」

将星の声は裏返った。

「この時計、わたしのだったんです」

彼女は楽しむように話し出した。

話によると、この時計は彼女が結婚したときに母から譲り受けたものだという。 だが、何せ大きく古い時計なので新居に置くこともできず、事情を聞いたこのギャラリーのオーナーに引き取ってもらったそうだ。 今ではたまにこうして見に来るらしい。そんな彼女は幸せそうであった。

「あ、あなたの母親はやさしい人ですか?」

将星は唇を震わせながら質問する。彼女は一瞬目を見開き、静かに時計を見つめた。

「はい」

彼はそれを聞くと時計から離れていく。心中穏やかでない。「うらやましい」

そんな言葉が身体のあちこちから聞こえてくるような気がした。まるで指の骨を鳴らすたびにうらやましいと囁くように……

歩き始めると「コツコツ」と靴の音が鳴る。次の展示品の元に着くと彼は下を見た。

四角いケースの中に入っているのはライターだった。あいにく、将星は煙草を吸わない。 専ら吸っていたのは父のほうで、今でも時折吸っている。 祖父がまだ生きていた頃は、よく父を連れて酒を飲みに出かけていた。 帰ってくるのはいつも真夜中で、その度に将星も起こされた。その時二人はよく煙草を吸っていた。 銀製の四角いライターに煙草の箱。何度も見せられると、将星は次第に興味を持つようになっていった。

高校生の頃、友達に煙草を勧められたこともあった。非常に魅力的ではあったが、かたくなに拒否を貫いた。 大学生になり二十歳になった頃、はじめて「煙草」を吸った。頭がくらくらになり、吐き気がした。 それ以降吸っていない。だが、ライターには興味があった。男の嗜好品、その魅力は大人になってからも変わらなかった。

思い出にふけていると、いつの間にか右隣に男性が立っていた。それほど身なりの良い人には見えない。 髭を伸ばし、茶色いパーカーを着込んだ男性の姿はまるでひきこもりのようだった。

「じつはこのライター、弟の物なんです」

男性は問わず語りを始める。

「よくできた弟でして、東京の大学まで行って公務員になったんです」

将星がそんな男性の顔を見ると、何かをゆっくりと思い出すかのように笑っていた。 将星には兄がいた。三人兄弟で兄二人に最後に将星、二人の兄はともに優秀で、 現在ひとりは大手の電機メーカー、もうひとりは銀行に勤めている。 将星にとってはどちらも尊敬する二人の兄だった。二人とも、もちろん結婚しており幸せそうに暮らしている。

ふと横を見ると男性はいなくなっていた。いつ話が終わったのだろう。将星が腕時計を見ると、ギャラリーに来てからすでに二時間ほど経っていた。

(そろそろ出よう)

彼は外へと向かい歩き始める。不思議なことに展示品の場所は毎日変わる。 飽きさせないためだろうか。いつのまにか展示されている物も変わっていることがある。なので毎日来ても楽しめた。


外に出ると雨が降っていた。今日の天気予報では晴れだったはず。(しかたない)

彼は手提げ鞄から携帯傘を取り出すと、やおら歩き始めた。

(今日はいつもと違う道で帰ろう)

将星にはこういうわからないところがあった。一つのことに集中していると思ったら、突然別のことをやり始める。よく親からしかられていた。

雨が傘にあたる度に心地よい音が鳴る。昔から好きだった。 公園の前を通り過ぎようとしたとき、女性が傘も差さずに自販機の前で立っていた。どうやら泣いているようだった。 雨の音に必死に負けないように、はき出すように泣いていた。将星はそっと近づき傘を差しだした。

「濡れてますよ」

この世界は、リズムとタイミングでできていると彼は思う。 雨の音だって脈打つ心臓の音だって、規則的なリズムによって奏でられる。リズムがなかったら世界はどうなっていただろうか。想像はつかない。

「わたし、馬鹿ですよね」

そして、タイミングだ。彼女は泣いている。そこに傘を差しだした。心地のよい雨の音と共に……

この公園には休憩所が設けられている。将星と彼女はそこに入ることにした。 畳のある和室、椅子とテーブルのある休憩スペース、彼女は濡れていたので椅子のある休憩スペースに入った。 中には誰もいなかった。将星は缶コーヒーを買い、座っている彼女にそれを渡す。

「ありがとうございます」

彼女はそれを受け取ると、勢いよくプルタブを開き一気に飲み干した。将星は唖然とした。

「わたし、里香っていいます」

「えっ?」

「斉藤里香。名前です。職業は医療関係。あ~好きな動物は猫です。それから、漫画やアニメが好きです。よく見るのは~」

「あの……」

「はい?」

「も、もしかして、婚活中ですか?」

「そうですが? 何か?」

「い、いえ! 何でもございませんです。はい……」

「ところで、名前は?」

「な、名前は鈴木将星です」

「将星さんですね」

将星の時間が高速で回りだす。変化のない日常が、憂鬱な日常が、こうもいとも簡単に壊されるなんて思いもしなかった。 正直、心を揺さぶられた。いままで話したことのない女性である。 学生時代、社会人時代にも確かにこういう女性はいた。だが関わることはなかった。彼女はまたひとりで話し出す。

「実は彼氏に振られちゃって」

と、泣くこともあれば、

「あいつのせいで男取られて、ああもう!」

と、怒りだしては、

「何もやってないんですよ! うわああ」

と、泣き出すこともあれば、

「でね~面白いのが!」

と、笑い出す。

そんな彼女を見ていると将星は自然と笑っていた。

「はい、連絡先です」

彼女は将星に紙を渡した。

「わたしのサブアドレスです。いつでもいいのでメールしてきてください」

外を見ると、いつのまにか雲の隙間から光が差し込んでいた。雨が上がったようだ。

「それでは! 将星さん!」

よかった。将星の心にも晴れ間が覗いていた。


翌日、将星はギャラリーが休みなので家で履歴書を書いていた。アルバイトを始めるつもりだ。 ホームセンターの品出しである。最近出来たばかりのホームセンターだった。 パソコンで書いていると「メール」のアイコンが光るのが目に入った。 開いてみると里香からである。将星は緊張した。そこには彼女からのたわいもない日常が綴ってあった。 昨日のお礼と、飼っている猫のこと、それに「ギャラリー」のこと。

静かにノートパソコンを閉じると彼は背伸びをする。

「そういえば、いつぶりだろう。本気で笑ったのは」

昔のことを思い出す。あれは確か家族で水族館に行ったときだ。

「こっちだよ!」

誰かに手を引かれる。女の子だった。幼い将星はその子に手をしっかり握られて走り出す。将星はうれしくて笑っていた。

懐かしさがこみ上げる。だれだっけ、あの子は。

「ダメだ、寝よ」

将星は立ち上がりベッドにたどり着くと、すぐに眠りに入った。


「おはよう、将星さん」

公園の休憩所、そこの椅子にはピンク色のコートを着込んだ里香がいた。

「す、少し遅れて、すみません!」

「いえいえ、わたしも今来たところですから」

里香は二十七歳で透き通った目をしている。セミロングの髪型がよく似合う綺麗な女性だ。 彼女の生まれは秋田である。なるほど秋田美人とはこのことかと将星は思った。 話によると仕事の関係でこちらに来たらしい。現在は一人暮らしで生活をしているという話だ。

「行きましょうか?」

将星達は休憩所を出て歩き始める。今日の目的の場所はギャラリーだ。 どうやら里香は、あのギャラリーのことが気になるらしい。 歩いている途中は彼女の愚痴をずっと聞かされていた。 それに対して彼は相づちを打つ。その姿はまるで会社の先輩と後輩のようであった。 決して恋人同士には見えないだろう。なぜなら彼女はとにかく声を張って話していたからだ。少し恥ずかしい。将星は赤面する。

「どうしたんですか? 将星さん」

「あの……いえ、なんだかうれしそうに見えて」

彼女の顔はまるで紅葉を散らしたようだった。

歩いていると、もう秋であると感じさせる。公園からギャラリーまで続く道路にはイチョウの樹が等間隔でまっすぐ並んでいる。 近くには橋がある。小さな橋だ。

そこは紅葉スポットになっており、観光客が写真を撮りに集まっている。将星と里香はその光景を見ながら橋を渡る。

「葉っぱさんは有名人ね」

彼女は笑みを浮かべていた。

ギャラリーは林の中にある。観光客はあまり訪れない。なぜなら少し離れてはいるが「道の駅」のほうに向かうからだ。

「入りましょうか」

将星は彼女をエスコートする。「ありがとう」と彼女は言った。中に入ると、静かな空間が待ち受ける。 すでに何人かの客がいた。彼らは展示品をひとつひとつじっくりと見ている。何を思っているのだろうか。 将星は初めてここを訪れたとき、涙が溢れ出した。なぜだろう。それは不思議だった。 心の汚い部分が洗い流される。そんな気さえした。あれは東京から帰ってきたあとなので、 ガチガチになっている緊張をほぐしてくれたのだろう。そのとき見た展示品は確か……

「これ……」

彼女は絵画の前に立つ。作品名は『都会』。それは昭和の古き時代を描いた作品だった。 ビルなんて建っていない。木造立ての家屋が数軒並んでおり雪が舞っていた。 その雪がまた鮮やかで、ピンクやら黄色やらの色が混じっている。なんともいえぬ美しさに里香は息をのんだ。

「ふ、不思議ですよね。まるでどこかで見たような。そ、そんな気がします」

将星は客の邪魔にならないよう小声で答えた。『都会』はふたりの心の隙間を埋め、感情を揺さぶる。 彼女は何を思ったのか絵に触れようとした。しかし、途中で意識が戻ったのか両腕を下げる。

「ごめんなさい」

里香は一言呟くとハンカチを取り出し涙を拭いた。

「ははは、おかしいですよね。わたし……」

彼女は近くにある長椅子に腰掛ける。泣きながら笑っている彼女はひどく美しかった。

「あ……」

将星は何かを言いかける。だが、声が出ない。

(ここで、言わなきゃ)

彼は思って拳を作った。

「そ、そんなこと、全然ありません! 僕なんてここに来たときはいつも、ウミガメの産卵のように号泣してますから!」

将星は頭が真っ白になった。

「……」

彼女は突然のことで目を丸くした。一時の静寂。それから里香の口元がゆるんだ。

「ふっ、変な人ね」

里香は笑う。周りの客はそんなふたりの様子を静かに見守っていた。

将星は初めてこのギャラリーで泣いたことを思い出す。確か見たのは「壊れたヒーロー人形」だった。 右腕と左足が無かった。幼い頃、そのヒーローが好きだった。 歯医者に行ったとき「何か一つおもちゃをあげるわ」と言われた。 将星はダンボールいっぱいにあったおもちゃの中から、同じように腕がとれてしまった人形を選んだ。 「これでいいの?」と苦笑いされたが、彼はこくっと頷いた。 子供のころから好きな物は好きと、かたくなに決めていた。 それから数年、その人形は将星の友達になってくれた。うれしかった。初めての友達だった。

あるとき、それを持って公園に出かけた。その人形と遊んでいると突然、大きい犬が現れた。 彼は恐怖したことを今でも覚えている。何もできなかった。だけど友達はまるで本物のヒーローのように助けてくれた。 犬はヒーローに噛みつき、その場からいなくなる。ヒーローは戻ってこなかった。その晩、将星は泣いた。

「それじゃあ、行きましょ?」

過去を思い返していると、里香から話しかけられる。彼はこくっと頷くと、一緒に次の展示品に向かって歩き出した。 現在ギャラリーには人があまりいない。今日は運が良い。いつもなら人が混んでくる時間帯だからだ。 クラシックなBGMが流れるその空間は、まるで彼らのために用意してあるような気もした。

次の展示品はカラスの剥製である。

「こんな物まで置いてあるのね」

彼女はカラスの前に立つと「カアっ」と鳴いた。それに対し将星は笑ってしまう。

「なに? そんなに笑うとこ?」

彼女は不機嫌な顔をする。

「いえ、ただ……本当に自由な人だなと思って」

将星にとって里香は不思議な人間だった。それは今では好意へと変わろうとしている。 彼女は「なにそれ」と笑い出す。そんな彼女の笑顔は彼の心を満たしてくれた。 将星にとってギャラリーは、思い出の箱を開いてくれる鍵である。彼はここで何かを思い出そうとしていた。あと少しで何かがわかるはずである。

「今日はこの辺にしましょ?」

彼女は陶器の展示品の前で彼に伝えた。残り惜しいが、ギャラリーの出入り口まで歩いて行く。外に出ると乾いた空気が彼の頬を伝う。

「今日はありがとう」

「こ、こちらこそありがとうございます」

里香は来た道とは逆方向に歩いて行く。里香が歩いて行く先は確か山だったはず。 キノコ狩りでもして帰るつもりだろうか。将星は少し迷ったが声をかけることにした。

「あ、あの!」

「なに?」

彼女は後ろを振り返る。それはまるで貴婦人のようであった。

「そっち……山です」

里香は走って戻って来る。その顔は真っ赤だ。

「そういうのは先に言って」

「す! すみません!」

ふたりは一緒に帰ることにした。そういえば昔もこんなことがあったっけ。蘇ってくる映像。それは女の子が泣いている姿だった。

「ほうこうおんちなんだから。おれの手をはなすなよ!」

ふたりは手を繋ぎ夕日の中を歩く……

将星は自分にも男らしいところがあったんだな、と口を少しだけゆるませる。

(あのあとはどうなったんだっけ)

彼は思い出そうとする。

(そうだカラスが襲ってきたんだ。近くにあった棒で追い返してそれで……)

「ねえ」

「はい?」

「駅ってあっちよね?」

彼女は標識を指さした。駅の名前が大きく載っている。ここまでくれば大丈夫だろう。彼はそう思うと、彼女の手を離した。

手を? 離す? 

「あっ」

将星は慌てふためいた。それを見て彼女は笑みを見せる。

「す、すみません!」

「意外と大胆ですね」

里香は意地悪なことを言う。まさか思い出に浸っているときにそのまま手を握ってしまうなんて思いも寄らなかった。 そして彼女は駅へと向かう道を歩き始める。そういえば彼女はどうやってここまで来たのだろう。

その時ちょうどタクシーが通った。タクシーは里香の前で止まる。すると将星に手を振って乗りこんだ。

「なるほどタクシーか」

お金のない自分にとっては無縁だろう。彼はタクシーの後ろ姿をいつまでも見つめていた。

家に帰ると企業から通知が届いていた。はたして採用されただろうか……綺麗に封を切り、中を見る。「この度は……」

また落ちた。嫌気がさす。これでもう何社目だろうか。将星の目から涙がこぼれ落ちる。 どうして、なぜ、こんな言葉しか出てこない。社会からお前はいらないと否定される。悔しかった。 働いては駄目なのだろうか。生きてはいけないのだろうか。 ひとしきり泣き終わると机に移動して資格の勉強を始めた。試験日は今月である。将星には泣いている時間などなかった。


将星の趣味の一つは小説を読むことだ。最近は電子書籍の小説をたまに読んだりする程度だが、時折書店に訪れて紙の本を購入したりする。

今日は市の書店に来ていた。ここは地元の有名な書店で、郷土に関する本を大切に扱ってくれる書店だった。 中に入ると新刊書籍が置いてある。大きなPOPが目を引いた。どうやら有名な文学賞を受賞している小説のようで大変興味をそそられる。

その本を横目で見ながら、次に資格書コーナーに向かった。 合格を目指している資格の市販模試を手に取る。これが試験前、最後の問題集になるだろう。しっかりと吟味して選んだ。

自分の人生を少しでも変えたい。そう願って……

それともう一冊、やはり気になったのか、新刊コーナーの前でうろうろしてしまう。

(買おうか、買うまいか、どうしよう)

将星は落ちつきがなく、周りから見たらまるで不審者のようだ。そんな姿を店員に見られていたのか、将星の近くまで寄ってきて、

「なにかお探しですか」

と、声を掛けられた。

「す、すみません!」

なぜか謝ってしまった。

結局その小説も買ってしまった将星は、重い溜息を吐いた。

(絶対に試験が終わるまで読まないことにしよう)

こちらは固く心に誓った。

帰る途中、空はいつのまにか暗くなっていた。街灯の光で腕時計を見る。

「もうこんな時間か」

将星は駅まで歩き始める。この時期は日が沈むと、もう寒い。 周りを見ながら歩いていると、賑やかな飲み屋街へと姿を変えていた。仕事帰りの会社員がどんどん増えていく。

「あっ」

ふと気がついて将星の足が止まった。

「またか……」

将星は怖くなってしまった。「妄想」である。もしかして、親戚に出会うのではないか。 昔の友人に出会ってしまうのではないかと考えてしまう。 「今、将星は何やってるんだ?」そう聞かれた時、なんと応えればいいんだ……すっかり悪魔に取り憑かれてしまう。 自分を蔑む声が頭の中に響き始めた。

「くそ」

とにかく駅まで走った。薬を飲んでこなかった。そんな将星は病気だった。薬を飲んでいれば、ある程度は普通に生活はできた。

しかし、薬を服用しないでいると症状が出始め、やがて心をむしばんでいく。

人には言いづらいこと……

『統合失調症』

彼は苦しかった。


「それでは、始めてください」

将星はシャープペンを持ち、解答用紙に記入していく。問題用紙を広げていく音と書き込んでいく音。 静寂。彼は頭の中から必要な記憶をひとつひとつ拾い上げていく。

数時間後、彼はシャープペンを置いた。解答用紙を教壇に控える試験官の元に持っていく。

「お疲れ様です」

と言われ、息を吐いた。席まで戻ると筆記用具を手提げ鞄の中に入れ、試験会場から出て行く。

市の天気は晴れ。歩いていると小腹が空き、途中でラーメン屋に寄った。この時間帯は中途半端で人はあまりいなかった。 食券を買うとカウンターに座る。ラーメンが出て来る間、問題用紙に書いた答えを射るように見ていた。

家に帰ると真っ先に自分の部屋へと向かう。入るとベッドに横たわった。

「疲れた」

将星は夢の中に落ちた……

目が覚めると朝だった。どうやらかなりの時間眠っていたらしい。 将星は起き上がると、シャワーを浴びに浴室へと向かった。 部屋に戻ってくると、インターネットに出ている解答速報を見て答え合わせをする。将星の目の色が変わる。

「よし」

彼はしっかりと拳を握りしめた。


今日もギャラリーは開いている。将星は中に入り、見渡してみると珍しく商談スペースに人がいた。 年配の男性だった。そういえばここのオーナーはどんな人だろう。 店員とは何度か会ったことがあるが、オーナーは商談がないかぎり、いつも外出中という話だ。 今日はいるのだろうか。将星はしばらくその場に立って様子を見ていた。

(来た)

パーテーションから人が出てくる。

「あれ?」

その人は将星のよく知る人物であった。

待っていると、どうやら商談が終わったらしい。男性は幸せな顔でギャラリーを出て行った。将星はそれを見て彼女に近づいた。

「里香さん?」

呼ぶと彼女は振り返った。すると少しだけ驚いた様子であったが、彼の元に歩いてくる。

「将星さん」

彼女はいたずらがばれてしまった子供のように笑う。話によると最近ここのギャラリーに転職したらしい。 ここの前オーナーは彼女の父という話だった。 その父は末期の癌だったゆえ、彼女がギャラリーの新しいオーナーになった。将星はそれを聞いてオーナーがいない理由がわかった。

「ゆっくりしていってくださいね」

頭を下げると彼女はその場から離れていく。


「わたし、しょうらいはお父さんのおしごとをつぐの!」

「どんなしごと?」

「ぎゃらりーっていうんだって!」

思い出の女の子はうれしそうだった。

「あ、あの!」

彼女は将星の声が耳に入ったのか振り向いた。

「あなたの夢は叶いましたか?」

彼は里香に問いかける。すると少し考えてから、

「はい」

彼女はうれしそうに答えた。

将星はギャラリーの中を歩く。少し来なかっただけなのに周りの展示品はほとんどが変わっている。 少し寂しくもあり、だけど期待もあった。ゆっくりと歩いていると手紙が飾ってあった。 下の方にパネルがある。どんな内容が書いてあるのか。将星は気になったので読むことにした。


わたしのしょうらいのゆめ。わたしはしょうらいお父さんのぎゃらりーではたらきたいです。 わたしのたいせつなゆめ。さいきんぎゃらりーにあそびにいくと、ともだちのおとこのこがいました。 とてもさみしそうでした。だからわたしはこういいました。 あなたのよろこぶ絵や、おもちゃをたくさんおくね。だからたのしみにしててください。


夢、それは今の彼には無いものだった。いつ無くしたんだろう。昔は漫画家になりたいとか、ゲームを作る人になりたいとかいっぱいあったのに……

将星は歩いて次の展示品に向かう。そこには鏡が置いてあった。

「これが二十八歳の顔か」

鏡に映る自分を見て何故か少し笑ってしまう。そして、涙の痕に気づく。

「あれ? なんでこんなに泣いてるんだろう」

手紙のせいだろうか。それともこの鏡のせいだろうか。将星にはわからなかった。 ただ思い出がどんどん溢れてくる。そしていつものように泣いてしまう。思い出したいあの子の名前は確か……

将星は喫茶店までの道のりを歩いていた。今日は紅茶を飲んで帰るつもりでいる。

「そろそろ冬か」

彼は一人呟くと、今来た道を振り返る。見ると紅葉の季節が終わり街路樹の下に落ちた葉は、いつのまにか枯葉となっている。 考えごとをしているうちに喫茶店へと着いた。中に入ると温かい、ほっとする空間が待っていた。 一人なのでカウンター席に座ると、さっそく紅茶とショコラを頼んだ。

「かしこまりました」

店員はゆったりとした足取りで戻っていく。ふいに彼女の顔が脳裏をかすめる。

「たぶんそうだ」

次に会うときの言葉を決めた。

家に戻ると、また部屋にこもる。両親はこんな自分をどう思っているのだろうか。少し考えたが、結局はどうでもいいという結論にたどり着く。

そして今日は早めに寝るつもりでいた。そんなときだ……

「将星、ちょっといいかしら」

珍しく母が将星を呼ぶ。すぐに部屋のドアを開いた。

「悪いわね」

母は喪服に着替えていた。将星はそれを見て後ろへ一歩下がった。

「どうしたの?」

「斉藤さんは知ってる?」

「いや知らないけど」

斉藤さん? ひとしきり考えても何も出てこなかった。

「そう、まあいいわ。あなたがいつも行ってるギャラリーの元オーナーさんなんだけど……」

「えっ?」

彼の頭は真っ白になる。斉藤……将星はここにきて気がついた。

「亡くなったから、通夜に行かなきゃならないの。留守番頼めるわよね」

「あ、ああ」

「じゃあ、行ってくるから」

「母さん!」

「何?」

母は階段の前で振り向いた。

「その人と母さん達はどういう関係なの?」

「忘れちゃったの? 昔。一緒に遊んでたじゃない。里香ちゃんと玲佳ちゃんと」

「里香ちゃんと玲佳ちゃん?」

「あんたの双子の幼なじみよ。玲佳ちゃんは数年前に心臓の病気で亡くなったけどね……」

将星は言葉を失った。

違和感はこれだった。彼には同じ姿の女の子の思い出が二つあった。 一つは将星が手を引っ張って走る思い出。もう一つは将星が女の子の手に引かれて走る思い出。

あの子達は確かに双子だ。初めて出会ったのは小学校二年生の夏休みだった。

「将星、新しい友達が増えるぞ」

と、父は喜んでいた。

当時、将星は友達が増えていくことに喜びを感じていた。

「父さんふたごって何?」

父は困った表情をする。このくらいの年の子に説明するには難しかったのだろう。

「とっても大事な家族だよ」

と、教えてくれた。そして夏休みに入ってすぐの頃、その子達は将星の家にやってきた。

「こんにちは!」

「こ、こん。こんにちは」

ひとりは活発そうな女の子、もうひとりはおとなしそうな女の子だった。 新しい友達が出来ると喜んでいた将星だが、ふたりを見た瞬間そんなことも忘れ「あまりにも似た顔」にただ呆然としていた。

それから将星達は夏休みの間、一ヶ月あまりを共に過ごした。 夜はお泊まり会のようで毎日が楽しかった。ある時、水族館に行った。そこで迷子になったのを思い出す。 赤い魚を見ていたらいつの間にか家族みんなに置いて行かれ、泣いてしまった。 誰も助けてくれない。そんなときヒーローが現れた。活発な女の子、双子のひとりだった。 彼女は将星の手を引き走り出す。うれしかった。彼は腕で涙を拭いた。

ある時、迷子になった女の子を見つけた。公園で泣いていたその子はおとなしそうな双子のひとりだった。 やっとみつけた。家では大騒ぎになっていた。「里香ちゃん」がいなくなった。 それは彼女達との夏休みが終わりを告げ、地元の秋田へと帰る直前であった。 突然いなくなってしまったものだから、将星も内緒で彼女を捜しに家を出た。どこだろう。 彼は小さな歩幅で走った。公園も、河川敷も見た。カブトムシを取りにいった橋も見た。

「くそ」

悔しかった。もう一度同じ所をまわる。「いた!」公園のブランコに腰掛けている女の子を見つけた。

「いくよ。りかちゃん」

そう近付いて彼女の手を引き走り出す。将星に迷いはなかった。

(そうだ、僕は「ヒーロー」になりたかったんだ)

やっと自分の夢を思い出した。果たして彼は大人になってヒーローになれたのだろうか。いや……

昔の自分が見たら幻滅するに違いない。将星はひとり、部屋で佇んでいた。しかし、その目にはしっかりと光が宿っていた。


ここ数日の朝は非常に冷え込んでいる。風が吹きあれ、冬の訪れを感じさせた。 今日はおよそ一週間ぶりにギャラリーへと向かう準備を始める。最近は面接などで忙しかった。 鞄の中には財布とスマートフォン、ハンカチにティッシュ、それと薬を入れている。

準備ができると家から出た。やはり外は寒い。歩き始めて三十分、やっと街路樹まで来た。 すでに葉は落ち、枝が凍っているのがわかる。歩いている人達はみんなマスクをしていた。 ほとんどは予防のためや実際に風邪をひいている人達であろう。 ただ、どうにもマスクをしないと落ち着かない人も多いと聞く。そう言う人達は精神的な問題なのだろうか。彼にはわからない。

最近将星は資格を取った。法務や経営の役に立つ資格である。親も喜んでくれた。 仕事はまだ決まっていないが、資格をいかせる仕事に就くつもりだ。少しずつだけど前に向かって歩いているそんな気がしている。

足音を鳴らしながら道路を歩く。途中コンビニに寄って温かいお茶を買う。それを飲みながらまた歩き出す。ゆっくりと一歩一歩……

ふと見上げると雪が降ってきた。

「雪か……」

彼は呟いた。

周りの景色は冬へと様変わりしている。十二月になってグッと冷え込むようになった。 周りの様子を見ると、車の通りもまばらであった。 橋の近くまで来ると、紅葉の時期にいた多くの観光客もいなくなっていた。 少し寂しい気もするが冬であるのでしかたがない。岩手の冬はとにかく厳しい。それは十一月頃からすでに始まっていた。

いつの間にか将星はギャラリーの前にいる。午前十時、扉を開けに女性が現れた。

「おはようございます」

将星は彼女に挨拶をした。

「おはようございます。で?」

「えっ」

「ギャラリーの中であんな恥ずかしいことができるなんて……ありえない」

「そのセリフ、何度目ですか?」

彼女は頬を染め、将星は乾いた声で笑う。

なぜなら先日、ギャラリーの中でいきなり将星が里香に告白をしたからだ。それも大声で。

里香はその後、裏から出てこられなくなった。それからほどなくして、ふたりは恋人同士になる。 告白の時に、伝えた病気のことも彼女は受け入れてくれた。 あとでそのことを訊くと、「隠さないで素直に話してくれたことが嬉しかったの」と笑顔をみせて話してくれた。

最近は宮沢賢治や石川啄木に縁のある観光地をめぐっている。主に歌碑などが目当てである。 花巻はもちろん岩手中。まるで宝探しのようで楽しんでいる。ある時はわんこそばにも挑戦した。

「今日は何かお探しで?」

「おすすめの絵が見たいです」

しかし、問題は山積みだ。将星は病気の治療法や仕事を見つけなくてはならない。 里香も里香で、仕事を覚えなくてはならない。結婚なんてまだ先の話だろう。

「でしたらこちらに、おすすめの絵画がございます」

彼女は前を歩き始める。将星は後ろからついていった。また変わったなと展示品を眺める。 ギャラリーの中はめまぐるしくどんどん変わっていく。まるで時代の移り変わりを高速で見ているようだ。 将星はこのギャラリーに救われたと思っている。東京から戻ってきたとき、自分の人生は終わったと思っていた。 そんな将星に居場所を与えてくれたのがここだった。

よく考えたら懐かしい物、自分が気になった物があったら、それを覚えているのは当たり前である。 思い出は美化されて当分の間は記憶に残る。ほとんど毎日訪れて、あれだけ泣いていれば思い出になる品も中にはあるはずだ。 特に展示品がどんどん変わっていくこのギャラリーでは、興味の無いものはすぐに忘れてしまう。 その分自分の中では、新しく入ってくる作品が順位をつけるように記憶に定着する。

『このギャラリーにはお客様の琴線に触れる品が必ずございます』

とは当たり前のことで、あとから思い出してみると「やっぱりその通りだ」と感心してしまう。

これを「琴線に触れる品」というのだから商売上手だ。 客はいつの間にか、頭の中で好きな展示品を選んでギャラリーを作ってしまった様な感覚を味わう。そうなると、もうギャラリーのとりこである。

このギャラリーは不思議だ。休み明けには作品はほとんど変わっている。

それはどこから来てどこに向かうのであろうか。

将星はふと窓から差し込む光を見る。外に目を向けるとどうやら雪はやんだようだ。

「どうしました?」

里香は足が止まった将星のことを見つめていた。するとギャラリー内にクラシックなBGMが流れ始める。

「いえ」

そして将星は、止まった足をまた一歩踏み出した。


月日は流れて、三月。この土地にもゆっくりと春が近づいてきた。

そして、将星がこのギャラリーで働くようになって二カ月が過ぎようとしていた。

「将星? 今日Aー2を利用するアーティストさんがいらっしゃるから対応お願いね」

「了解です」

受付でチケットの枚数を数えていた彼は、腰を下ろした。

それを見ると里香は笑みを浮かべ去っていく。将星は言わば新入社員だ。やれる仕事も限られている。 受付、事務、カフェのスタッフ。どれも退屈なものだが、そつなくこなしていた。

今日も朝から階段や通路を掃除している。さきほど受付作業をし始めたばかりだった。

入社して初めて気づいたこともある。それはこのギャラリーは様々な外部スタッフが出入りするということだ。 展示会の作品を搬入作業をする人もいれば、カフェでコーヒーや軽食を作る人もいる。 将星は入社するまで気にも留めていなかったが意外とこのギャラリーに関わる人は多かった。

午前の十時半。そろそろ今日のアーティストがやってくる。このギャラリーで個展を開きたい人は結構いる。 ホームページでの宣伝や新聞に広告を載せたり、里香がオーナーになってからはメディアへの露出も多くなった。 それを見たり聞いたりして問い合わせ電話やメールも多くなっていた。

将星は里香が置いていったプロフィール書類に目を通す。どうやら美大を出たばかりの新人の画家らしい。 夢を追いかける若者。将星にもそんな時代があった。少し思い出してクスリと笑う。

「それにしても……」

今日は人が少ない。

いつもなら、常連の客が何人かいるはずだがその人たちもいない。

将星は少し上の空になっていると、

「あの~」

(はあ~)

「あの!」

将星の脳内にきーんと声が響いた。

「は、はい!」

よく見ると、ショートボブの髪型とこの季節に合った白のスカート、シャツ。

そしてグレーのコートを着た女性が不満そうな顔で立っていた。

「今日の十時半から打ち合わせで来ました。春日ハルです」

「少々お待ちください」

将星は内線で里香につなげる。

『わかったわ。客室まで案内してちょうだい』

「わかりました」

内線電話を置くとさっそく彼女のことを案内する。

「里香さんは?」

「客室まで案内していただくようにと言われたのでご案内します」

将星はアルバイトに受付を任せ彼女を案内する。

鍵を裏の部屋から取り出して、一緒に歩きだす。

「ありがと……あ」

「危ない!」

将星は彼女の腕をつかみ引き寄せる。どうやら足が滑ってしまったようだ。

「っ……」

彼女の顔が上気する。

「気を付けてくださいね」

笑顔で答えるとまた歩き始める。

「春日さんは美大を出ているんですよね」

「そうね」

「すごいな~自分は絵を描くのがどうも苦手で」

「だったら描いてみます?」

彼女は突然前を歩いていた将星を追い越した。次に振り向いて彼の手を握る。その表情は真剣でまるで将星が彼女からプロポーズを受けているようだった。

「なっ!」

将星の顔が赤くなる。普段将星は人前では表情を変えない。それほど唐突な出来事だった。

彼女はその手を離すと、

「冗談」

と、笑っていた。

「あら、お二人さん。仲がよろしいようで」

フフフっといきなり現れた里香は微笑む。正確には目は笑っていない。

「お久しぶりですね。里香さん」

「お久しぶりです」

将星は里香に鍵を渡すと二人は客室へと歩いて行った。

「さて、戻るか」

ギャラリーの様子を窺いながら歩く。

もともとこのギャラリーは美術館だった。ただ、当時の経営状態は悪く、里香の父が買い取った形で始めたのがこのギャラリーである。

ふと横を見ると展示品のケースを清掃員が磨いていた。

「透さん」

「ん? なんだい?」

将星は清掃員の透に話しかけた。

「このギャラリーって何で儲けを出しているんですか?」

「そうだね~。第一に先ほど来た作家さんのような方たちの作品展示、あとは、入館料に販売取引、それと投資、不動産かな」

「そうなんですね。知らないことばっかりだな」

「将星君も里香ちゃんを支えたいならしっかり覚えないとね」

はははと笑って次のケースへと向かっていった。

「里香さんを支える……か」

将星は資格を取った後、すぐに考えて行動に移していた。あれだけ苦労して取った資格だ。 まずは仕事だと思い、ハローワークに何度も足を運ぶ。しかし、探しても仕事はなく、あっても面接で失敗していた。 それはまるで冬の岩手の極寒のように身に染みた。

情けない。ある時、将星は里香にそのことを打ち明けた。 すると、「だったらウチで働きなさい」こんな自分でもいいと彼女はやさしく手を差し伸べてくれた。 理由は法務関係の資格だからと言っていたが、実はこうなることを予想していたのだろう。結局、将星はこのギャラリーに就職した。

午後になり、受付の仕事を交代すると、里香から管理室までくるように言われたので向うことになった。

途中、一枚の絵画の前を通り過ぎる。

『また、泣いてるの? 将星』

『だって、玲佳さん……死ぬとか言わないでください』

『まったく……仮の話よ』

いつのまにか将星は立ち止まり、その絵画に目を奪われていた。

絵は男の子と女の子が手を握り合い、夜の星空を見ているというものだ。

ありそうな構図。だけど目が離せない。突然、妄想状態が始まった。それは統合失調症の症状の一つだった。

実際、過去に見たこともない映像が僕の視界をジャックする。

(あれ? 玲佳って誰だっけ?)

そこには自分と彼女がいた。彼女らはこの「星空」の絵の前で話をしている。二人はとても幸せそうだった。

「この絵、素敵ね」

隣にはいつの間にかハルがいた。いったい自分は何分ここにいたのだろう。

「あ、ハルさん?」

「はい、ハンカチです」

将星は自分が涙を流していることに気が付いた。

「あ、ありがとうございます」

ハンカチを受け取ると少し考えてから涙を拭く。

「里香さんから聞いたわ。あなた、泣き虫なのね」

将星は涙を拭きながら笑う。

「ははは……そうなんです」

「そこが好きって言ってましたよ」

将星は黙り込んでしまう。そして、もう一度この絵を見つめた。

(そういえばこの絵の作者は?)

無い。

(というよりこんな絵あったっけ?)

「来週の休館日に作品が搬入されるそうなので、当日はよろしくお願いします」

ハルは頭を下げる。

「あ、はい!」

将星もしっかりと礼をした。


さあ、今日も行こう。

閉館時間を過ぎ、将星だけの時間が始まる。この時間のために働いているといってもいいだろう。

将星は二階へと螺旋階段を昇っていく。

コツ、コツと足音が鳴る。

「展示室入り口」と書いたパネルが置いてあった。

「順序1」という赤い文字はまるで将星を誘っているようだ。

最近、将星はおかしい。勤務時間もぼーっとすることが多くなった。

問題があるとすれば、彼の寝ている時に見る夢に原因があるだろう。

ある女性と一対一で話している夢をよく見る。

最初は飲んでいる精神安定剤の効き目が強いせいと思っていた。

だけど違うようだ。

なぜか毎日同じ夢を見て彼女に展示品を見せられるのだ。

その展示品は昼にはないくせに閉館時間後には現れる。

不思議な体験だ。この話は里香にもしていない。

「あった」

そこには、五個の指輪があった。古い指輪だ。

夢で見た通りこうやっていつも必ずあるのだ。

『将星? 私は幸せよ。あなたも早く里香と結婚しちゃいなさい』

し……

えっ? 

しょう……

「将星?」

将星の意識が戻った。

「あれ? 里香さん」

「まったく。どんなところで寝ているの? あなた冷たい床に倒れていたのよ」

里香は心配そうな表情をしている。将星は彼女に膝枕されていた。

「すみません」

将星は頭を振って起き上がった。

「大丈夫?」

「はい、大丈夫です」

様子を見ながら彼女も立ち上がる。

「一応、明日は休みなさい」

「いえ、大丈夫ですよ」

「ダメ」

「え?」

彼女は彼の手をうつむきながら握る。その手は震えていた。

彼女は去年父親を亡くしている。そのこともあってか里香も不安が渦巻いているようだ。

将星は指で頭をかく。

「ということは、明日は一人で病院ですね。里香さん一人になりますけど大丈夫ですか?」

「他にも従業員はいるわ。それと出張のことだけどね……」

将星は彼女の手にそっと触れる。


朝は静かだった。将星は着替えをすまし、保険証などを準備し、家から外に出た。

(まだ寒いかな)

しかし、春の香りがする。花の香りでもない季節独特の言い表せない感覚。今年の春はどうやら早く来そうだ。

彼はバス停まで徒歩で歩く。

途中、土手を見るとふきのとうが芽を出し始めていた。

将星は空気をいっぱい肺に取り込むと一気に吹き出した。

バス停に着くと少し待つ。将星が来る前に男の子が一人いた。しかしどうも様子がおかしい。その子は泣きそうな顔をしている。

「こんにちは、どうしたのかな?」

「おねいちゃんを待ってる」

男の子は泣き出しそうな顔から突然不機嫌な顔に変わる。

「そ、そっか……」

するとこちらに息を切らしながら走って来る音が聞こえた。

「遅くなってごめんね! 裕」

その姿と声には見覚えがあった。

「遅い! ハルちゃん!」

男の子は頬を膨らませると彼女に抱き着く。

「あっ、ハルさん?」

「鈴木……さん?」

ちょうどバスが停留所に止まった。

「早く乗ろう?」

裕という男の子はハルの腕を引っ張りバスに乗り込んだ。それに続き将星も段を上がっていく。

将星はバスに乗ると静かに席に座る。

(弟さんだったのか)

将星は少しだけ彼女を見た。すると、彼女と目が合った。

すかさず将星は目をそらす。それが三、四回続いた。

「じゃあね! ハルちゃん!」

「はい、いってらっしゃい」

男の子は小学校前で降りた。ハルは笑顔で手を振る。

それからまた静かになる。将星は再度、彼女のほうを覗き見るように顔を向ける。

また、彼女と目が合った。

どうやら、彼女も気まずいようだ。すぐに互いに目をそらす。

大学病院前まで来ると、将星たちは一緒に立ち上がった。

「えっ?」

突然のことで目を丸くして驚く二人。

まるで、さっきまでの気まずさから解放されるように、緊張の糸がほぐれた気がした。

最初に将星がペコペコと頭を下げながら、ハルも頭を一度下げ将星の後にバスを降りる。

お互いの目的地は、大学病院だった。

二人は横に並んで歩く。途中、交差点の信号に引っかかった。

「アートセラピーって知ってる?」

彼女は将星の隣から話しかけた。

「聞いたことはあります」

「私は病院でそんなことやってます」

「具体的にどういうことをするんですか?」

病院までは少し距離がある。彼女と話してみようと思えた。

「そうですね。アートによる心のケア、精神的に不安定な人たちの言葉にできない心。そのわだかまりをアートで表現して吐き出させる」

「凄いですね」

「私が最初、鈴木さんに会った時に言ったでしょ」

(?)

「絵を描きませんか? って」

「ああ!」

「こういうことやっているとわかっちゃうんです。精神的に苦しむ人のこと。不安な人」

将星は何を話していいかわからなくなった。

「私がアートセラピストを目指すきっかけになったのは玲佳さんなの」

「玲佳さん?」

「知らない? 里香さんの双子のお姉さんよ。彼女は死ぬことについて前向きに考えていた。時にはオカルト、時にはSFと色んな本を読んでいたわね」

ハルは少し寂しげなそんな表情をしていた。

「私はあの人と出会って死について考えが変わったの。それじゃあね!」

彼女は病院の入り口までくると裏口のほうに歩いて行った。

『将星、将星! これを見て』

『将星? またやらかしたの?』

『私は玲佳。斎藤玲佳よ。そしてこっちは里香』

将星の記憶がぐちゃぐちゃに絡まっていく。

「鈴木将星さん! 二号室にお入りください」

彼は呼ばれたので診察室の中に入っていく。

「失礼します」

「どうぞ」

将星はゆっくりと椅子に座る。

「昨日、仕事場で倒れられたようですね?」

「はい。あの……先生?」

病気の彼は先生に問う。

「どうしました?」

「記憶が『嘘をつく』ってありますか?」

「ありますよ」

「最近、僕が経験したことのない記憶が入り込んでくるんです」

「そうですか。何か急激なストレスを感じたことはありますか?」

「いえ、前より穏やかになっています」

「ちなみに聴いてもよろしいですか」

「はい。もうこの世にはいないはずの方の記憶があるんです。それは最近のことのように感じて、それで……」

「あ……」

将星の記憶にはその子の笑顔が見えた。

また涙が頬を伝う。

「大丈夫ですよ」

「先生。僕……ここにいちゃいけない気がします」

二人の間に時間が流れる。

「あなたは今の自分をどう思っていますか?」

医師は将星の言葉に質問する。

「……何もなかった僕に手を差し伸べてくれた人がいたんです。 全てが駄目でも、何度失敗しても、その人は何度も僕に優しくしてくれた。 生きててよかったって今では思うんです。だから、今度は僕が、彼女が泣いてるときに優しく隣で笑っていたい」

医師は将星の話を最後まで聴いていた。

「ありがとうございます」

将星は話が終わり薬の説明を医師からされると診察室から出る。

待合室の長椅子に座ると息を吐いた。

一時間後に会計が終わり、外に向け歩き始める。

「痛っ」

途中、頭痛がしたので病院の庭にあるベンチに腰を掛け、ゆっくりと目を閉じた。


いつの間にか彼は空を眺めていた。もうひとりのあの子のことを想いながら。

「将星?」

「里香さん?」

目の前には里香がいた。

「大丈夫だった?」

「ええ、大丈夫でしたよ。ところでギャラリーは?」

「今は人がいるから大丈夫よ」

彼女はそわそわしている様子だった。

「どうしたんですか?」

それに気づいた将星は彼女に訊いてみた。

「あ、ある絵が無くなってて」

「大事件じゃないですか!」

つい、大声を出してしまった。庭の鳥が逃げてしまう。

「いや、あの……ち、違うの」

「えっ?」

「わたしの記憶にあった絵が無くなったの」

「はっ?」

「何も盗まれてないし、ギャラリーにある展示品は全てあるのよ」

将星は何故か彼女の言っている意味が分かるような気がした。

それと……

「そうだ里香さん! 僕、一つだけ思い出したことがあるんです」

「どうしたの? 急に」

里香は優しい笑みを浮かべる。

「僕は今日、里香さんに逢いに来たんですよ?」

「えっ……」

その瞬間、心地のよい風が吹いた。里香は一瞬目を閉じる。

「あれ? わたし……」

里香は目を開き、周りを見るがそこには誰もいない……

すると、何故か目から涙がこぼれだす。誰かと今まで話していたはずなのに、誰かが今までそこにいたはずなのに、何も思い出せない。

「どうして? ねえ……」

逢いたいと願うのにやっぱり君はそこにはいない。君が誰かもわからない。

『里香さん。僕はもう泣いていませんよ』

青空の下、誰かが優しくつぶやいた。そんな気がした。

「そうね。今日はお墓参り……だね」

里香は空を見上げ、太陽に手をかざす。

そして、一歩一歩前を向いて歩き始めた。


そう、今日は三月十一日。「僕」と玲佳の命日である。