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月塵

高本淳

 

 思いがけない事故だった。しかし事故というものはそもそも思いがけない状況で起こるものなのだ。月面に人間が降りたって一世紀半、あらゆる観測システムはすでに充分な信頼性を獲得しているはずだった。だがそれでもそれを予測することはできなかった。
 月震にともなう崖崩れにまきこまれたムーンバスは大破。キャビンの気密は破れ、操縦士は背骨を損傷し重態。パーサーも足首をひどく捻挫して6分の1Gの重力下でさえ数歩以上歩くことは出来なかった。幸い乗客たち……長期積み立て月旅行パックツアーでやってきたリタイアした老人たち……は軽い打撲以外全員無事で、気密ヘルメットのなかに響くパーサーの言葉に息をひそめて聞きいっていた。
「ご安心ください。遭難信号は本部に届いています。すぐに救援車両がやってくるはずです……」
 若いパーサー、チャールズ・ハリスは職業的落ち着きと自信とをその声にせいいっぱいこめようと努力しながら言った。
「……でも出発のときちらりと見たけれど、格納庫にあったもう一台はエンジンカバーが外されていましたね。定期点検作業の途中じゃなかったのかしら?」
 か細い声がそう言い、彼は無意識に下唇を湿らせた。いま一対一のプライベートモードに切替えるわけにはいかない。かえって乗客全員に疑惑をあたえることになってしまうだろう。
「ええ……。いま救助に向かっているのはあの機体ではありません。……いま現在遊覧に使用されている別のムーンバスです」
「……でも、そうだとするとここよりずっと西のほうから来ることになるわ。そのうえ乗客をいっぱいに乗せているでしょうからその人たちをどこかで降ろしてからのことになるでしょ?」
 同じ声が尋ね、一瞬表情を硬直させてパーサーは声の主に向き直った。小柄で細い身体――いまはヘルメットにほとんど隠れているが確か見事な銀髪の老婆だった。
「そのとおりです。……ああ、マダム」
 彼は息を吸い、からくも微笑んだ。
「立ち往生しているわれわれへの救いの手がよりによって『恐怖の湖』からやって来るなんて、なんとも奇妙な話ですよね……ハ、ハ、ハ」
 それから誰も笑っていないことに気づいて沈黙し、堅苦しくつけ加えた。
「彼らはいったんウィルヘルム基地に戻って乗客を降ろしてからこちらへ向かうようになるでしょう」
「するとずいぶん時間がかかるんじゃありません? 酸素は大丈夫なのかしら?」
 能面のように無表情になり、自制した声でパーサーは答えた。
「ご心配なく。このような場合にそなえて予備の酸素は十分な量積んであります……」

 ――くそっ、よりにもよってこんなときに……。操縦士の容体を見守りながらチャールズは欝々と考えた。備品の管理は彼の役目だった。そしてほんの一昨日彼は酸素ボンベを六本だけ失敬したのだ。つまり……地球光の下の荒涼とした風景というのは舞台装置として最高であるし、チャールズとしては是非ともダイアナへのプロポーズを成功させたかったからなのだが……。今となってはなぜすぐに本数を規定どおりに揃えておかなかったか悔やむばかり。まさかムーンバスにこんな事故が起こるなんて。……しかし、恐らく大事には至らないはずだ。すべてが緊急時のスケジュールどおりに動いていれば……ぎりぎりのところで酸素は足りるだろう。彼は自分に言い聞かせるように呟いた。むしろ恐いのは乗客のパニックのほうだ。
 それから彼は“あの老婆”の姿が『記念碑』の近くで見えなくなってしまったときの騒動を思い出した。彼は必死でそこらを捜し回り、しばらくして小さな岩の影で地面に座り込んでいる宇宙服姿をようやく発見した。
「いったい何をやってるんです!」
「……あら、あら、驚いた」
 ヘルメットをつけていなければ彼は天を仰いだろう。
「入管時に何度も説明を受けたはずです。国際条約で月面にゴミを投棄することは禁じられているんです。ご存知でしょう! ここには酸素がなくバクテリアも菌類もいないんですからひとたび捨てられたものは何万年でもそのまま残ってしまうんですよ」
「いえ、わたしはただ……そんなつもりじゃ」
「なら、これは何です!」
 彼は彼女の手からビニール袋をひったくった。中には焦げてねじ曲がった金属が幾つか入っている。
 老婆はあえぎ、それから悲しげな声で言った。
「ごめんなさい。よくわかりました。もういたしませんから、どうぞそれを返してください」
 どこにでもトラブルメイカーはいるものだ。しばらくフェイスプレートごしに彼女をにらんでいたが、やがてチャールズはその“がらくた”を投げるように手渡すとムーンバスを指さした。
「これからは単独行動はつつしむように。……さっさと乗ってください。予定から大幅に遅れているんですから……」

「いま思いついたのだけど……」
 昏睡する同僚の顔を見ながらモルヒネのチューブをもう一本使うべきかどうかまよっているチャールズの耳にか細い声が聞こえた。振り向いた彼は相手のフェイスプレートからかいま見えるふさふさの銀髪を目にしてうんざりした思いで答えた。
「頼むから静かに座っていてください。歩きまわったりしたら酸素の消費量が増えてしまうのがわからないんですか?」
「それじゃ……やっぱり酸素が足らないのね?」
「……何ですって?」
 彼の頬がひきつった。
「酸素のボンベの本数。数えてみたけれどどうもぎりぎりで足らないような気がするの……大丈夫よ」
 彼女はパーザーの表情に片目をつむりながら答えた。
「プライベートモードにしてあるわ」
「なぜそんなことがわかるんです」
 思わず声をひそめてしまい、自分の演技力の未熟さに顔をしかめるパーサーに老婆は微笑んだ。
「あなたがロッカーの扉を開けたときにちらりと見えたのよ。……六本がコックを下に向けて入れてあったわ。あなた空になったボンベをケースにもどすとき、きっとそうする癖があるのね。緊急時に間違って空のボンベを掴まないように……そうしておく人がよくいるわ」
 チャールズはあえぎながら尋ねた。
「あなたいったい何者です?」
「ねえ、確かいま通ったルートの途中に緊急用の避難所があるんじゃなかったかしら?」
「あったとしたら?」
「予備の酸素ボンベが置いてあるでしょう?」
「そりゃ置いてありますよ。月面上のめぼしい施設にはみんなそれがある。……でも残念ながら十キロも先だ。そしてあいにくわたしは十メートルだって歩けないんです」
「誰もあなたに行ってくれなんて言ってないでしょ。わたしが行きますよ」
「あなたが……冗談じゃない!」
「まあ、なぜ?」
「月面を歩くのは経験者でなければ無理だ。迷うにきまっているんです。見通しのいい『海』の上ですら三キロ離れたらもうこのバスは地平線の下に隠れてしまってどこにあるかもわからないんですよ。ましてここは山岳地帯だ」
「轍を見ながら行けばだいじょうぶでしょう?」
「だめです。この谷はたくさんのムーンバスが行き来する観光コースになっているんです。もし間違った轍を辿ったらどこへ行ってしまうかわかりはしない。どうか無茶はやめてください。第一、酸素が明らかに足らないというわけじゃないんだ」
「……でも足らないかも知れないんじゃないの? もしも救援の到着が遅れたら……」
 リチャードの額を汗がながれた。
「なぜそう思うんです?」
「そりゃあ、人間を長くやってますからね。あなたの顔がそう言ってますもの」
 彼は生唾を飲みこみ、やがてゆっくりと頭をふった。
「オーケイ、あなたは名探偵らしい、ミス・メープル。話はわかりました。でも仮にあなたのおっしゃるとおりだとしてもパーサーとして乗客にそんな無謀な冒険をさせるわけにはいきません。論外です」
 老婆は肩をすくめた。
「そうね。わかりますよ、あなたの立場としては当然そうでしょう」
 彼は痛みのためだけでない冷や汗が額をしたたるのを感じつつ言った。
「感謝します……わかっていただいて……」
「でも、わたしが勝手にするぶんにはあなたの責任ではないですものね」
「……何ですって? おい……! ちょっと待て!」
 チャールズが足首の激痛を堪えて姿勢を起こそうとする間に小柄な老婆はさっさとエアロックの開閉スイッチをオンにして開き出した気密扉を摺り抜けてしまっていた。
「帰ってきなさい! マダム……」
 彼は自分が彼女の名前をまだ覚えてもいないことに気づき、なぜか急に堪らなく心細くなった。
「どうか戻ってきて! ……お願いだから!」

 崖崩れは予想より広範囲に及んでいたらしい。救難にやってきたムーンバスは予定よりかなり遅れて到着した。しかし酸素タンクはぎりぎり数が足りていたしチャールズがほっとしたことには余計にあったはずの六本さえどこかにきれいさっぱり消え失せてしまっていた。
「客に宇宙服の着用を義務づける安全規則を撤廃すべく会社はここ何年も行政に働きかけてきたんだが――どうやらこれで振り出しに逆戻りだな」
「まったく文句は言えないさ。もし乗客に死傷者がでていたら……賠償金の額面以上に月面観光事業全体へのイメージダウンがどれほどだったか、想像するまでもないよ」
 同僚たちは重々しくうなずきあい肩をすくめると操縦装置をふりむいた。チャールズは負傷者の容態が安定していることを確認すると乗客たちの様子を見るべくひとり松葉杖をついてキャビン後部へむかった。
「ありがとう……どうやらあなたに一生返せないほどの借りができてしまいました。乗客の生命を救ったのは本当はあなただし――不祥事の証拠までうまくもみ消してくれたようですね」
 ひととおり救出された人々の間をまわり最後にいまはフェイスプレートを開いて送風口からの風に銀髪をなびかせているあの老婦人の傍らにうずく脚をかばいながらしゃがみこむと彼はささやいた。
「空のタンクは避難所のものと交換しておきましたよ。念のため早めに補充しておいてくださいな。またいつ同じような緊急事態がおこらないともかぎりませんからね……」
「もちろんです。しかしそれにしても無事に戻ってらしたときには目を疑いましたよ。軽々とムーンステップを踏んで――てっきり地球から一歩も出たことのない市井のご婦人だとばかり思っていました。乗客名簿にはアン・フロイドとありましたし――まさかあなたが第五次木星系調査隊のミード博士だったとは……!」
「ミードは結婚していたころの苗字――旧姓はフロイドですの」
 彼の心にひっかかるものがあった。
「フロイド? もしかして……」
「ええ、お察しのとおり。わたしはヘイウッド・フロイドの娘です」
 パーサーは目を見開いた。
「ところでハリスさん。おりいってお願いがあるんですが」
 彼女は宇宙服の物入れからあのビニール袋をとりだし、パーサーはため息をついた。
「ここにいたっては到底あなたの依頼を断ることはできませんね。何でもおっしゃってください」
「無理な頼みではないのよ。あなたはこの後もティコ行きのムーンバスに乗るはずですし、当然あの『記念碑』に近づく機会も多いはずです」
 うなずく相手に袋を手渡しつつ老婦人は言った。
「近くにこれをそっと埋めてもらえません? 確かに『記念碑』そのものは観光客向けに作られたイミテーションですけれど……、それでもすべてが始まったあの場所こそふさわしいと感じるんです」
「おやすいご用です。しかし――お尋ねしてもいいですか? この焼けこげた金属片はいったい何です?」
「ほんとに片手でにぎれるほどよね。軌道エレベーターが出来たいまでも宇宙空間での輸送コストはご存じのとおり。こんな欠片でも数十万スターダラーの費用がかかっていますの。そして時間もね――三年ほど前ガニメデに微小天体が落下しました。よくあることで、科学者たちがお定まりの調査に出て破片を回収するまでに三カ月、たまたま基地に居合わせた弟が万事を思いついて、最終的にボアハムウッドのわたしの家に届くまでさらに二年以上かかりました……」
 狐につままれた表情のパーサーにアンは微笑んでつづけた。
「まず地球の遺族たちに少量づつ分けて送ってあげて、残りをわたし自身でここに持ってきましたの。晩年になっても父は悔やんでいたようです。あの時点でやむをえなかったとしても、けっきょくすべての犠牲は自分に責任があると感じていたんでしょうね。お願いしますね。亡くなった父もたぶん同じことを望んだはずですから。クルーたちの唯一の遺品として“ティコ・モノリス”のかたわらに埋めてもらいたいと。そう、もうおわかりね? これはあのディスカバリー号の機体の一部なんです」

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