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相対論的エレベーター

高本淳

 花畑を歩いていると目の前に小高い丘がありその上に信じられないぐらいの高さの塔が聳えている。塔の頂上を仰ぎ見たがはるか青空のなかに消えていた。
「お待ちしておりました……アインシュタイン博士」
 塔の根元に扉がありその前に白衣の人物がひとりたたずんでいた。声は高いが女性にしては少し顎の線がきつすぎる。かと言って落ち着き払ったまなざしからは歳若い少年とも思えなかった。アルバート・アインシュタインは男女どちらともつかぬ見知らぬ相手に当惑した様子で微笑みかけた。
「ついさっきまで病室で死にかけていたのに……看護婦に気分が悪いので先生を呼んできて欲しいと言ったのだけど、どうやらドイツ語がわからなかったようだ」
「災難でしたね。しかしもはやそのあたりは問題じゃないと思います」
「……と言うことは、わたしの理解が正しいのならここはあの世であり、きみは死後の魂を迎えにくる天使かな?」
「ご明察です、博士」
「ふうん、これが死か。恐れていたほどひどくはないな。だが大量破壊兵器へつながる道を切り開いた男をほんとうに神は天国へいざなわれるおつもりなのかね?」
 相手は肩をすくめた。「そのあたりは上のほうで決定されることなんでね。名簿にお名前が載っているからには間違いないはずですよ……申し遅れました。わたしは操作係のミカエルです」
「『操作係』?」
「ああ――エレベーターのですよ」彼あるいは彼女あるいはそれ、は背中ごしに扉を指さした。アインシュタインはその途方もない長さのエレベーター・シャフトをいま一度見上げ、それから視線をミカエルに戻した。
「天使は翼があるんだろ? なぜエレベーターが必要なんだね?」
 白衣の天使は少し赤面しつつ答えた。「あなたがたが近年宇宙の大きさを極端に拡大してしまわれたからですよ。昔は天国もずいぶん近かったのですがね……いまでは数百億光年の彼方です。翼で飛んでいくのはちょっとね」
「なるほど、それはすまないことをした」博士はうなずいた。「どちらの世界でもわたしたち科学者の責任は重大だな」
「気にされることはありません。おたがい仕事ですものね」ミカエルが壁面にあるボタンに触れると扉が左右に開いて居心地のよさそうな小部屋が現れた。天使は先に入り右手でボタンを押さえながらアインシュタインを招いた。
「どうぞお乗りください。この内装は建築家ウォルター・グロピウスの手になるものです。あなたと同様に故郷を追放されたお仲間ですよ」
 アインシュタインはためらった。
「ええっと、誤解がないようにいちおう行き先を確認しておきたいのだが……これは間違いなくユダヤ教徒にとっての天国へ行けるエレベーターなんだろうね?」
 ミカエルは笑った。「いろいろご苦労されたようですね。どうぞご心配なく。これから行く世界ではユダヤ人もイスラム教徒も差別されることはありません。争いも不公平も――ついでに言えばカジノもありません」
 そう聞いてかえって心配になったがままよと肩をすくめ彼は閉じようとしてぴくぴく動いている扉の間をくぐった。
「閉まる扉にご注意を……天国の階までしばらくかかります。どうぞ腰をおろしてお待ちください」
 小部屋の内壁はウォルナットで被われモンドリアンの幾何学模様の絨毯の上にブロイアーの応接セットがゆったりと置かれていた。クレーがデザインしたらしいクッションの間には見なれたバイオリンケースが見える。傍らにはさまざまな分野の書物のおさまった書棚があった。死期が迫って手にすることもなくなった愛用の楽器に心がひかれたが、まああわてることもないと思い直してアインシュタインはとりあえずフィジカル・レヴューの最新号を手にとるとゆったり腰掛けられるスチールパイプの椅子を選んだ。
「快適だが、しかしかなり長い間こうしていることになりそうだね。ミカエルくん、天国までどれぐらいあると言っていたかな?」
「七百億光年……つまり『アインシュタインの宇宙』の半径です」
「やれやれ、もう少し遠慮しておけばよかったな。しかしまあ、気の毒なド・ジッター氏の魂の運命よりはましだろう。このエレベーターは現在加速度1G程度で上昇していると思うが?」
「そのとおりです」
「それなら簡単な計算で到着するまでの時間がわかる……この世界でも物理法則が同様なら、だがね」
「もちろん物理法則はほとんどの場合地上と同じく通用します。ときどき例外的に神の奇跡が起こるだけです」
「ふうむ」ため息をついてアインシュタインは言った。「その奇跡は例えばこのエレベーターをつり下げているケーブルにも適応されるのかな?」
「むろん神に祝福された聖なるケーブルです。無限のひっぱり強度を持っているからご心配はご無用」
「無限のひっぱり強度ね? まあきみがそう言うならそうなんだろう……わたしの計算では出発して四年後にエレベーターの速度は光速の九十九パーセントを超える。そのときシャフトの全長は恵み深きローレンツの変換式にしたがって百億光年以下に縮んでいるだろう。その先光速度に近づくにつれてその距離は限りなく短縮していくが、やがて減速に入ると今度は逆に伸びていき、最終的にわれわれが天国へ到着して静止した時点でふたたび七百億光年の長さに戻る。だが旅程のほとんどを準光速で移動するのであるから、この旅はわれわれにとってたかだか五十年ほどのうちに終了するはずだ」
「最後の審判の日にはじゅうぶん間に合います。とはいえ長旅ですがね……そうそう、ちょうどいい機会だからひとつ質問していいでしょうか? ……以前から相対論にからんでお尋ねしたいことがあるんです」
「かまわないよ。わたしでよければよろこんでお答えしよう」
「当の御本人にご教示願えるとは! 天使でさえこんな機会はめったにないな……じつはこいつのメンテナンスをやってるガブリエル技師がその『ローレンツ短縮』を使って旅の時間を画期的に速める方法があるんじゃないかって言うんですよ。つまり超光速ですね」
「言うにことかいてこのわたしの前で『超光速』かい……」
「すいません。わたしも馬鹿げていると思うんです。でも悔しいことに反論できないんですよ。それでいったい奴の理屈のどこが変なのか内緒でお教えいただきたいんです。あとでへこましてやりたいんでね」
 アインシュタインは学術誌をかたわらに置いて坐りなおした。
「いいとも。そのガブリエルくんとやらの言い分を聞こうじゃないか」
「単純なアイデアです。このエレベーターの箱をつり下げているケーブルは天国にある巻き上げ機械で巻き上げられているわけです。こいつはグロリアス工作舎製で神のごとき性能を持っていて、巻き上げ速度はどんどん加速していき箱とケーブルの速度はともに光速度に限りなく近づいていきます」
「すばらしい! しかしそれはけっして光速度を超えることはないはずだ」
 ミカエルはうなずいた。「ええ、でもガブリエルはこう言うんですよ。そのときケーブルと箱を足した全体が猛烈な速度で運動しているのであれば、さきほどあなたがおっしゃたとおりローレンツの式に従って短縮するだろう。仮に出発の一年後速度が光速度の80パーセントを超えケーブルの全長が七百億光年から四百億光年の長さに短縮するとしよう。このとき巻き上げ機械のほうはがっちり固定されているから、どうしたって反対端の箱のほうがぐっと天国側へと引き寄せられることになる……つまりわずか1年でわれわれは三百億光年の距離を飛躍してしまうわけで、これはまさに超光速運動にほかならない!」肩をすくめてミカエルは言った。「……わたしにはやつの誤りが見抜けない。この理屈だとローレンツ短縮を認めるなら超光速も認めなきゃならなくなる。いったいどこにこのパラドックスを解決する鍵があるんでしょう?」
「なるほどね……」
 量子論を論破しようとしていた頃のような不敵な微笑をうかべてアインシュタインは言った。
「何ものも光の速度を超えて運動することはない。また運動する物体がローレンツ変換式にしたがって運動方向に短縮して観測されることもまた正しい。それゆえガブリエルくんの説のどこが間違っているか、わかりやすく説明するのは少しやっかいだな。
 しかしまあ、やってみよう。どこかそのあたりに坐りたまえ。おたがい時間はたっぷりあるのだから……」
 そうしてこの不世出の天才は天使を相手に楽し気に相対論の初歩から語りはじめた。

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