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ケイヴァー氏のその後

高本淳

 衰退する地底世界を見限って月人たちはすでに巨大な植民船団で宇宙へと乗り出していた。この未曾有の大事業はすべて月の裏側で行われたため人間たちのいっさいあずかり知らぬことではあったのだが、これら強力無比なる万能航宙船を建造するにあたってじつは例の“月世界最初の男”ケイヴァー氏の重力遮断金属が少なからぬ役割を負っていた。
「“ケイヴァーライト”はすばらしい物質です。月とともに滅びる定めにあったわが種族はあなたの発明によって救われたと言ってよいでしょう」
 “グレート・ルナー”すなわち月の女王の言葉に触れ、旗艦への乗船を許されていた彼は深々と頭をたれた。
「そう聞いてほっとしました。初めてわたしたちが遭遇したときの不幸な暴力沙汰が、これで帳消しになったとは思いませんが……」
「死んだ月人たちのことを気にやむ必要はありません。彼らの自意識はあなたの住む星の昆虫のレベルとたいしてかわらないのです。それに労働階級の者はいくらでも再生産がききますから」
 ケイヴァー氏は肩をすくめた。
「心やすらぐ見方とは思えませんが、かならずしも人間の尺度をあてはめるべきではないでしょうな。あなたがたの社会制度はわれわれのそれとはまったく違うのだから……」
 女王はどうでもいいと言いたげに触角の一対をものうげに蠢かしつつ続けた。
「たしかにあまりにも両種族は違いすぎている。むしろ月の植生の破滅は僥倖だったと言えるのかも知れません。われわれが出ていかなければ遠からず戦争好きの地球人との間に芳しからぬ軋轢がおこったはずです……しかしともあれ我らは重力遮断物質のおかげで全員新たな天地を求めて旅立つことができた。あなたには月世界名誉勲章が贈られることになります」
「うーん、しかし、わたしはケイヴァーライトのすべての可能性をはじめから知っていたわけではないのです」当惑しつつケイヴァー氏は弁明した。「あくまで単なる重力遮断物質としてあれをつくりました。そして巻き上げ式シャッターの形に加工したケイヴァーライトで球状体を覆い、それらの開け閉めによって重力を制御しつつまがりなりにも月まで『漂い』着いたのです。そののちあの金属の性質を詳しく研究し、それがまさに宇宙航行における無制限の動力源たりうることを看破したのは、他ならぬあなたがた月人の科学者たちです。それゆえそうした名誉はまず彼らに与えられるべきでは?」
「いいえ、そうではありません。それらの結論はすべて、すでにあなたが重力を遮断する物質を作り上げた時点で必然的に約束されていたものなのですから」
「正直申し上げてそのあたりの理屈をわたしは了解しかねる。できれば、あらためてご説明いただけると嬉しいのですが……なぜあなたがたの例の『等価原理』に照らすと重力遮断金属が無限のエネルギーの源となりうるのか、を」
「地球人の科学はまだ光速度不変原理や慣性-重力質量の等価原理を発見するまでに至っていないようですから、あなたがそれを理解できなくとも不思議ではありません。……よろしい、詳しい理論的説明はべつの機会にゆずるとして、とりあえずいまはこれだけを知ってもらいましょう――すなわち重力と加速度による力は本質的に等価であると……」
「しかしそれらの原因はまったく違いますよ! 重力は物体の質量にもとづく現実の物理力であり、いっぽう慣性力に代表されるようなそれは加速運動によって生じる見かけ上の力なのですから……ま、とはいえ質問したのはこちらです。この先話が進まないというのであれば、とりあえずいまはそれを認めることにしてもいいですがね」
「どうかそうしてください――そこで簡単な思考実験をしてみます。ここに宇宙空間を鉛直方向に一様に加速する平面があるとしましょう。それが1Gの加速度であればその上にいるあなたは自分の故郷の大地に立っているのと同じだけの重力の感覚を得るでしょう。重ねて言いますが、感覚のみならずそれらは現実にも同じものである――というのが等価原理の立場です」
 ケイヴァー氏は不服そうながらもうなずき、女王は説明をつづけた。
「さて、いま仮にこの平面上であなたがケイヴァーライト製の球体に乗り込んでシャッターをすべて下ろしたとします。等価原理が正しければ重力遮断物質は加速度による見かけの“重力”も同様に遮断するはずですから、球体は無重力状態のまま平面の上に漂うことになるでしょう。
 このとき平面外部の静止した座標系から観測している観測者にとってはケイヴァーライトの球体が1Gの加速度をもって平面とともに加速しているように見えるはずです。しかし球体そのものは平面から力を得ているわけではない。つまりそれは外部から何の力も受けていないのに自分自身で加速しているかのように見えるのです」
「奇妙ですね……」日頃のクセで下唇を指でひっぱりながらケイヴァー氏はうなずいた。
「まだつづきがあります。この議論のポイントはこの平面は必ずしも存在する必要はない、ということです。なぜなら平面上の観測者にとって自分の感じている1Gの重力場は局所的なものではなく全宇宙に広がる性質をもっているからです。宇宙空間を1Gで加速しつづける観測者にとっては全宇宙の天体が彼にとっての1Gの重力場のなかを“下方”に落下しているように見えるのです。――加速系と静止系との間の相対的な座標変換を可能にするためには、加速度と重力を同一のものと見なしたうえでそう考えるほかはありません。われわれ月人はこうした見方を『相対性の一般化』と呼んでいます」
「じつに驚くべき着想だ!」ケイヴァー氏は叫んだ。
「じきにあなたがた地球人の科学もその視点に到達しますよ。一般にあらゆる加速度系の観測者は自分自身の加速度と等価な重力場――それが一様な加速運動であれば一様な重力場、変動する加速運動であれば時間とともに変化する重力場――が宇宙空間全体を満たして存在しているかのように認識するはずです。
 そして、そのすべての観測者にとってケイヴァーライトがつねに“重力”を遮断するとしたら……この驚異の物質はたんに存在するだけで“同時に”あらゆる加速座標系に含まれている、と解釈するよりないのです。言い換えるなら、それは無限の種類の加速度を内包しており――無制限の運動エネルギーの源たりえるのです。だからこそ、あなたの発明した物質で製造された宇宙船はまったく動力を必要とせずどんな加速度をも自ら作り出すことができる……」
「圧倒されます。エネルギー保存則を破綻させるとしか思えないケイヴァーライトの新たな性質。加えてそれ以上にわれわれビクトリア時代の科学者には素直に受け入れかねる結論だ……ひとつの物体が同時に無数の可能的座標系――現実にまたがりうるものであるとは!」
 女王は巨大な頭でうなずいた。
「われわれの推測では重力を制御することはそのまま時間を制御することにつながるようです。なぜなら重力を遮断する物体は巨大な重力場の内部では光の通る道筋よりも短いルートを進むことができるはずであり、それはまさに時を遡る運動と見なしうるからです。もしそのような過去への旅行が可能であるなら、さまざまな解決不能の逆説が生じたとしても格別驚くことではないでしょう。あるいは多数の可能性の重ね合わせを認めることは、そうした問題を回避するための唯一の論理的選択であるのかもしれません」
「そう……どうやら、わたしにもその可能性が見えてきたようだ!」不意にケイヴァー氏が女王の背後を恐ろし気に見つめながらつぶやいた。
「なにやら朦朧とした別世界……岩と砂の荒野の幻が見えます。そのまん中にひどく痩せた人物が立っているのだが――その手が握っているのは……巨大な鎌らしい!」

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