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シェアドワールド:落下後

高本淳

 2006年元旦。グリニッチ標準07時。雲は北半球の4分の3を覆い隠していた。分厚い塵埃に遮られて太陽の光はほとんど下界にはとどかない。百億ヘクタールの森林をなめつくした同時多発的大火災はいまだに鎮火してはいないがその勢いは衰えつつあった。一週間というのは森林火災の鎮火時間としては異例に短い。降り続く雨と雪のためもあるが、あまりにも大規模であったためにもはや燃えるべき森が残っていないのだ。鉛色の雲は東へ南へと拡大をつづける。極東を越え、広大な北大平洋を完全に包み込み、北米大陸が闇に沈むのも間近だ。陽光を遮断された地表の気温は着実に下がっていく。

 赤道から立ち上がり亜熱帯高圧帯で地表へと降下する巨大な大気の流れ、バドレー循環がバリヤーとなって当初それらは南半球へ進出することができない。南米やアフリカ、オセアニアはいまのところたっぷりと陽の恵みを受け取ることができる。南半球は夏。ファースト・インパクトの衝撃波でタスマニアからニューサウス・ウェールズに至る一帯の農園は少なからず被害を受けたが、南米やインド、そしてアフリカでは穀物が順調な成長をつづけている。

 だが南北両半球の気候を分けるこの自然の障壁は太陽エネルギーによって駆動されているのだ。もはや日射しを受けられない北の大気循環は必然的にその力を弱めていく。インパクト後数週間で雲は赤道を越えるだろう。いったんそうなればまたたくうちに南半球は雲に覆い尽くされ、あらゆる土地で麦は青々としたまま立ち枯れる。秋の収穫には間に合わない。南半球の収穫高は半減するはずだ。

 『冬』は十数カ月以上つづく。穀物生産はさらにゼロに近いところまで落ちる。備蓄された食料が津波の破壊を免れたとしてもそれを輸送する手段は極めてとぼしい。民間による航空輸送はすでに存在しない。アジアとヨーロッパ全土にわたる道路と鉄道の被害はその程度を把握することすらできない。かつて温暖であった地域では除雪の備えがまったくないために雪に埋もれた車輛を動かすすべがない。ゆいいつ残されたものは海上輸送だが、船舶こそかなりの数生き残っているものの、肝心の燃料が決定的に不足している。加えて多くの港はすでに凍結しはじめているのだ。

 この『冬』の間、こうした全地球的な気候変動に比べれば些細とも言えるかも知れないある事件が起った。その発端ははっきりとはしない。インパクトの影響で複雑な電子防空システムに何か致命的なミスが生じたのかも知れない。あるいは海底にひそんでいた攻撃型原潜の生き残りがやみくもに狂気の連鎖に至る引き金を引いたのかも知れない。すでに正確な情報を分析して全世界へ伝えるべき組織も手段も存在しなかったから、当事国のいずれがいずれへ核攻撃を行ったのかもはや誰にも知るすべはない。ともかくある日突然、ほとんど同時に米国、ロシア、中国の各地上空に一群のミサイルが飛来したのだ。

 こうしてインパクトの被害のもっとも少なかった北米内陸部に今度は人の手になる破壊のキノコ雲が無数に立ち昇った。戦略核は軍事施設を標的としたものであったが、どの核保有国でもそれらは大都市の近郊に存在したから一般市民の犠牲は避けようもなかった。
 とはいえ各国の沿岸諸都市は津波によってすでに破壊されており、また日本を含む周辺諸国も攻撃をまぬがれためにこの無意味な最終戦争はふたつの大陸を合わせても百数十万人程度の人間を殺戮するにとどまった。さらに大気循環が弱まっていたこともおおいに幸いした。もし偏西風が健在だったら死の灰は北半球に生き残ったすべての人々の上に降り注いだことだろう。降り積もる雨と雪が放射性物質による汚染を最小の範囲に押さえたのだ。しかしそれでも核爆発で飛散した半減期の長い放射性微粒子がこれら廃虚を長期間人の住めない死の土地へ変えた。

 このような生存をかけた人間たちの死に物狂いの、しばしば望みのない闘いのうちに長い『冬』が終わる。浮遊した塵は地上への太陽光線をカットしたがそれ自身は熱を貯える。したがって地上が寒冷化した一方で成層圏の温度は上がるのだ。アンデスやエベレストといった七千メートル級の高峰ではむしろ気温は上昇していた。それは山頂の氷河と万年雪を溶かし梺に大洪水をもたらす。やがて雪が溶け切ると今度は山塊そのものが熱を貯えはじめる。局地的な低圧帯が生まれそこを中心にゆっくりと大気の循環がはじまるだろう。何ケ月ぶりかで雲の切れ間から地上に陽が差し込む。パミール、ペルー高原、キリマンジャロをのぞむケニア高地の気温がまず上がりはじめ、それらは次第に周囲へと広がっていく。大地に積もった雪が溶けだし、雲間から差す陽光のもと焼け焦げた樹林の跡にいっせいに木々の芽が顔をのぞかせる。一部に南米沖のラニーニャ現象のような地域的逆行はあるものの、全体的にはしぶしぶながら世界から冬は退いていく。

 しかし災害はまだ終わってはいない。ほんとうの試練はこれから始まるのだ。

 インパクトの熱によって生成された酸性微粒子は対流圏まで運ばれた後、水溶性の硫酸や硝酸へと変化して雨に混じって地上に降る。東アジアの陸地と海に降った強酸性の雨水は北大平洋環流、北赤道海流、赤道反流を経て中米沖に達し、やがて南赤道海流に乗って南下する。

 通常、海水に溶け込んだ酸性物質は岩石の塩基で中和されて海洋生物に直接影響を与えることはない。しかしあまりにも大量にそれが流入すれば海水のpH値は低下する。海中に含まれる硫酸イオンは微生物にとっては致命的な毒物となる。そして微生物の大部分を占める植物プランクトンは食物連鎖ピラミッドの底辺を支えており、それが死滅した場合の影響はただちにすべての種に及ぶ。

 光合成作用をつかさどる生命がいなくなった海中の酸素濃度は急速に低下し、もともとそれらの乏しい低緯度の海域はほとんどの生物を欠いた死の世界となるだろう。津波でひきちぎられた環礁から魚影が消え、それとともに鳥類や海生哺乳類もどこかへ去っていく。南国の日射しはふたたび島々を陽気に照らすかも知れない。しかしもはやこの土地に風と波の音の他に生命のざわめきはない。

 ノルウエィ沖で放出されたメタンガスもまたいまだその影響を真に及ぼしていない。それはインパクト後数週間は上層気流に阻まれ赤道を超えられない。メタン分子は大気の主成分である窒素分子や酸素分子より軽いために大気上層に集まるからだ。そして太陽の紫外線が生成した遊離酸素がそれを水と二酸化酸素に分解する。しかしメタンの反応性は低くその過程には何十年という時間がかかる。そして二酸化炭素もまた温室効果ガスのひとつにほかならない。

 衝突の冬が終わるとともに世界の気温は急激に上昇しはじめるだろう。春は一足飛びに夏になる。上昇の幅は低緯度地方ほどいちじるしい。砂漠地帯では一層の乾燥化が進む。他方温暖化は海からより多くの水蒸気を蒸発させて世界的に降雨量を増加させ嵐を多発させる。
 厳しい乾燥や度重なる豪雨による洪水によって生物たちは淘汰される。『冬』の異常低温と酸性雨で痛めつけられた熱帯樹林はさらにその動植物の種の多様性を減らしていく。逆に人間と共存できる吸血昆虫たちはそれらが媒介した熱帯の風土病とともに生息域を高緯度帯へ広げる。冬の終わりに備えて大切に貯えていたわずかな種を播いた人間たちは、もはや以前この土地で育てていた穀物が現在の気候にまったく適応していないことに気づくだろう。

 世界の平均気温は5度近くまで上昇する。氷河が後退を始める。南極の棚氷がつぎづきに崩壊し始める。海面はじょじょに上がりはじめ、その上昇水位は最終的に5メートルに達するだろう。破壊された堤防を乗り越え、寄せては引きながら海はかつて人間の生活の場であった土地をゆっくりと飲込んでいく。地質学的な新時代が到来したのだ。世界中の都市、農耕地は容赦なく膨れあがる海面の下に沈んでいく。沖積平野は遠浅の海になり、丘陵は島嶼となるだろう。

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