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夢の土

中条卓

思うに父は「今ではないいつか・ここではないどこか」に一生あこがれ続けた人でした。昔ならそういう人は考古学者や船乗りに、今なら宇宙飛行士にでもなったのでしょうけれど、父の生きた時代は地球が狭くなりすぎ、といって宇宙はまだ遠すぎた時代でした。そんなわけで父は家族を養うために地味な仕事を続けながら、ひまさえあれば空想の世界で羽を広げていたようです。小さいころに父が語ってくれた物語はどれも独創的で途方もなく面白く、あこがれと甘い苦しみに満ちたものでした。

父はそういった空想物語を一切書き残さなかったので、一人っ子であるわたしの記憶に刻まれたものがそのすべてということになります。残念ながらわたしは子どもにも、語り手としての才能にも恵まれず、あの驚くべき数々の物語は砂に描かれた絵のように少しずつ輪郭がぼやけていくばかりですが、そんなわたしにも忘れることのできない話がひとつだけあります。それは砂漠に囲まれた小さな王国のお話でした。

その王国は広い砂漠の中に奇跡のようにわき出た泉のまわりに栄えた国でした。王国へは長い長い列を組んだ隊商が月に一度訪れるきりで、彼らは装身具の材料となる貴重な香木を携えて来てはできあがった見事な工芸品を持ち帰るのでした。王国の民は手先のわざに長けていたのです。どんな日照りの年にも泉は決して涸れることがなく、王国の繁栄も永遠に続くかに思われましたが、いつのころからか暗い死の影が忍び寄ってきたのです。それは奇妙な風土病でした。その病に罹った者は指先がしびれて細かい細工仕事ができなくなり、やがてそのしびれはヘビのように腕をはい上がって首から頭に至り、舌と目の動きをうばって病人を死に至らしめるでした。泉の水に溶け込んでいる毒が原因だという者もいましたが、その言葉を確かめるすべはありませんでした。王国の生活に必要な水はすべてその泉から取られていたからです。

毒物というよりもなんらかの欠乏症だったのかも知れない、と父はひとりごとのように言うのでした。ヨード不足で起こるクレチン病のようにね。でも問題は、外からもたらされた何物もこの病を癒すことができなかったということなんだ。王国の民はいわば彼ら自身の中から足りない何かを取り出すしかなかったんだ。

「そんなことができるのかしら」
「どうだろうね、でもわれわれにとってほんとうに必要なものはすべて与えられているんだよ」というのが父の謎めいた答でした。

やがてとうとう王様ご自身が病に倒れ、何日も生死の境をさまよったあげく、ふと目を覚まされました。王様はたったひとりの子どもを呼んで言いました。

「わしは長い夢を見た。夢の中でとうとうと流れる水のほとりに佇み、何気なく足元の土を一握りつかみ取った。その時わしは悟ったのじゃ。この土を国に持ち帰り、泉の水を注げばやがて誰も見たことのない植物が芽吹く。その実こそ、この病を癒す薬なのだ、とな。その土地のありさまはまざまざとこの目に焼き付いておるが、残念なことにわしはその土を持ち帰ることができなんだ」

そして王様は子どもに夢の土のありかをくわしく教え、子どもはその場所を探す長い旅に出たのです。

「それから? 子どもは土を見つけたの? 王様は助かったの? それとも王国は亡びてしまったの?」

父は口をつぐんだまま何も答えてくれませんでした。

わたしがこんな話を思い出したのは、ついこのあいだ父の臨終に立ち会ったからなのです。いまわの際に父はわたしを手招きし、かすれた、でもはっきりとした声でひとこと、「やっと見つけたよ」と言って息を引き取ったのです。

父は右手を堅く握りしめたまま亡くなり、その手は決してほどくことができませんでした。父の遺灰は遺言に従ってこの国でいちばん大きな川のほとりに撒かれました。

やがて川のほとりに誰も見たことのない植物が芽を出し、実を結ぶでしょう。その実をつみ取ってよく乾かしたら、わたしはあの砂漠の王国を探す旅に出るつもりです。

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