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練習曲

久世淡

 小さな刷毛にとろりとした液体を含ませる。たっぷりと、蜜が滴るくらいに取るのが好き。でも垂れてしまうのは嫌なので、丁寧に壜の口で扱く。刷毛が空気に触れると、いかにも脳髄を駄目にするような、莫迦な匂いが粘膜に張りつく。あたしは、マニキュアの、こんな毒めいたところも大好きだ。
 まずは小指に刷毛を乗せてみる。微かな重みとともに爪に光が溜まる。あ、綺麗、と、あたしは思う。限りなく薄い水色のマニキュアは初めて試してみたけれど、描いていたイメージ以上の表情を見せて、あたしをぞくぞくさせた。冷たい光が面を移ろう傍ら、あたしの熱を奪う、微かな青が、艶の底に沈んでいる。毒でも盛られたみたい。ひと刷毛ごとに蒼冷めてゆく生命。すっかり幸福な気持ちになって、あたしは全ての爪に色を乗せた。両手をひらひらと動かすと、爪が虚ろな容貌で笑う。水死体みたい。忽ち水の音が耳の孔まで満たし、あたしは揺れる水面を運ばれてゆく。もう此処には戻らない。どこまでも運ばれてゆく。

 何でいつもそんなに地味なマニキュアをつけてるの?という声に、あたしは、はっとする。クラスメイトだった。ただ同じ学校、同じクラスにいるというだけで、何の興味も湧いてこない、あたしにとっては無関係なひとだった。あたしはその子に目を向ける。でもどこを見つめたら良いのか分からない。この前は濁った緑色みたいなのを塗っていたでしょう、それでその前はグレーっぽいやつ?輪郭が掴めない。ぼんやりしてしまう。やめなよ、別の声が聞こえてくる。構わないほうが良いよ、と言っている。
 チャイムがゆっくりと響き、余韻が窓の外へと消えると、私の周りから全ての音が一斉に退いてゆく。最後にぽつん、と一滴の雫が水面に波をたてる。そしてあたしの耳にも届く。放っておいてあげなよ、可哀そう。

 あの青緑のマニキュアは、アルミフォイルを被せたみたいに、あたしの爪をぴったりと塞いで美しかった。それは決して剥がせない鱗となって、あたしを人魚の身へと堕していった。また別のとき、あたしは爪を無機質な灰色に変えた。近未来のサナトリウムで、自動的な奉仕を続けるアンドロイド。あたしの微笑いは、デジタルに歪んだ。

 爪に色を落とす。あの匂いが鼻を掠め、ふっ、と心を失う。美しい毒。爪の色が光を湛え、褪めてゆく。あたしは何処かへ失われる。もう一枚のつくられた皮膚。ひと刷毛、ひと刷毛ごとに、あたしはあたしから逸れてゆく。あたしの毎日の練習。ひとから異なる何かへと外れてゆく。

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