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			  夢がわたしを迎えに来る。 
			   夢は違わずわたしをとらえにくる。子どもの声。虹色の光。真綿でくるまれたような感触。 
			   極彩色の風景。血の匂い。皮膚をそがれる痛み。 
			   甘やかな恍惚感。 
			   子どものころから絶えず、夢はわたしのそばにいた。わたしはいつも夢に包まれ幸せだった。 
			   夢がわたしから去ったのは、わたしが初潮を迎えた日だった。 
			   その日から、わたしは夢から遠ざけられ、服を着せられ、学校へ行かされた。学校へ行くことは苦痛ではなかったが、幸せと言える感覚はわたしから遠ざかった。 
			   夢に渇いて夜目覚める。 
			   泣きながら夢の喪失を訴えるわたしに、けれども家族には何もできなかった。わたしは夢を探し、物語の世界に耽溺した。けれどもそこにあるのはつくられた物語で、夢ではなかった。物語は、いつも終末を迎え、わたしを悄然とさせた。そこは閉じた世界で、わたしはその世界には入れなかった。 
			   やがて、夢のない世界にも、わたしは慣れた。わたしは生きていかねばならなかった。食べ、咀嚼し、はいずり回らなければならなかった。 
			   わたしは、夢を封印した。 
			 わたしは恋をした。ひそやかな声で喋る優しい男だった。わたしは男と腕を組み歩き、ベッドのなかで睦言を交わした。男の体液をからだにまとい、わたしはまた幸福ということを知った。 
			   わたしと男は些細なことで喧嘩した。男は怒りをあらわにすることはなく、激高するのはいつもわたしのほうだった。泣き、わめき、あたりちらすわたしを、男は辛抱強くなだめ、諭した。男はわたしを理解することはなかったが、わたしを否定することもなかった。わたしはいつも男の優しい胸のなかで、甘やかな眠りについた。 
			   男はわたしの何倍も物知りで、わたしの何倍も勉強家だった。男の開く書物のほとんどはわたしには解読できず、男の書く文章もまたわたしには難解だった。けれどもわたしは飽くことなく、男のそばにまとわりついた。男もけっしてわたしを邪険に扱わなかった。 
			   男とのセックスは、とりわけわたしを夢中にさせた。それは、わたしから遠ざかった夢に似ていた。聞こえない声が、見えない風景が、触れられないものが、わたしとともにあるかのような錯覚をわたしに抱かせた。わたしは何度も男にセックスをねだった。男もその求めに応じた。 
			   わたしは男とともにあり、幸せだった。 
			 男が手のひらを返したようにわたしに背を向けたとき、わたしにはその理由がわからなかった。わたしと男とは、誰をもあいだに介さない蜜月を過ごしていたはずだった。男が自分から離れていくことなど、想像だにできないことだった。 
			   男は、あなたが嫌いになったわけではない、と言った。ただ、ぼくは行かなくてはならないのだ、と。 
			   なぜ。 
			   呼ばれたからだ、と。 
			   どこへ。 
			   わたしは泣きわめき、とりすがり、部屋中のものを投げつけた。男の鞄を隠し、男の帽子を隠し、男の靴を隠した。 
			   けれども、男はわたしのもとにはとどまらなかった。 
			   男は大事そうに一冊の本を抱え、寝癖をつけた髪をなでつけることもせず、裸足のままわたしのもとから旅だった。 
			   わたしは、部屋のなか、ひとりだった。 
			   わたしはまた取り残されたのだ。 
			   けれども、男への想いを、封印することはできなかった。 
			   わたしは荒れ散らかった部屋のなかで、男が残していったものを子細に点検した。男が触れたと思われるところすべてに唇をつけた。男が目を通したと思われるものすべてに指を這わせた。 
			   けれども、それはなにひとつわたしに鍵をもたらさなかった。 
			   絶望という言葉を、わたしはそのときに知った。 
			 男の持ち物の大半は書物だった。束の厚い大きな革装版の書物だった。ごとりという音をさせながらそれを取り出し、広げ、わたしはそのなかの文字の羅列に見入った。それはわたしにはわからない言葉で書いてあり、わたしにはその意味はつかめなかった。けれどもわたしの目はずっとその文字を追い、わたしの指は飽くことなくページを繰った。 
			   書物のなかには、挿し絵のあるものもあった。たいていはそこに数値が穿たれた、難しい図表だったが、ときどき、イラストや写真が入っていることもあり、意味のつかめない文字を追うことに疲れたわたしの目を楽しませた。 
			   ところどころに、男の手で、メモが付してあるところもあった。わたしはそれを目を皿のようにしてたどった。もちろん意味はわからない。ただ、男の残した痕跡を愛しむことを、わたしは自らに課していた。 
			   それは甘やかな苦行だった。 
			 兄がやってきた。この部屋を解約して引っ越すこと、男の持ち物をすべて処分することを、わたしに進言した。 
			   わたしは聞く耳を持たなかった。 
			   このまま、男の思い出と朽ちることは許さない、おまえはおまえの人生を新たにはじめるべきだ、と、男とはまったく異なる激しさで、兄はわたしを怒鳴りつけた。 
			   けれども、わたしには兄の声は届かなかった。 
			   兄の声が届いてこない? 
			   わたしは、そのことに気づき、目を上げた。 
			   兄がわめき、ののしる様は見えた。書棚を拳で殴り、わたしを指さし、唾を飛ばしていた。 
			   けれども、兄の声が、わたしから遠ざかりつつあるのを、わたしははっきりと感じた。 
			   わたしは手をのばした。兄の姿が歪む。わたしは金切り声をあげていたかもしれない。兄の姿が縮む。 
			   そうして、兄すらもわたしから遠ざかり消滅し、わたしはただ部屋のなか、ぽつんとひとり残された。 
			   わたしは男の残していった本を抱きしめ、うずくまっていた。 
			   やがて、少し落ち着いたわたしは、本を抱えたまま玄関まではいずっていき、そっと扉を開けた。 
			   外には虚無が広がっていた。 
			   わたしは扉を閉めた。わたしは世界から閉め出されたのだ。 
			   なによりも、これで男とふたたび会うことがかなわなくなったことを思い、わたしは涙した。 
			 日がな一日、わたしは男の残した書物を眺めて過ごした。相変わらず意味はさっぱりわからなかったが、なぜか笑いがこぼれる箇所があり、なぜか思い悩まされる箇所があった。ある意味わたしはその書物を読んでいたと言えるのかもしれない。けれども、いつまで経っても、わたしにはその文字の意味するところはわからないままだった。 
			   あるとき、同じようにページを繰っていたわたしの手が、ふと止まった。理由は自分にもわからなかった。けれども、そのときのわたしは笑みを浮かべており、明らかに鼓動が速くなっていた。 
			   わたしは立ち上がり、男の持ち物のなかから虫眼鏡を探し当て、それを手に戻った。 
			   そして、そのページを端から端まで食い入るように見つめた。 
			   最初、わたしはすぐにあきらめた。そしてまた新たにページを繰ろうとした。 
			   けれども、わたしの手はどうしてもそのページから次に移ろうとしなかった。 
			   わたしはもう一度虫眼鏡を持って、そのページを眺めた。 
			   なんの変哲もないページに見えた。相変わらず意味のわからない文字が並んでいるだけ。抽象的な内容が書いてあるのか、手に汗握るような冒険小説が書かれてあるのか、そんなことすらわたしにはわからない。 
			   わたしは疲れて虫眼鏡を離そうとした。けれども、わたしの手はどうしてもその作業をやめようとしなかった。わたしは疲れた目で、何度も同じ作業を繰り返した。 
			   不意に、画像が拡大した、ように見えた。 
			   わたしは目をこすった。なんの変哲もない文字の並んでいるページが、虫眼鏡の向こうにあった。けれども。 
			   画像が、拡大した。 
			   わたしはまばたきを忘れ、虫眼鏡のなかに見入った。 
			   画像が、拡大した。 
			   まだそれは、文字の羅列だった。けれども徐々に。 
			   画像が、拡大した。 
			   徐々に。 
			   画像が、拡大した。 
			   徐々に、それは、行間から姿を現し。 
			   画像が、拡大した。 
			   その姿が鮮明に。 
			   画像が、拡大した。 
			   鮮明に、虫眼鏡を通して姿を現してきた。 
			   画像が、拡大した。 
			   わたしは食い入るようにそれに見入った。まるで。 
			   画像が、拡大した。 
			   それが、わたしを誘うかのように。 
			   画像が、拡大した。 
			   それは。 
			   画像が、拡大した。 
			   それは、古い古い屋敷の姿で。 
			   画像が、拡大した。 
			   古い古い屋敷の姿で。 
			   画像が、拡大した。 
			   そして、その窓の向こうに、わたしは愛しい男の姿を、見た。 
			   やっと鍵に出会えたのだ。わたしの口からは笑みがこぼれていた。 
			 わたしは着ているものをすべて脱いだ。それは男とベッドに入っていたときのわたしの姿であり、また、夢がわたしを訪れていたころのわたしの姿でもあった。 
			   わたしはバスルームに入り、カミソリを取り出した。そしてそれを肌にあて、しゅっとひと引きした。 
			   つーっと、部屋の真ん中に赤い線が走り、その線から赤い粘液質のものが流れ出したのが見えた。風景が徐々に赤に染まる。 
			   わたしはそのなつかしい風景に、我知らず笑みをこぼしていた。 
			   わたしは化粧水の瓶をバスルームにたたき落とし、その破片を裸足で踏み砕いた。 
			   足元から、きゃあきゃあと子どもの叫び声がする。 
			   わたしは洗濯紐をはり、それに首をかけた。気が遠くなるような痛みと愉悦。 
			   快楽。 
			   おいで。 
			   ああ、こんなに簡単なことだったなんて。 
			   そうしてわたしは、はじめて自分から、夢を呼んだ。 
			 あなたが行かなければならなかったのなら、あたしのほうからそこへ行ってあげる。 
			 夢のなかで、わたしは幸福だった。むせるような血の匂い。耳をつんざくような子どもの叫び声。拘束具に締め付けられたかのようなからだの痛み。 
			   すべてが、わたしに快楽を呼んだ。 
			   虹色の風景のなか、わたしは記憶の糸をたどった。夢は絶えずわたしとともにいた。すべての夢がわたしとともにあった。 
			   夢の風景を、わたしは順次ひもといた。 
			   そのすべてが、快楽とともにわたしにあった。 
			   けたたましいまでの歓喜の叫びがほとばしり、わたしは自分の耳をふさがなければならないほどだった。すべての記憶がわたしとともにあり、男の記憶もまた同様にそこにあった。 
			   まばたきするほどの間に次から次へと過ぎていく景色のなか、わたしはずっと男といっしょだった。わたしは笑っていた。わたしは泣いていた。わたしは怒っていた。そのあいだずっと男はわたしとともにあり、わたしを見ていた。 
			   それは夢だった。男はわたしを見て、笑顔を向け、あのひそやかな声で話しかけた。甘美な夢。嘘偽りのない夢。 
			   夢。 
			   わたしは夢の男に自分の意識を重ね合わせ、入り込んだ。 
			   ぐるりと景色がまわった。わたしは男の目をのっとり、男の耳をのっとり、男のからだを占拠した。 
			   男になったわたしの前に、すべてのわたしがいた。夢のわたしは無表情に、こちらを見ていた。無表情にこちらを見て。 
			   あなたは誰? と言った。 
			   わたし? わたしは、わたしだ。 
			   わたしは夢のわたしに口づけた。夢のわたしと夢の男を占拠したわたしの唾液がまじる。そのねっとりした口づけは、苦い血の味がした。 
			   夢のわたしは処女だった。夢のわたしは夢のわたしを犯し、破瓜の血を流させた。夢のわたしは苦痛のなかにも歓喜の声をあげながら悶え、夢のわたしははじめての吐精に我を忘れた。 
			   ぐるりと景色がまわった。 
			   あたしをつれていって、とわたしが言った。 
			   どこへ? とわたしが言った。あなたはもう、ここへ来ているのに。 
			   どこかで、鳥のさえずる声がした。 
			 目を開くと、天蓋付きのベッドの上で、女がカーテンを開けるところだった。 
			   ここは? と問うと、女がいぶかしげに、あなたの部屋ですが、と言う。 
			   シーツをめくると、わたしはなにも身にまとっておらず、女は服の用意をしておらず、なるほど、ここではわたしは裸で過ごすものらしい。 
			   わたしはふくらみのない胸を、下生えのない下腹部を確認した。これでは、まるで少女のころのようだと思う。 
			   そしてぐるりを見渡せば、確かにまるで少女のころのように、夢が訪れてはわたしのからだを撫でていた。 
			   わたしは裸足のままぺたぺたと部屋の外へと出た。夢はわたしについてきた。 
			   広い廊下が延々と続いていた。先は暗闇に隠れて見えない。わたしは行く場所を決めずにぺたぺたと歩き始めた。 
			   廊下は長かった。わたしは歩き疲れ、適当な場所で扉を開いた。扉はきぃと音をたてて開き、なかでは女が掃除をしていた。 
			   ここはどこ? とわたしが問うと、女はいぶかしげに、あなたの部屋ですが、と答える。 
			   わたしは部屋のなかに入り、ベッドに身を横たえる。シーツはまだ変えられておらず、破瓜の血と精液で汚れていた。匂いをかぐと、なつかしい匂いがしたが、なんの匂いかまではわからなかった。わたしはそのまま眠った。 
			   目を開くと、女が食事の支度をしていた。皿のなかには、わたしの目と、わたしの髪と、わたしの爪が入っていた。わたしはそのスープを音をたててすすった。 
			   夢は相変わらず、わたしのもとへ訪れては、甘美な風景をわたしに見せる。 
			   わたしは夢にくるまれて、幸せな眠りに落ちる。 
			 夢がわたしを迎えにくる。 
			   わたしは裸のまま夢にくるまって、屋敷のあちこちを散歩する。尽きない廊下。動かない部屋。そのなかで、わたしは幸福な幸福な夢を見続ける。 
			   いつか書物が閉じられる日まで。 
			
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