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Author Interview

インタビュアー:[雀部]&[ケダ]

『ミッションスクール』
> 田中哲弥著/橋本晋カバー
> ISBN 4-15-030850-0
> ハヤカワ文庫JA
> 660円
> 2006.5.31発行
「下痢のため一刻も早く排便したいのです」――謎の符牒とともに教室から姿を消した聖メヒラス学園一の美少女・山岸香織は、MI6の潜入工作員だった。国連事務総長直属の諜報員・吹石雄作は香織と接触、イラク軍のテロ活動を阻止するため極秘任務を開始するが……華麗なる諜報戦を描く表題作ほか、ホラー、ファンタジイ、アメコミ、純愛ロマンという5つのジャンルフィクションの定型による規格外の学園ラヴストーリー。
 他の収録作は
「ポルターガイスト」
 個々の人間の恥の意識が、人間を吹き飛ばし校舎を破壊するほどの大音響になって噴出するというてんやわんやを描いたホラー短篇(笑)
「ステイショナリー・クエスト」
 国家予算レベルの寄付金で潤う聖キュラソ学園の美術部で、備品が足りなくなったために部長が総務部まで取りに行かないといけない羽目に。その総務部というのが……あっと驚くゲーム的な展開を見せるファンタジイ大作(爆)
「フォクシーガール」
 絶世の美少女菜々美は、ひょんなことからスーパーヒーローの能力が備わったために、全世界の悪の権化たちの挑戦を受けることになるというアメコミ風短篇―本当(笑)
「スクーリング・インフェルノ」
 超巨大豪華学府『聖メトロン学園』は、堅牢な設計を誇り「絶対沈まない学校」であることを声高に標榜していた。が、その学園が崩壊を始めたのだ。最下等クラスの白石詠一は、その災難に巻き込まれたが、なぜか登場する人々にむやみに惚れられてしまう。奇想天外な展開を見せる純愛ロマン学園ラブありすぎストーリー(爆々)

『やみなべの陰謀』
> 田中哲弥著/笹井一個カバー
> ISBN 4-15-030845-4
> ハヤカワ文庫JA
> 620円
> 2006.4.15発行
 時は現代、大学生の栗原守は初対面の立秋茜といきなり宿命の恋に落ち、いっぽう過去では、下級武士の吉岡信次郎と幼なじみ・るりとの恋が悲劇的な結末を迎え、さらに未来では、大阪府知事によるお笑いファシズム体制下、レジスタンス組織が決死の知事暗殺計画を遂行しようとしていた―そしてあらゆる因果の中心には、アロハシャツの大男と謎の千両箱の存在があった…5つの物語が時空を超えて絡み合う時間SFの傑作。
雀部 >  今月の著者インタビューは、5月31日に『ミッションスクール』をハヤカワ文庫JAから出された田中哲弥先生です。
 田中先生、よろしくお願いします。
田中 >  よろしくお願いします。
雀部 >  インタビュアーとして、お馴染みのケダさんにも加わっていただきました。
 ケダさんお待たせしました。田中哲弥先生登場です! 今回もよろしく。
ケダ >  この日が来てくれて、ほんとうに嬉しいです。よろしくお願いいたします。
雀部 >  『ミッションスクール』の帯に“『やみなべの陰謀』から7年、今世紀初の新作、奇跡の刊行”とありますが、その間いかがお過ごしだったのでしょうか。
田中 >  だらだらしてました。ときどき短編書いたりエッセイ書いたりの他、なにしてたのか自分でもあまり覚えてないのですが仕事としては『アベノ橋魔法☆商店街』というアニメの脚本を手伝って可愛い声優さんたちとなかよくなったりはしました。その関係でラジオに出演したり、CD用にラジオドラマを書いたり。
 あと、守秘義務があるというので詳しくは言えないのですが、ここ二年ほどとある国家プロジェクトに参加しています。今もまだ継続していますがぼくの仕事の大半はすでに終わりました。
ケダ >  あのぉ、その国家プロジェクトについては、我々庶民が詳細を知らされる日は来るのでしょうか?
田中 >  守秘義務があるのは事実ですが、洩れると国家の存亡に関わるとかスパイに命を狙われるという心配はありません。たぶんあと一年か二年すれば公表できると思います。
ケダ >  アニメやラジオのお仕事が中心になっていた時期には、「田中哲弥さんは小説という媒体に見切りをつけて、別メディアの世界に旅立ってしまわれたのかなあ」とちょっと寂しかったのですが、実際のところ、ご本人には「小説から離れてみよう」とか「創作の場所を変える」みたいな意識はおありでしたか?
田中 >  ぼくは小説という表現方法がなにより好きですので、他のことをやりながらも常に自分は小説家として参加していると考えていました。アニメの制作現場に直接関わって、アニメという表現方法もおもしろいなとは思いましたが、ぼくは人との共同作業に向かない性格なので、せっかくおもしろいギャグやフレーズを書いても時間や作画の都合で切られたり変えられたりすることにはものすごく抵抗があります。小説ならひとりで好き勝手やれるので、そこから離れる気持ちはまったくありませんでした。ただアニメの仕事はなにかと楽しかったので機会があればまたやりたいとは思います。
ケダ >  小説家・田中哲弥さんが存続してくださるという心強いお話しが聞けただけでも、今回ご一緒させていただけてよかったです(安堵)。
田中 >  ぼくは昔からおもしろそうだと思ったらなんにでも手を出すところがあって、たぶんこれからもなにかあればいろいろやるのではないかと思うのですが、小説は書くのも読むのもぼくには一番合っているような気がするので他がメインになることは十中八九ないはずです。
雀部 >  なんか安心(笑)
 『ミッションスクール』を読ませて頂き、大いに笑わせてもらいました。一番好きなのは、個々の人間の恥の意識が大音響になって噴出するという「ポルターガイスト」。いったいどうすれば、こんなに馬鹿らしくもユニークでぶっ飛んだ面白い設定を思いつかれるんですか。しかも、五つも(笑)
田中 >  なんとなく、日常的にこんなことばっかり考えているような気もします。ぼくの母親は暇さえあれば手当たり次第に映画を見にいく老人なんですが、あるとき実家に帰ると『オースティン・パワーズ・デラックス』を観にいってきたという母親が「あまりにアホらしくて腹が立ち、三十分ほど我慢して観ていたが途中で帰ってきた」とぷりぷり怒っておりました。根が真面目なせいか料金損したとかそういうことではなくあのような映画が存在することに対して本当に怒ってました。ああいうギャグ作品をただふざけているだけのものとして、笑いながらも小馬鹿にしたり見下したりする人は多いですが、その一方でこの作品を認め、そのセンスや才能に賛辞を惜しまない人もたくさんいるというのに、ここまで真剣に「怒る」人がいるという事実はちょっとした驚きでした。映画を観て喜んでいる側にとっては、嫌悪感を示したり怒ったりする人の反応までもが笑いの対象になるわけで、マイク・マイヤーズってやっぱりやるなあ、ぼくもこんな風に誰か怒らせてみたいなあというのがこのシリーズの原動力となっています。
雀部 >  《オースティン・パワーズ》シリーズが、かなり人を選ぶのは確かですが、読者を真剣に怒らせてみたいというのは、かなりユニークな原動力ですね(笑)
 そうか、田中先生の本は「こんなバカなことを書きやがって」と怒りながら読むというのも、一つの読み方として成り立つわけですね。
田中 >  怒りながら読んでくれるのもいいんですが、そうやって怒ったり顔をしかめたりする人の反応を見て笑う、という笑いもあるなあと思いまして。『オースティン・パワーズ』に怒っている母親のようすは、ぼくとしてはめちゃくちゃ笑えました。
ケダ >  読書というのは非常に個人的というかひきこもり型のエンターテインメントで、読者から直接フィードバックがある著者は別にして、通常は他の読者の反応というのは見えないと思いますが、ネットで個人の書き物が増えているいまなら、他の読者の反応を見て笑う、という立体的(?)な楽しみ方が読書に加わるのかもしれないですね。
 ……あ、それとも「怒る読者」というのは、実際に見えなくても「あいつやったら怒りそうやなあ」みたいなバーチャルな楽しみ方も含まれるのでしょうか。
田中 >  作者としての理想は、こんな下品でくだらないものは許し難い、と嫌悪感抱きながらも結局最後まで読んでしまって途中何度か笑いそうになったのを必死でこらえた、というような感じでしょうか。で、結局全部読んでおもしろかったんでしょ、と訊かれた清楚な少女が「ばっばかなことを、こんなけがらわしいものっ」とか言いつつ深夜またこっそりひとりベッドで読んで笑ってしまうとか。
 そういう妄想は別として、一部の読者にとっては、ああこれは苦手な人いるだろうなあと思って読みながら自分は笑ってしまっているというのはけっこう楽しいことなのではないでしょうか。「わかるのは自分だけ」みたいな感覚というか。
ケダ >  あああああ、わかる気がします>「わかるのは自分だけ」。
 難解方面でもそういうメンタリティは働くでしょうけど、笑いとか、へんな設定とか展開についていけることのほうが、「センス」を問われるような感じで、なんかくすぐられるものはあるかも(笑)。
 もっとも、わたしはわかってないほうの読者で、「ねえ、なんでポルターガイストなん? ポルターガイストってこういうことやった?」と正直戸惑いを隠せません。
雀部 >  ちゃうと思いますが、田中先生の小説を読んでいるときは、そういうのはどうでも良い気がしますよね(爆)
ケダ >  ポルターガイストはさておき、ミッションスクールはそうかな、と思いますけど、本になっていない短編のいくつかでも、「タイトルが先にあって、それをモチーフに大風呂敷を広げたら……ちょっと待て、そっちか、そっちに広げてしかもそんな色形かよ!」と唖然とさせられるものが結構あるような気がします。
 全部がそうじゃないから、いつも身構えて待っているわけにもいかないんですが。
 タイトルをモチーフに、とんでもない方向への展開っていうのは、田中先生のお好きな――お好きというのと違っていれば、なにか「おもしろそう」とか「挑戦しがいのある」小説作法のひとつだったりするのでしょうか?
田中 >  いや、それはどうでしょうか。たしかに『大久保町の決闘』はタイトルが先でしたが『燃えているか』や『さらば』は先にテーマを決めて、タイトルにはけっこう苦労した覚えがあります。『大久保町は舞い降りた』というのや『大久保町で朝食を』とかいろいろ考えました。タイトルが先に決まって、そこから話を広げた作品というと「ハイマール祭」があるくらいで、それ以外はほとんど全部ネタが先でタイトルはそのあと考えたものだと思います。「ミッションスクール」もタイトルは書いている途中で思いついたような。タイトルをモチーフに、ではありませんが、些細なしょーもない発想からめちゃくちゃな方向へ、というのはたしかに好きかもしれません。
雀部 >  『大久保町は燃えているか』の小見出しとして、スタンダードナンバーの曲名が採用されていますが、田中先生はどういう音楽がお好きなのでしょう?
田中 >  二十歳くらいまでは真剣に音楽の道に進もうと考えていましたので、そのせいかクラシック以外は音楽ではないと考えるほど頑なでしたが、今ではいいなと思えばどんなジャンルのものでも好きです。落語や自分で書いたラジオドラマも含めて約3500曲入っているぼくのiTunesの現時点での"Top 25 Most Played"のトップはエルビス・コステロの"she"です。他上位を占めるのはローランド・カーク、椎名林檎、スティーヴィー・レイ・ヴォーン、アンジェラ・アキ。
雀部 >  バラエティに富んでいるなぁ。エルビス・コステロの"she"の一部は、ここで試聴できます。
 同じく『大久保町は燃えているか』で、ブラスバンドについての言及がありましたが、昔ブラスバンド部だったということは、おありでしょうか?
田中 >  ブラスバンドというか吹奏楽部ですね。厳密に言うと金管主体に編成されたブラスバンドというものは日本にはほとんど存在しないと思います。中学高校と吹奏楽部でトランペットを吹いてました。中学生のころはこんなにおもしろいことが他にあろうかと夢中でしたが高校入ったあたりからなんとなくアホらしくなり合奏は捨て自分の技術向上のための練習ばっかりするようになりました。いやな高校生でした。高校卒業後いろんな形で音楽をやって、また他の表現方法もあれこれ体験するうち「吹奏楽コンクール」に代表される「日本の吹奏楽」というスタイルがとても恥ずかしくて滑稽なものだと思うようになってしまい、今では吹奏楽をやっていたというのは永遠に封印したい恥ずべき過去です。今でも高校や大学の吹奏楽部が練習や演奏しているのをテレビで見たりすると、昔の自分を思い出してめちゃくちゃ恥ずかしくなります。
雀部 >  屈折されてますねえ。封印したい過去のことを作品の中で言及してしまうというのは、作家としての性(さが)でしょうか、サービス精神でしょうか?
田中 >  なんなんでしょうね。自分をおちょくって遊んでいるんでしょうか。
ケダ >  田中先生の作品で一番わたしが好きなところは、たぶん文章、特に関西弁の音楽的なまでの再現力なんですが、あれはもう「自然にそう書けてしまう」ものですか?
 関西弁ネイティブの作家が書いた会話でも、頭の中で音に再現したとき、「ん〜?」っていうのはたくさんあって、これはおそらくどの方言でもそうなんでしょうけど、ネイティブ以外の読者にも意味が通じて、なんとなく関西弁である雰囲気も伝わることを優先すると、ああなっちゃうのかな、とは思うんですが。
 『やみなべの陰謀』の川北翁とか、ほんと、すごいですよね(うっとり)。
田中 >  文章表現の中での音とかリズムは常にとても気にして書いています。ぼくの文章は、適当にめちゃくちゃを書き飛ばしているように思われることが多いですが、実はものすごく手間のかかることをやっているのです。だから書くのが遅いのです。ということにしておいてください。
 関西弁と言ってもいろんなものがあって、たとえば芦屋や宝塚の育ちのよい女の子なんかは、イントネーションは関西アクセントであっても文字面はだいたい標準語だったりします。「あたしそれわからない」「そんなことしてないよ」と書いてしまうと標準語にしか見えませんが喋っているのを聞くと完全に関西弁なわけです。ぼくは兵庫県明石市に育ったので基本的に持っているのは大阪弁ではなくて播州弁で、川北老人の喋っているのも播州弁です。播州弁でも、土地によって微妙に違いますし、土着の老人が喋るものと今時の若者とではまた違っていて、川北老人には昔ながらの明石の言葉を話させようと考えました。ぼく自身ネイティブなので自然に書けてしまう部分もたしかにありますが「ほんまに、かなんで、あれは」と言ったとしても実際には「んーまかなんでぁらあ」と発音されていたりするのを、なんとか意味もわかる範囲で現実の発音に近い表記にしようと工夫したりはしてます。
ケダ >  なるほど〜。
 やみなべの「千両箱とアロハシャツ」「ラプソディー・イン・ブルー」では、会話の部分と話者の頭の中ではその延長にあるから口語のままなんだけど、実は発言はされてない意識の部分とが交錯していて、それが「」の中や外で踊っていて、教科書的な「」使いに慣れきった状態で読み始めると、最初は戸惑うのに、だんだん「そうそう、こんなんやよなあ」とだんだん快感になっていくあたりも、面白いなあ、好きだなあ、と個人的に思っています。
 世の中には考えたり外界を認識しているときに脳内でひとりごとをずーっとしゃべっているような状態になる人と、そうじゃない人、文章を読むときに脳内音読をする人、しない人、といるようですが、田中先生ご自身は脳内音声再現・音読派でいらっしゃいますか?
田中 >  台詞のカギ括弧に続いて台詞の続きのように意識の流れを書くというやり方は欧米の作家の作品に多いように思うんですが、現実に誰かと会話していたり人の話を聞いているのと違って、小説の場合は台詞も状況もどちらも同じ「文字を読む」という作業によって理解していくわけですので、ぼくは基本的に台詞も地の文も全部ひっくるめてのリズムを考えているようなところがあります。
 現実に人がなにかを話しているときというのは、けっこう曖昧などうでもいいことをたくさん喋っているわけで、それをそのまま書いたのではわけがわかりませんが、なんとかその雰囲気をリアルに再現できないかというようなことも、たまに考えていたりします。人によっては「アホが適当に書いているだけ」に見えるようですが、実はけっこういろいろ考えておるのです。というようなことを先日とある人に言ったら、え、アホが適当に書いたらたまたまああなるというのがすごいところなのではないんですかと言われました。
 こういう「文章全体のリズム」みたいなものは「脳内で音読している」人にしか理解されないもので、ぼく自身速読みたいなことがまったくできないというかそんなことやりたくもないのですが、書かれてある話の流れだけを読み取って読書するような人にはまるでどうでもいいことになってしまうのではないかと思います。なにが書かれているかということと同時に、どう書かれているかということも楽しんでこそ小説の楽しみだと思うのですが、現実にはそういうところを読む人少ないしなあと悲しく思っているところです。
 そういうわけで小説を読むときぼくは常に「音」として感じながら読みますが、物事を考えたりなにかに反応したりするときはまったく文字や言葉は意識してません。あまり関係ありませんが、たまに電車に乗っているときなんか、隣に座っているおっさんが「せやからわし前からずっと山本の嫁では佐々木んとこは無理やて言うてんねやないかっ」とか言ったりしてびっくりすることはちょいちょいあって、頭で思ったことを実際に発声してしまう人というのは想像以上に多いような気がします。
雀部 >  私が悶絶したのは、『さらば愛しき〜』のラストあたりで、寺尾が梅仁丹入りのクレイモア地雷を爆発させ、芳裕が鯉のいる池の横を通ったら、鯉が梅仁丹を食っていたシーン。
 こうやって概要だけ書くとそれほどでもないけど、流れの中でリズム感良く読んだときは、ほんとに吹き出してしまいました(爆)
 関連質問ですが、田中先生はご自身が関西人であることを意識して小説を書かれていらっしゃるのでしょうか?
 というのは、なんか関西の血みたいなものを感じてしまうのです。私の中で、関西のSF作家というと、小松左京先生、堀晃先生、谷甲州先生あたりなんですが、自分を客観視して笑い飛ばすとか、深刻な場面にもそこはかなく漂うユーモアのセンスにそれを感じてしまいます。
田中 >  たしかに関西独特の少々貪欲な笑いというのは好きですが、特に意識したことはありません。子供のときから漫才や落語が身の回りにあってあたりまえという環境だったせいで、ある程度そういうノリは身に付いているのでしょうが、ぼくは大阪という土地を心底嫌っているので関西の笑いを大事にしようというようなつもりは毛頭ありません。吉本興業で台本作家やっていたという経歴のせいで、なにを書いても「吉本的」だとか「吉本新喜劇的」と言われるのは非常に心外です。新喜劇の台本なんか書いたことありませんし。ただ基本的に気取ったことが苦手で常に道化を演じてしまうというのは、たしかに関西系の習性かもしれないなあとは思います。
雀部 >  田中先生の"Tetsuya Tanaka's Page"にある掲示板を拝見したときに、《大久保町》ファンには、『ミッションスクール』は受け入れられないのではないかと心配したと書かれていましたが、それは何故でしょうか。
田中 >  心配していたのではなくてぼくの書くものの中で《大久保町》だけが好きだというような人は怒るだろうなと思ってました。小説読むのにあれこれ面倒なことは考えたくない、わかりやすくて読後感の心地よいものだけを読みたいのだという人のためにライトノベルというジャンルがあるのかなあと思ったりするのですが、正直ライトノベルのことはよく知りません。ただ《大久保町》シリーズは電撃文庫やスニーカー文庫なんかがまだヤングアダルトと呼ばれていたころ、小学生高学年くらいからの子供を対象にしていたもので、ぼくの作品の中では唯一ライトノベルオンリーな読者にもぎりぎり受け入れられたのではないかと思います。なんせ怠け者なので作品数が少なく、田中哲弥イコール《大久保町》と考える人が多いのも無理のないことでしょう。そういう読者が《大久保町》のようなものを期待して『ミッションスクール』を読んで、健全でさわやかな話を期待してたのにいきなりセックスしちゃうなんてどういうこと? 学校が沈むってなにれそわけわかんないっ大人って不潔っみたいな反応を期待したわけです。もちろん《大久保町》も『ミッションスクール』もどっちも楽しんでいただけるのが一番嬉しいわけで、蓋を開けてみるとちゃんとおもしろがってくれている人がまあまあ多くて驚く一方、怒らせる企みはいまいち不発だったようでちょっと残念です。『電撃hp』の読者はちゃんと怒ってたみたいですけど。
雀部 >  『電撃hp』は、以前に秋山瑞人先生のインタビューをさせていただいた時に、二号ほど読んだのですが、色々な読者の方がいらっしゃるようですね。まあ、下ネタもOKかなという感じは受けましたが(笑)
 その時、『電撃hp』掲載時と文庫になったときは、挿絵が違う(『電撃hp』の挿絵でなくてはダメだ)ということを知ったのですが、『ミッションスクール』はどうだったのでしょうか?
田中 >  ハヤカワ文庫では別に挿絵は必要なかったのかもしれませんが『SFマガジン』に「フォクシーガール」が掲載されたときのイラストがとてもよかったし、作品がライトノベルのパロディみたいなとこもあるので体裁はライトノベル風にするのがよかろうというような流れで、それで文庫化のときも橋本晋さんにお願いしたのだと思います。『電撃hp』では「ステイショナリー・クエスト」にイラストがなかったりしましたし、出版社が違いますので当然文庫と雑誌掲載時とではイラストは違っています。
雀部 >  あ、そうですね(汗)
 確かに『ミッションスクール』は、全体的なトーンが、ラノベのパロディみたいだなあとは感じました。
 ライトノベルにおいては、イラストが非常に重要なウェートを占めていると思いますが、田中先生は、イラストレーターの方に対して対抗意識のようなものはおありでしょうか?
田中 >  《大久保町》シリーズは小学生高学年あたりからを対象としていたためイラストを使った演出を考えたりしましたが、絵本や児童文学など未成熟な読者のためのものならともかく小説が挿絵によって印象を大きく左右されることは通常ほとんどないようにぼくは思います。
雀部 >  なるほどありがとうございます。そのお言葉、ちよっと心強いです。私自身は、イラストの善し悪しで文庫を買うかどうかを決めるというのは、ほとんどないのですが、友人たちはけっこう表紙の画を見て買うことがあるようなので。
田中 >  表紙や装丁が、本屋で手に取ったり、購入したりするきっかけになることは充分あるのではないでしょうか。事実、一見ライトノベル風の表紙である『ミッションスクール』をいそいそと手にした女子高生が、裏返してあらすじを見た瞬間犬のうんこでも掴んでしまったかのようにあわてて放り出す現場をぼくは目撃しました。
雀部 >  ぎゃはは。まじっすか(爆笑)
ケダ >  掲示板を拝見していると、10年も前の作品である《大久保町シリーズ》が好きで、新作を待ってるっていう人の書き込みがすごく多く、田中哲弥ファンは気が長いなあというのも感心しますが、「ねえ、やみなべから入った人はいないの?」と、ちょっと意外な気もしています。
 電撃の読者層の親世代にあたるわたしから見れば、そんなに差がわかりませんが、『やみなべの陰謀』も、ひょっとして電撃hpや電撃文庫の読者層にとっては《大久保町シリーズ》と比べて相当異色な作品だったんでしょうか?
 やみなべを執筆中、田中先生の意識の中ですでに「ちょっと読者を裏切ろう」とか「驚かそう」みたいなお気持ちはおありでしたか?
田中 >  いや『やみなべ』が当時の掲載誌の中で浮いていることははっきり自覚していましたが、ぼくとしては《大久保町》とそれほど変わらないノリで書いていたのであんなにそっぽ向かれるというのは意外でした。《大久保町》からして電撃関係の中では少々浮いてましたし、それほど人気があったわけでもないのですが『やみなべ』の不人気はそれはそれは立派なものでした。たまに「すべての謎が解けていくのが快感だった」と言ってくれる人がいる一方で、電撃の読者には「謎が中途半端に残っていて不満」と言う人も多くて、当初はなにがどうなのかわけがわかりませんでした。
雀部 >  SFファンとしては、当然「すべての謎が解けていくのが快感だった」派でございます。
 《大久保町》『やみなべの陰謀』『ミッションスクール』の三作は、どれも日常生活に一部異常な――相当異常かな(笑)――設定を持ち込んだという共通点があると思います。
 まったく架空な世界ではなくて、こういった設定にされたのは、どういう理由がありますでしょうか?
田中 >  ぼくの感覚だと、まったく架空の世界を構築する小説の方が珍しいような気がします。
雀部 >  読者層を考慮されたのかと思ったのですが、違いましたか(汗)
 『やみなべの陰謀』は、タイムスリップ小説としても良くできていて楽しめたのですが、田中先生のお好きな、又は影響を受けたタイムマシン小説は、どういった作品でしょうか。
田中 >  タイムマシンでも小説でもありませんが時間もので一番最初にびっくりしたのは手塚治虫の『ワンダースリー』でした。山手台ショッピングセンター一階の散髪屋で散髪の順番を待ちつつ『少年サンデー』で最終回を読んだときの感動は今も鮮明に覚えています。大久保駅前の歯医者の待合室でデビルマンがシレーヌに腕を引きちぎられるシーンを読んだ衝撃と双璧です。タイムトラベルに伴う切なさみたいなものは大好きなのですが、小説で好きな作品と言われると特に思いつきません。ボブ・ショウの「去りにし日々の光」なんか好きですがあれはまた少し違いますし『トムは真夜中の庭で』もめちゃくちゃ好きですがこれもちょっと違うし『夏への扉』は高校生のとき読んで感動したのは覚えてるけどどういう話だったかもうほとんど忘れてるし、いまごろこんなこと言ってなんですが実はぼくSFの小説ってあんまり読んでないんです。
雀部 >  あちゃ(笑)
ケダ >  えっと、田中先生はむかーし日記で、授賞式かなにかで敬愛する筒井康隆先生ご本人を発見して、近くに寄ってにおいを嗅いだだか同じ空気を吸っただか(だいぶ違いますね、すみません)で感動していたとかなんとか書いておられたような記憶があります。たしか筒井先生のファンというか、筒井作品のファンでいらっしゃいますよね?
 日記の文体も筒井先生へのオマージュみたいなものがあるのかなあ、と思ったりしているのですが。筒井康隆先生の作品も、特に「SF」とは思わずにお読みになってこられました?
田中 >  ぼくの小学生時代は学校の図書館で『怪人二十面相』や『シャーロック・ホームズ』のシリーズなんかといっしょに星新一を読むのがあたりまえな感じがあったので、自然にへーおもしろいなあと読んでましたし、テレビの少年ドラマシリーズ『タイムトラベラー』を見て『時をかける少女』を読み、続いて『謎の転校生』『夕映え作戦』などを読むのもごく普通の流れでした。そういう流れの中で中学生のときくらいから本格的に筒井康隆を読むようになって、こんなおもろいものがあるんやなあ、とか、小説ってこんなこともできるんやなあといちいち驚き喜んでいましたが、SFだからと思って読んだことはまったくなかったです。子供の頃の読書傾向は成長に伴って他のものへと変化するのが普通ですが筒井さんの発表する作品がこちらの成長以上に常にとてつもない変化を見せてくれたので、それを追うだけでも充分面白かったようなところがあります。いわば小説の楽しみや奥の深さを知る最大の入り口がぼくにとっては筒井さんだったわけです。筒井さんが話題にしたり紹介したりしている本なんかも気になるので、そこを起点にあれも読みたいこっちも読みたい、これを楽しむためにはあれもこれも勉強しなくては、と焦りにも似た気持ちでSFも読みましたが同時に古典から現代文学、実験小説などにも手を出すようになって、そういうことをしているうちにだんだんおもしろい本をみつける嗅覚みたいなものができてきたような気がします。勝手に師匠と仰いでいたわけですが、いろんな部分でめちゃくちゃいい師匠に恵まれたと思っています。そういうわけでSFというジャンルには、とても懐かしくて心地よい響きを感じるのですが、特に意識したことはありません。ただそういう育ち方をしてきたせいでぼくは今もラテンアメリカ文学やヨーロッパの前衛文学なんかも、おーSFやなあと思って読んでます。
雀部 >  それはある意味正しいSFファンのあり方だと思います。
ケダ >  「SFというジャンルには、とても懐かしくて心地よい響きを感じる」田中先生にとっては、今回、早川書房からやみなべの陰謀、ミッションスクールと続けて本を出されたのは、ちょっと嬉しい出来事だったりしますか? そういうのは、あんまり関係ないもんなんでしょうか。
田中 >  それはものすごくあります。『SFマガジン』に自分の小説が載っているというのも相当嬉しい出来事ですが、ハヤカワ文庫で自分の小説が出版されるというのは特別な思いがありました。中学高校と強烈な憧れを持って読んでいたところですからね。『百億の昼と千億の夜』と同じ棚に並ぶなんてほんまにええのかなあ、みたいな。
雀部 >  そうか、『百億』は、もはや古典だから、たいてい在庫ありだろうから並びますよね
 ハヤカワSFシリーズ Jコレクションにも、ぜひ登場をお願いします。
田中 >  Jコレクションはずいぶん前から話があったのですが怠けているうちどんどん先延ばしになって、どういうわけか『ミッションスクール』が先に出ることになりました。来週編集者と会って打ち合わせする予定ですので、たぶんそのうち出ると思います。
雀部 >  ほんとですか! 楽しみにお待ちしております。
ケダ >  自分の話で恐縮ですが、わたしはジャンル意識が希薄というのもあるかもしれませんが、SFというジャンルが特によくわからないので、こちらでインタビューにご一緒させていただくたびに、すきあらば「○○先生にとってSFとはどういうものですか?」とうかがってきました。
 田中先生がラテンアメリカ文学やヨーロッパの前衛文学なんかに「おーSFやなあ」をお感じになるときって、どんな部分があるからSFと認識していらっしゃるんでしょうか?
田中 >  映画やマンガなど他の表現も含めるとまた多少違ってくるのですが、小説というか文章表現に限って言うと早い話ぼくにとってSFというのは「なんでもあり」というのとほぼ同義です。あれこれ語れるほどたくさん読んでいるわけではないので相当乱暴な話になりますが、たとえばラテンアメリカ文学のマジック・リアリズムというのも、ギャグマンガでやるようなめちゃくちゃをまともにきちんと描写しているようなもので、そういうのはSFの一部だとぼくは思います。イタリアやフランスの幻想文学でも、非現実的な設定であたりまえのように無茶な展開したりして、たしかに幻想小説、シュールレアリズム文学といった分類もあるのでしょうが、そういったものの多くにぼくはSF的なものを感じます。着想、設定、展開、描写、などそのいずれかにおいて、もちろん全部でもいいんですが「現実生活で語られる範囲を大きく逸脱」していれば、ぼくの感覚ではそれはSFです。つまり日常の平凡な生活を淡々と描写するだけでも、その表現方法がこれまでの小説にはなかったようなあっと驚く書き方であれば、それもSFであるとぼくはとらえています。
雀部 >  いわゆる(古くからのSFファンの中では有名)「何でもSFになる」というやつですね。
ケダ >  田中先生の作品をジャンル分けするのは、なんとなくナンセンスな感じがして、「田中哲弥(敬称略)の書いたおもろい本でええやん」としか思えませんけど、著者として、そして読者としての田中先生は、小説のジャンルというのを意識なさっていますか?
田中 >  読者としては「おもしろいかどうか」というのがぼくの価値判断の基準なので小説に限らずジャンルはどうでもいいです。これも筒井さんの影響ですが、ぼくは小説というのを「文字を用いた表現による、この世でもっともなんでもありのもの」と思っていて、小説としてのおもしろさに関係がないのであれば、科学考証に少々の問題があろうが、トリックに意外性がなかろうが気になりません。書き手の立場としては、発表する媒体によってある程度ジャンルというか読者の傾向を考慮して書く必要は意識しています。
ケダ >  えーと、読者の傾向を考慮して書く必要性を意識していらして、していらしたけど怒らせようってほうに意識しちゃって、そしたらほんとに怒らせちゃったのが電撃hpの「ミッションスクール」シリーズ……??? い、いや、ひとりごとです……
田中 >  ぼくの子供のときには「ライトノベル」というようなジャンルはなく、ヤングアダルトや児童文学ならまだわかるのですが「ライトノベル」を好む若い読者と感覚を共有することが非常に困難なのです。いわゆるライトノベルの本道と言われているような作品をざっと読んでも、どこが受けているのかよくわからず、ライトノベルの本質的な部分が理解できていないため、似たようなものを書こうとしてもどこかずれたものしか書けないわけです。中途半端に迎合してゆるいものを書くのもつまらないので『ミッションスクール』では、たまにはこういうのもどうですかと、極端に逆の方向でやってみたという部分もあります。多数は怒って顔しかめて引いても、ああこういう小説もたまにはいいよねと強く支持してくれる人がライトノベル読者の中にも少しいればそれでいいと思ったんです。ところがいなかったんです。
ケダ >  そういえば、田中先生は日野啓三さんもお好きだとどこかで読んだかうかがったかしたことがあるんですが、筒井康隆さんもそうですけど、ジャンルでくくりにくい作家さんですよね。作家名を出すしかどんな作風かをある程度まとまって示せないというか。
田中 >  日野啓三の小説は大好きです。手当たり次第に読書していた十九歳の夏、学生生協で買った『抱擁』を読んでノックアウトされました。ぼくは「自分がなにに感動しているのかよくわからないのにものすごく感動している」という状態が大好きなのですが『抱擁』はまさにそれでした。なので今でもどこがどうと論理的に言えないのですが、乾いているようでけっこうねとねとしたあの雰囲気はめちゃくちゃ好きです。たしかに日野啓三はどういうジャンルなのかと言われると難しいですが、考えようによってはジャンルにきっちり収まる作家の方が特殊なような気もします。
ケダ >  さきほど音楽の話で、「クラシック以外は音楽ではない」から「今ではいいなと思えばどんなジャンルのものでも好き」に変わられたとお話しになっておられますが、音楽も、今はジャンルというものから開放されていらっしゃるんでしょうか。それともジャンル意識はちゃんとあって、そのうえで「好きな曲」と「そうでもない曲」に分類なさってるんでしょうか?
田中 >  小説同様、好きなジャンル苦手なジャンルというのは傾向としてありますが、音楽でも特にジャンルを気にすることはありません。日本の歌謡曲でもたまに感動することはありますし、国際的に評価の高いクラシック音楽やジャズなんかでもしょーもなーと腹が立ったりします。
ケダ >  あはははは。
雀部 >  田中先生は、関西学院大学在学中に、星新一先生のショートショート・コンテスト優秀作に選ばれたそうですが、ショートショートはもう書かれてないのでしょうか?
田中 >  当時はショートショート全盛時代でしたし、ワープロもないときで、ぼくもまだ長いのを書く技量がなかったのでショートショートを何編か書きましたが、今書くのは難しいです。コンテストに応募したときもそんなにたくさん書いていたわけではなくて、たぶん子供のときに書いた馬鹿みたいなものも含めて今までに書いたショートショートの数は全部で二三十というところではないかと思います。受賞作もいわゆるショートショートの定型にあてはまるようなものではありませんでしたし。
 ショートショートはネタ勝負、アイデア勝負みたいなとこがあるので、まったくの素人でもひとつやふたつならひょこっといいのを書けてしまったりして書きやすいものみたいに思われがちですが、かなり特殊な形態ですし、ある程度の水準を保って書き続けるには相当のセンスが必要だと思います。元々得意ではありませんが今はショートショートを書く場もないので書くこともなくなってしまいました。
雀部 >  星先生は別格ですが、ショートショートということでは、高井先生のインタビューを参照して頂けると幸甚です。
ケダ >  先ほどもちょっと触れましたが、まだ一冊にまとまっていない短編もいろいろあって、ぜひ一冊にしていただきたいと思っているんですが、短編と長編でどちらが好き、とかお好みはあるんでしょうか?
田中 >  前衛的な幻想小説なんかだと短編の方が大胆なことがやれそうな気がしますが、ハリウッド映画みたいなわかりやすいエンタテインメントだとこれはもう長編でしか考えにくいですし、とはいえわざとそれをくつがえした作品というのも可能性としてはあるでしょうから、短編も長編もどちらが好きということはないです。ただこつこつ努力するのが苦手な怠け者体質としては、短編の方が一気呵成にやっつけられるという点でやりやすいかなあ。
 「猿駅」や「初恋」などを含めた短編集はさっきも出たJコレクションでの予定です。
ケダ >  やみなべやミッションスクールにはない味わいの作品もいろいろあるので、短編集、楽しみにしています。
雀部 >  大学院でのご専攻はどういった分野だったのでしょうか。差し支えなかったらお教え下さい。
田中 >  大学からの専攻は国語学で、関西学院大学ではこれを「日本語学」と称していました。大学の卒論のテーマは「言語遊技」で、大学院ではその発展というわけでもないのですが俗語を中心に研究してました。と、偉そうに言えるほど真面目に研究したわけではないのですが、たとえば現在醜女を指して「ブス」を初めとする様々な言い方があって、美人を指す語彙よりも醜女を指す語彙の方が圧倒的に多いのではないかというのを前提条件として、この世の中悪口雑言の方が常にバラエティ豊かに展開するものの、すぐに廃れたりよい意味へと変化しがちで残っていかない。特に昔の文献に俗語は書かれにくかったであろうから、我々が知らぬ間に消えていった「醜女を指す言葉」があまたあったはずなのである、みたいなことを言うてました。遊びとしてはおもしろいけど、人の役には立たない学問だと思いました。
雀部 >  何故、世の中悪口雑言の方が常にバラエティ豊かに展開するのだとお考えでしょうか?
田中 >  修士論文にはそのへんの理由としていろいろごちゃごちゃ書いたように思いますが、簡単に言ってしまえば元来人間は人を褒めるよりも貶すことの方に情熱を燃やすものだからだと思います。すぐれたもの美しいものに対する言葉は皮肉やひねくれた表現を除いて基本的に賛美であるため、日常生活においてはその詳細を表現する必要がないということもあります。美人、ということであれば、その美しさを表現する場合、その美しさによってどのような反応があったかどのような影響があったかということは語られても、どこがどうだから美しいのかということの描写は通常必要とされません。反対に劣るもの醜いものに対しては、どこがどのように劣るのか醜いのかという詳細をたいてい人は表現したくなるものです。「ものすごく仕事ができる人」というのはああそうなのかで終わりますが「まったく使えない人」となるといったいどういうことがあったの、となるようなものです。「ものすごい美人を見た」と聞かされても、なるほど美人がいたのだなと思うだけですが「とんでもなく不細工な女がいた」と聞いた人は「どんな風に不細工なの?」という興味を持つのが普通です。「幸福な家庭はどこもみな似通っているものだが、不幸な家庭はその不幸の相もさまざまである。」とロシアの文豪も書いています。
雀部 >  『アンナ・カレーニナ』でしたっけ、名言ですね。なるほどなぁ「他人の不幸は密の味」とかも言いますし、TVのワイドショーとか週刊誌ネタも、不幸ネタのほうが多い気がしますね。
 田中先生の著作では、なんのかんのが起こっても、ハッピーエンドのことが多いような印象をうけたのですが、ハッピーエンドとアンハッピーエンドだと、書く難しさが違うとかはありますでしょうか?
田中 >  難しさが違うということはありません。エンタテインメントの基本はハッピーエンドだろうと思いますが、読者の感情をいかに揺さぶるかというところが小説を書く最大の楽しみですので、どん底に突き落とすような話も書いてみたいですね。
ケダ >  あの、『ミッションスクール』の女の子たちがですね、その、なんというんですか、ああもみんな「振り回してなんぼ」(男の子たちが「振り回されてなんぼ」なのかもしれませんが……)なのは、ひょっとして「読者の感情を揺さぶる」戦略ゆえなのでしょうか。それとも田中先生のご趣味……?
 ライトノベルな人たちよりもSFな人たちに受け入れられやすい素地は、そのあたりにもあったりして……?(もごもご)
田中 >  趣味かと言われるとそうかもしれません。ヒロインの場合は特に、身近にいる人たちの中でぼくが好ましいと思う性格やおもしろいと感じた言動などを、少々極端にデフォルメして人物造形しているようなところがあります。『ミッションスクール』では「ステイショナリー・クエスト」のえっちゃんにはかなり似た人物が実在します。「フォクシーガール」の菜々美ちゃんにもはっきりしたモデルがいるのですが、設定を非現実的な美少女にしたことで性格は相当変化してしまいました。
雀部 >  モデルがいるとは想像しなかったなぁ(汗)
 振り回されてなんぼというのもあるし、たいした取り柄もない主人公が、何故か美少女にもてるというのは、『うる星やつら』あたりで確立されたのではないかと思っているのですが、『ミッションスクール』の最後に収録の「スクーリング・インフェルノ」は、そこらあたり(ライトノベルも含めて)に対するアンチテーゼと読めたのですが? 書き下ろしだし。
田中 >  ぼくもラムちゃんは大好きですが「スクーリング・インフェルノ」で目指したのは「『意味のない叙情』をギャグの中で表現する」ということで、それ以外はあんまり考えてませんでした。『ミッションスクール』所収の他の四作もその傾向にありますが「スクーリング・インフェルノ」は特に純粋に、「なにを語るか」ではなく読者の感情を刺激するために「どのように語るか」という技巧的な部分がメインの作品です。『タイタニック』のパロディを基本に、一見なんらかの意味があるかのように見えるものの実はまったく無意味なエピソードを展開し、不条理で幻想的なところへ読者を引きずり込みたいと思っていました。
 寓意や揶揄に見える部分はわざとそう見えるよう書いているだけで、そのへんに作者としての意図はほとんどありません。ははは。漫才やコントなどの演芸ではあたりまえですが物語性を極力排除した設定や展開でも 笑いを作るのは比較的やりやすいと思うのですが、そうした中でナンセンスギャグによる「意味のない悲しさ」みたいなものを作りたかったのです。わけのわからない無茶苦茶な夢を見て、起きたとき断片的にしか覚えていないのになぜか悲しい、というような。あれだけアホ全開な話を書いておきながらこういうことを真面目に言うというところも含めてギャグになっているというのはなかなかすごいことであるなあと誰も褒めてくれないでしょうから自分で言うておきます。
雀部 >  ぎゃふん。みごとに一本取られました(笑)
ケダ >  さて、ずいぶん長い間このインタビューにご一緒させていただき、大変楽しかったのですが、ひょっとしてもうそろそろ守秘義務のある国家プロジェクトについて、さわりだけでも聞かせていただけたりは……しない……でしょうか?
田中 >  現時点ではまだ無理です。実際のところ、たいしたことはやってないんですけどね。
雀部 >  今回は、お忙しい中インタビューに応じて頂きありがとうございました。
 最後に、現在執筆中の作品、近刊予定の作品がございましたらご紹介下さい。
田中 >  今は「ハナシをノベル!」という小説家と落語家のコラボレーション企画のために新作落語を書いています。長編書き下ろしでは荒唐無稽な時代小説と、地に足の着いたクライムコメディを書きかけているところです。近刊予定というほどはっきりしたものではありませんが『異形コレクション』などに書いた作品を集めた短編集がそのうち出ると思います。
 こちらこそありがとうございました。
ケダ >  新作落語が拝見できるイベントの詳細は以下ですね。

第3回 落語再生公開堂「ハナシをノベル!!」――落語家と小説家のコラボレーションライブ
 日時: 9月30日(土) 18時30分開場 19時開演
 場所: 大阪市中央公会堂  地下大会議室(地下鉄・京阪淀屋橋駅北へ徒歩5分)

 第3回の作品提供者: 田中 哲弥
 出演: 月亭 八天/田中 啓文(トーク進行)

 参加費: 当日 ¥2000
 問い合わせ: 英知 プロジェクト(06)6956-8810

 今回は、田中先生の小説愛をはじめ、いろいろお話がうかがえて本当に楽しく嬉しかったです。
 ご一緒させていただき、ありがとうございました。


[田中哲弥]
1963年兵庫県生まれ。関西学院大学卒。1984年、「朝ごはんが食べたい」で星新一ショートショートコンテスト優秀賞を受賞後、吉本興業の台本作家などを経て、1993年『大久保町の決闘』で長篇デビュー。『大久保町は燃えているか』『さらば愛しき大久保町』と続く3部作で人気を博す。1999年発表の本書『やみなべの陰謀』以降は、アンソロジー“異形コレクション”などへの短篇寄稿を中心に活躍している。訳書に、L・スプレイグ・ディ・キャンプ著『悪魔の国からこっちに丁稚』がある。
[雀部]
田中さんて、ジャンル小説を書いているようでいて、茶化してしまわずにはいられない業を背負っていらっしゃるのかも。ともかく絶笑、激笑な作品群に違いありません。
[ケダ]
田中哲弥さんのファン歴7年ぐらい。最初に出会った本とその次に出た最新刊が同じ本(加筆されていたりしますが)という貴重な体験をさせていただきました。

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