| TOP Short Novel Long Novel Review Interview Colummn Cartoon BBS Diary |

Author Interview

インタビュアー:[雀部]&[栄村]

『ソラリスの陽のもとに』
> スタニスワフ・レム著/飯田規和訳/金森達装幀
> ハヤカワ・SF・シリーズ3091
> 290円
> 1965.7.25発行
粗筋:
二重星を公転する惑星ソラリス、計算ではその軌道は不安定で、とっくに主星に“墜落”しているはずであった。そして研究の結果、軌道を安定させているのは、ソラリスの海らしいと判明した。そしてこの“海”の研究を始めてから100年たった現在でも、その本質は不明のままであった。

 「アメリカのSFでは、他の惑星の知性体との接触にはだいたい3つの紋切り型がある。それは『相共にか、われわれが彼らをか、彼らがわれわれをか』で、これでは余りに図式的すぎる。しかし、私は未知のものをそれ自体を示すことによって、予想や仮定や期待を完全に超えるものとして描きかったのである。」と、著者がしているこの本は、45年前に出版されたとは思えない新鮮さで今も健在です。(日本語訳は42年前。当時私は中学生で、初めて読んだ時は、さっぱりわからずつまらなかった思い出があります。当時、一番好きだったのは、クレメントの『重力の使命』。これは都合十数回読みました。しかしこれに出てくる宇宙人は、レムの描くそれとは対照的に極めて人間臭く、そこが分かりやすくて良かった(汗)
 人間に理解できない存在を、あるがままに書いたこの作品はその先駆性でこれからも読みつづけていかれる傑作だと思います。

『ソラリスの陽のもとに』
>スタニスワフ・レム著/飯田規和訳
>ハヤカワ文庫 SF 237
>1977.4発行
『世界SF全集 23 レム』
>『砂漠の惑星』『ソラリスの陽のもとに』収録
>1968.11発行
 

『ソラリス』
>スタニスワフ・レム著/沼野充義訳/L'ARCHIVISTE.SCHUITEN&PEETERS装幀
>ISBN 4-336-04501-1
>国書刊行会
>2400円
>2004.9.30発行
スタニスワフ・レム・コレクション第一回配本

 翻訳者の沼野氏は、高校生の頃この作品に出会い、ポーランド語の勉強を始め、ついにはこの『ソラリス』の新訳を手がけるようになったというSFファン。早川版で欠落している個所(約原稿用紙40枚分)を新たに訳出した完訳版です。


『惑星ソラリス』
>アンドレイ・タルコフスキー監督・脚本
 1977年6月18日発行のリバイバル版の映画パンフレット。
 ライナーノート執筆陣は、黒澤明、佐藤忠男、白井佳夫、小野耕世、山田和夫、深見弾で、映画のシナリオが全文掲載されています。
『惑星ソラリス Blu-ray』
>日本版DVD発売日: 2013/04/26

『白鯨』
> ハーマン・メルヴィル著/八木敏雄訳
> ISBN-13: 978-4003230817
> 岩波書店
> 987円
> 2004.8.19発行
 「モービィ・ディック」と呼ばれる巨大な白い鯨をめぐって繰り広げられる、メルヴィル(1819‐1891)の最高傑作。海洋冒険小説の枠組みに納まりきらない法外なスケールと独自のスタイルを誇る、象徴性に満ちた「知的ごった煮」。新訳。

『SFマガジン』2012/06月号
2012/07月号
2012/08月号
第7回日本SF評論賞決定
選考委員特別賞受賞作掲載
「『惑星ソラリス』理解のために[一]――レムの失われた神学」(6月号)
「『惑星ソラリス』理解のために[二]――タルコフスキーの聖家族〈前編〉」(7月号)
「『惑星ソラリス』理解のために[二]――タルコフスキーの聖家族〈後編〉」(8月号)
忍澤 勉

『原色の想像力2』
>大森望・日下三蔵・堀晃/岩郷重力+WONDER WORKZ装幀
>ISBN-13: 978-4488739027
>東京創元社
>980円
>2012.3.22発行
収録作:

○空木春宵「繭の見る夢」(第2回創元SF短編賞 佳作)
堤中納言物語の「虫愛づる姫君」へのオマージュと思いきや、意外な展開に――まあ創元SF短編賞応募作ですから(笑) カミさんが国文科卒なので、ちょっと読ませてみたら、雰囲気は非常に出ているそうな。SFは読まない人なので、どういう展開なのかはさっぱりわからなかったようですが。SF界隈でも、笑犬楼さまをはじめとし、いとうせいこう氏や笙野頼子女史、飛浩隆氏など「ことば」そのものが題材の作品が生み出されているし、この展開はありかなと。雅なことばで紡ぎだされるイメージは華麗で、小説世界を堪能できました。なおBLなところもあり、思わぬ事にちょっとドキッとするところも(汗;)
ラストの進行そのものは、時代絵巻というよりなんか電脳世界を思わせますね。平安時代の電脳世界、東野司さんが国文科卒だったら……(笑)

○わかつきひかる「ニートな彼とキュートな彼女」
ホームネットワークサーバー機能がついた独身者専用公団アパート。巷では、そこにはいると引きこもりになってしまうと敬遠されていた……
ちょっと洒落たレトロな味の短編。筒井先生の展開は違うけど「お紺昇天」のアパート版といったところかな。こんな気の利いた機能のついたアパート、みんな入りたいと思うけど、更にニート化は進むよ(笑)

○オキシタケヒコ「What We Want」
SFファンには一押し作品。たった一人生き残った大阪弁をしゃべるアメリカ人の女性船長と雇われた異星人の珍道中。この船長はんのキャラが強烈で、可哀想な異星人ちゃんは度重なるストレスで……。ラリイ・ニーヴンの《ノウン・スペース》に出てくる宇宙人も、いい加減地球人にカモられている気がしますが、さらに悲惨かも(笑)
ジョン・ヴァーリイ描くところの宇宙人に支配された《八世界》を舞台に、野田昌宏大元帥の描くところの銀河乞食軍団的な柄の悪さ(まあ、こちらは”べらんめえ”口調ですけど)をつけ加えた感じと言えば、あながち間違いではないような(笑)
それにしてもオキシさん、「地底種族ゾッドゥリードが通商網に加入した経緯」物語、ぜひ読ませて下さいよ!!

○亘星恵風「プラナリアン」
『原色の想像力 1』に掲載された「ママはユビキタス」の作者、亘星恵風さんの第二弾。ちょっと芸風が違う(?)かな。前作は精神的な愛で、今回は肉体的な愛がテーマと考えるのはちと穿ちすぎか(笑)
設定部分で、傷の治りの早い人間同士を交配して、究極の兵士を創り出す実験というのが出てきますが、これがなかなか考えられて面白い。《リングワールド》シリーズの、幸運の遺伝子を持つ者同士の交配実験に比べれば、まだしも納得できる。ま、ネタとしての面白さでは負けますけど、SFの範疇でしょう(笑) で、傷の治りは段々早くなるのだけど、癌に罹りやすくなり子供が出来る年齢まで生きられなくなってくるという着想がいいですねえ。たぶん、癌細胞の旺盛な再生力(生命力)からの連想なのでしょうが、説得力がありますよね。

○片瀬二郎「花と少年」(第2回創元SF短編賞 大森望賞)
今回一番の異色作。突然頭のてっぺんに花が生えてきた少年と、何もない空中から迫り来る怪獣の話なんですが、この二つが結びつきそうで結びつかないという。
大森望さんが選評で、「選ばれし者、特殊な能力を持って生まれてきた人間が未知の敵と戦う」という図式へのアンチテーゼであると言われてますが、まさにその通りですね。ま、SFとして読むと、真面目なSFファンは怒るかも(笑)
作者も、一般的な超能力じゃなくて、“頭のてっぺんに生えた花”を持ってくることで、“違うのよ”と言ってるような気がします。それともこれは、NHKアニメの「はなかっぱ」からの連想?。ま、どちらにしても脱力系か(爆)

○志保龍彦「Kudanの瞳」(第2回創元SF短編賞 日下三蔵賞)
おどろおどろしい超能力(予知)もの。作者の名前は、澁澤龍彦先生へのオマージュなのかなあ。渋澤先生が書いたSFと言われても納得しそう。主人公のKudan(未来予知のために人工的に創り出された人間もどき)へのほのかな慕情がけっこう好みでした。

○忍澤 勉「ものみな憩える」(第2回創元SF短編賞 堀晃賞)
前半の導入部の自然さというか巧さは特筆モノ。現実からいつのまにか自分の覚えている過去にもぐり込んでいくという趣向では、重松さんとか平谷さんの作品を思い出しますが、忍澤さんも上手いなあ。で、そのままと思いきやパッと視界が開けるようなラストも良くできてます。小松左京先生が「こういう宇宙」で書かれた鮮やかな場面転換を見るようでした。

○酉島伝法「洞(うつお)の街」(第2回創元SF短編賞 受賞後第1作)
つまるところ異様な世界でうごめく異様な生命体の話。椎名誠さんのSF三部作でやったグロテスクな異世界の更に上を行く異様さが読みどころ。梗概には、恒星船が舞台だと書かれているそうなので、それをふまえて読むとさらに面白く読めます。
短編賞受賞作の「皆勤の徒」の選評で、分かりにくいとか、読者がどこへ連れて行かれるか不安であるという意見が出ていたのが理由かどうかはわかりませんが、「洞(うつお)の街」は、ちょっと人間に近づいてきた感じもありますね(笑)
酉島さんには、一冊にまとまったらぜひインタビューさせて下さいとお願い済みなので、こんなへんてこな話を紡ぎ出す頭の中になにが詰まっているか興味のある方は今しばらくお待ち下さいませ。


前回の続き)
忍澤> オカルティストだったかどうかはわかりませんが、 降霊会に参加するほどですから、神秘的なものに関心を寄せていたことは確かですね。西周成さんの『タルコフスキーとその時代』によると、若い頃の彼は母親の勧めもあって、自然調査隊の一員としてシベリアに出掛けていますが、ある小屋で眠っていると、「ここから出ていけ」という声が聞こえて、その三度目の声でそこを飛び出すと、突然大木が倒れ掛かかってきて、彼のいた場所を直撃したというんです。その話を、タルコフスキーはそれから三年間に渡り友人たちに語ったそうなんですが、実はこれには後日談があって、妹マリーナが彼の死後、調査隊の一員に確認すると、フィクションだったそうです。なんとも不思議な話ですが、タルコフスキーらしい話でもあります。ただその当時は精神的な迷いがかなりあったようですね。
 また神秘主義とは違いますが、日記の一九七九年の三月十四日には、彼のまわりの人たちのバイオ曲線が記されています。その中にはなんと愛犬のダックスの名前まであります。
 まあ、神秘的な事柄に関心があることは、彼の作品を観れば一目瞭然ではあるのですが。
 ところで、パステルナークの霊の予言について記された日記ですが、最初が一九七三年の二月十六日、次が一九八五年の十二月二一日に書かれています。まさにその間、彼は自分に残された作品の数を指折り数えていたようですね。パステルナークは彼の父アルセーニーが尊敬していた作家で、タルコフスキーもまた父を限りなく尊敬していましたから、関心を寄せるのは当然の帰結といっていいでしょう。
 馬場朝子さんの『タルコフスキー 若き日、亡命、そして死』では、アルセーニーはモスクワ近郊のベレジェルキノという芸術家たちの村に住んでいて、墓もその近くにあり、パステルナークの墓と「二十四歩」の距離だとあります。アンドレイ・タルコフスキーはパリに葬られましたが、ロシアの地に埋葬されたかった彼の願いの一部を叶えるために、妹のマリーナさんがのちにアルセーニーの墓の隣りにアンドレイの十字架を建ててあげたといいます。
 余談になりますが、私はロシア革命の内戦期に興味があったので、パステルナークは『ドクトル・ジバゴ』だけ読みました。かなり濃密な内容で、映画化された作品はその抽出物に過ぎません。まあ極めて優れた抽出物ではあるのですが、その点は『白鯨』の原作と映画に似ていると思います。数年前にはロシアで長尺のテレビドラマ化されて、DVDも買ってはいますが、未だに観ていません。
栄村> ブリューゲルの絵ですが、「雪中の狩人」、「暗い日」、「穀物の収穫」の三つは月暦画という12ヵ月にわたる自然のうつりかわりを描いた絵から持ってきたもので、中世、神が支配する宇宙の姿としての意味もこめて教会の暦などに描かれたものですね。ここには、季節の中で変化してゆく自然の雄大な姿と、その流れの中で人間の生活も変化してゆく姿が描かれています。「時」の支配者としての貌(かお)をもつ「神」が、月暦画で描かれる四季の背後に、人の想像をこえる圧倒的な「力」と「スケール」をもって存在する――そこでは、人間や動物は自然=宇宙の一部であり、自然と歩みを合わせ、そのリズムとともに生きている。詩情あるブリューゲルの月暦画を見て感じるのは、自然と深い関わりを持ち、そこで生き死んでゆく人間です。映画でこの絵を見ていると、たとえ人が宇宙の彼方に本格的に出ていく時代が来ても、人間の本質はそう変わらないのではないか、という気持ちになってきます。
 そして、忍澤さんが「人類への警告的な絵画」といわれた「バベルの塔」と「イカルスの墜落のある風景」。これは星々の世界に出ていった人間の運命――夢と希望をいだいて宇宙に旅立ったものの、そこには人類の居場所などなく、あるのは人間の夢や恐怖など決して顧みない畏怖するべき宇宙の姿――無限大の空間と途方もない時の流れ――その圧倒的な存在の前にイカルスのように墜落してゆく人間――を暗示しているようにも思えてきます……。ブリューゲルの絵に「ドン・キホーテ」の「人間は死すべきものである」という暗示を込めた一節。この図書室のシーンは、レムの「宇宙における人間の位置についての問いかけ」に対するタルコフスキーなりの解答なのでしょうか……。

――レムはあるインタビューの中で、
「タルコフスキーの「惑星ソラリス」について、私は物語のエンディングでクリスが宇宙で驚くべき何かを見いだすことを期待したことを示唆したと思ったのに対し、人間は、すぐに母なる地球に戻るべきであるという結論によって後に続けられた不快な世界のビジョンをタルコフスキーは作ろうとしていた」
 と語っていましたけど、たがいに相容れなかった原因は、ふたりの抱いた「宇宙観」の違いもあったのではないかと思います。レムが心に抱いていた宇宙のイメージ、そして、そしてタルコフスキーがおそろしい、不快な世界とうけとった宇宙とはどんなものなのか――浮かぶのはレムの最後の長編「フィアスコ」からうける宇宙のイメージです。
 そこでは人間の想像や力がおよばない深淵が拡がり、地球上の、普段のわれわれの生活の中では、ほとんど意識しない物理的な力も、場所によっては何十億倍もの強力な力となり、あまつさえ時間にさえ影響を及ぼしてしまう。まさに人知のおよばない世界の領域です。
 その中で、人間が、別の星に存在する〈他者〉と出会うには、光速を突破する手段がない以上、恒星系間に横たわる絶望的ともいえる規模の深淵を、秒速30万キロという途方もない光の速度近くまで加速して渡っていかなければならない。急激な加速による重力は、空気の入った肺や胸郭を押しつぶし、心臓は液体鉛よりも重くなった血液を押し出そうとして破裂するため、人間の体の構造を変えることによって、その旅に備えなければならない――脳を破壊する宇宙放射能や、加速からくる重力から身を守るため、人間は宇宙船の中の厚い装甲に囲まれた一画で冷たい液体の中に沈められ、人工管から送りこまれる栄養物質と酸素をたよりに仮死状態のまま、それこそ、ドン・キホーテの一節のように「死ととてもよく似ている深い眠り」の中で、恒星間の横たわる深淵の中を渡ってゆくことになる……。
 さらに、光に近い速度で航行する船には相対時差が発生するため、船内で数年がたつ間に、数世紀もの時間がたってしまう。したがって、目的の星にいる知性体に遭遇することはおろか、地球に残った者たちに再会することさえできない。

 宇宙の姿とは、死すべき人間たちの目から見れば、それこそ自分たちが生活し認識する世界とはまったくことなる想像の及ばない場所なのでしょう。

(註)映画に出てきたピーター・ブリューゲルの絵は、英語版のウィキで見ることができます。
「イカルスの墜落のある風景」(Landscape with the Fall of Icarus)
「雪中の狩人」(The Hunters in the Snow)
「バベルの塔」(The Tower of Babel)
「穀物の収穫」(The Harvesters)
「暗い日」(The Gloomy Day)
忍澤>  これらのブリューゲルの絵は「雪中の狩人」以外を除いて、映画を普通に鑑賞していてはほとんど何の絵だか気づくことは少ないでしょうね。ただタルコフスキーは自分の日記に「隠されたものこそ大切だ」という意味のことを書いているように、ほとんど映像として表現できていなくても、そこに何らかの意図を置いたことは確かだと思います。
 もしかするとラッシュフィルムには、「雪中の狩人」以外にもクローズアップした絵画があったのかもしれません。ただ何せ隠すことが好きな彼のことですから、「こりゃあまりに語りすぎだなぁ」と思ってカットしてしまったとも想像できます。
 そんなことの証拠になるかどうかはわかりませんが、英語版のトレーラーでは、針に糸を通しているような下着姿のハリー、黒こげのロケットから出てくるクリス、アングルがまったく違う地上シーンの男の子と女の子など、実際の作品に出てこない場面がたくさん使われていますよ。
 そして執拗なまでに出てくるのが、今いった「雪中の狩人」ですが、これは隠されたもののテンコ盛り状態ですね。まずは構図が遠景を丘から見下ろしているという点で、地上シーンでクリスとの別れに涙ぐむ伯母アンナが眺めるシーンですが、彼女の横には絵画と同様に犬が仕えています。またこことおぼしき場所がクリスとハリーの観るビデオに何度も出てきます。さらに絵画がクローズアップされる中に出てくるのが、暖炉が火事になっていて村人が消火活動をしている家屋ですが、これはそのままラストシーンの家と符合します。さらに絵画の狩人は角笛らしきものを腰から下げていますが、同様のものが地上の家にもあってそれを夢の中の母親が触っている、などといった具合です。
 くわしくは拙文にも書きましたが、この絵を見詰めるハリーの眼差しは、ハリーによるクリス解釈であると同時に、ソラリスの海による人間分析でもあったと思います。
栄村> そのあたりは「ソラリスの海」の秘めたる接触ですね。ハリーはクリスの秘められた記憶であり、同時に「海」が送りこんできた人間探査のためのロボットでもあった。しかし、人間の中で暮らすうちに人間としての自覚をもちはじめ、最後にはニュートリノ崩壊装置で、自らの存在を消し去ってゆく。人間は「ソラリスの海」を理解できなかったけれど、「海」自身もまた自ら生みだした探査体が送ってくる情報はもとより、探査体であるハリーの行動も理解できない……。
忍澤> 難しいのはハリーの行動のどこまでがクリスの望みであったのか、ということでしょうね。それがわからないがゆえにクリスは永遠に思い悩むことにもなる。「ソラリスの海」の意図についても結局は何もわからない。このわからないという部分がこの作品の魅力の一つでしょうね。「惑星ソラリス」のトレーラーにはソラリスの全体像を映した場面も含まれていましたが、本編ではカットされています。これもタルコフスキーが人間の思索にシフトして描きたかったということの現われかもしれません。まさにこの点でレムとは正反対ともいえるでしょう。
栄村> クリスの記憶、意識しなかった願望が、ハリーとして実体化され肉体を持った瞬間から、おのれの意思を持ちはじめ、想像もつかなかった行動をとりはじめる。そもそもクリス自身、心の奥底の領域に潜む自身の願望を理解していなかった――そのことは「ソラリスの海」が彼の潜在意識を読みとって生みだしたハリーの行動、いや、彼女という存在そのものにも影響をあたえているのかもしれない。
――物語では、ハリーはニュートリノの消滅装置でみずからを消し去るという方法でクリスの思い出の中に帰ってゆく道を選びますが、もしかりにクリスが望むようにそのままステーションに存在しつづける道を選んだとしたら……。その場合でも、「海」が人間に対する興味を失ったとき、クリスやハリー自身の意思とはかかわりなく、突然、人々の目の前から消えていくことでしょう。
――原作には、「一定の目的に奉仕する装置や機械を作ったが、それらのものはその目的を超える能力を獲得して、その目的自体を裏切ってしまう。」(ハヤカワSF文庫版302P)
 という一節があります。これはクリスにしろ、ハリーを生みだした「ソラリスの海」にしろ、どちらにもいえる。われわれの宇宙においての〝創造主と被創造物の不可解な関係〟――その呪縛から誰も逃れることはできない。このあたり、「レムの『神学』と秘めたる『接触』」とも関係する話なので、あとでうかがおうと思っているのですが……。

――レムはこの宇宙を広大な「迷路から構築された迷路」と考え、外へむかって人類の運命やこの宇宙の運命の真実を知ろうとするのに対し、タルコフスキーの興味は内側へ、人間の思索、心の内面へと沈み込んでゆく。忍澤さんも評論の中でタルコフスキーについて「……そして彼は大宇宙の意識の拡散ではなく、自らの身体に連なる内宇宙をさらに微細に描くことに専心していく」と書いておられましたが、ふたりの方向性の大きな違いは、ここにあるのでしょうねえ……。
忍澤> まさにその通りで、SF評論賞の選考委員のお一人からも、レムが宇宙の外へ外へと放射状に拡散していくのに対して、タルコフスキーはそのちょうど逆の形で、心の中へと内に内にと収縮している、そういったあたりも書き込むといいかもしれない、といった意味のことをアドバイスしていただきました。それが実現したかははなはだ心許ないのですが。
 でもそれとは別の展開もあるんです。ただあいまいな仮説の提示に過ぎませんが、その「外、内」論とはまったく逆に、それはもしかするとレムとタルコフスキーは同じように方向に進んでいたのではないか、ということなんです。定説を度外視したまさに「神をも恐れぬ」暴論に近いかもしれませんね。
 また前回の候補作ともども大幅に改稿して、SFマガジンに掲載されたあとにお会いした別の選考委員の方からは、だいぶ良くなっている。でもレムとタルコフスキーとの関係よりも、それぞれまったく別の作品として捉えた方がいいかもしれない、という意味のご意見をいただきました。
 実際問題として、タルコフスキーが得た『ソラリス』は、レムの書いた『ソラリス』ではなかったわけで、別のところでもしゃべりましたが、この「一定の目的……」といったあたりが含まれるクリスの「欠陥を持った神」の論議も、タルコフスキーは知らなかったわけです。だからどうしても、このへんが原作と映画の対比する際の障害になってしまいますね。
 また二人とも作品そのものに自主規制することはないにしても、生き残る術としてそれについての解説やインタビューなどに、なんらかのニュアンス、いわば体制におもねるための要素を附加させることがあるかもしれません。具体的にいうと、先ほどの暴論につながりますが、私はレムの『ソラリス』についての解説が彼の本心であると信じていないのです。
栄村> 「もしかするとレムとタルコフスキーは同じように方向に進んでいたのではないか」というお話ですが、それは原作の「……私のなかに、私自身の知らない恐ろしい犯罪的な考えや意図や希望があるかも知れないからだ。人間は、自分の内部の、暗い扉にとざされている秘密の場所の通路や井戸をとことんまで知りつくしてもいないのに、他の世界、他の文明を知ろうとして遠い惑星へ出かけていく。」(ハヤカワ文庫SF 253頁)という部分が土台になっているわけですか。たしかに両者とも人間の魂の奥底に踏み込もうとする姿勢では一致していたのかも知れません。
 『ソラリス』についての解説は、60年代初期のソビエト版にレムが寄せた序文のことですね。〝アメリカのファースト・コンタクト・テーマのSFには、三つの定型がある。異星人と平和的協力関係を打ち立てるか、さもなければ摩擦がおこり、地球人が異星人が勝利するか、あるいは、彼らが地球を征服するかであるが、それはわれわれがよく知っている地球的な条件を単に広大な領域に機械的にうつしかえたにすぎない。もし相手が完全にわれわれの文明とはちがった道を進み、相互理解の前提である人間との類似がまったくなかったとしたらどうなるか。宇宙は地球上の現象とは似ても似つかない無数の現象に満ちている。すべてを予見したり計算に入れておくことは不可能であり、実際に体験する以外それを知る方法はない〟といった内容でしたね。
忍澤> その原作にある「……私のなかにある」といったクリスの思いは、自分の脳波がX線に変換されてソラリスの海に放射されることへ恐怖であるわけですが、この後半は、映画では図書館のシーンでの三人の論議に繋がっていますね。そして前半はまさに「ストーカー」のテーマでもあります。
  原作では人間たちがクリスの思考をソラリスの海に伝えるわけですが、実際は「夢」で描かれたように、ソラリスからのクリスへの「コンタクト」も「同時並行的」に行なわれるわけです。たぶんその感覚下で、クリスは前の章の「思想家たち」にあった神学的ソラリス理解に立ち返り、スナウトに「欠陥を持った神としてのソラリス」像を提起するわけです。クリスは今までのソラリス研究は「大量のインクが消費された」(287p)だけだ、と結論付けます。これはもちろんあのルターのインク瓶に対応するものです。こういったソラリスとの「コンタクト」と、研究に対する認識の転換、そしてソラリス神学の発想という流れを掴むと、どうもレムとタルコフスキーはまったく別の方向を見ていたわけではないのではないか、となるわけです。ただし、なんとも面白いのは、今書いてきた記述のルター以外は、ほぼロシア語初版では削除されていたということです。
 そう考えてみると、疑り深い私は、どうもあの「序文」は、ソビエトに対する「弁明」の意味もあったのではないかと思ってしまうのです。本人も冒頭で「作家は自分の作品に対して原則として『まえがき』のようなものを書くべきではないと私は思っている。しかし、ここではあえて二、三の弁解じみた話をすることを許していただきたい」といっています。
 この文章はハヤカワ文庫SFのp313の「訳者あとがき」にありますが、当初の訳文を掲載した『世界SF全集』の「解説」にある「序文」では、この冒頭を含めて、「この作品のなかで私にとって何が一番重要であったかということなら私は知っている」で終わる最初から10行分と、最後の12行ほどが訳出されていないのです。もちろんこれは訳者の意向ということも考えられますが、その解説には、それが抄訳であるといった但し書きがありません。
 だからいつものように妄想してしまうと、この序文も当初は削除されていた部分があったのでないか、ということになります。確かに最初の10行は、まさにその序文を書くことに対する弁解で、裏から読むと、このようなことを書かなくてはならない理由を推測して欲しい、といっているような気さえしてくるのです。そしてそうであるがために削除されたのではないかと。その中にはこういった言葉もあります。「作者の意図とは違った形で成功するということはよくあることである。」
雀部> 忍澤さんが、SF評論を書かれるにあたって、心がけられていることは何でしょうか。
忍澤> その前に、受賞作のタイトルである「『惑星ソラリス』理解のために――『ソラリス』はどう伝わったのか 」ではなく、まずSFマガジン6月号に「『惑星ソラリス』理解のために[一]――失われたレムの神学」が、続いて7、8月号に「『惑星ソラリス』理解のために[二]――タルコフスキーの聖家族」が掲載されたいきさつを、説明しておかなくてはいけないでしょう。
 そのタイトルからもわかるように、「理解のために[一]」は、第7回SF評論賞で選考委員特別賞をいただいた原稿を基にしています。また「理解のために[二]」は、やはり第6回SF評論賞で最終候補に選んでいただいた「『ソラリス』、その謎を細部から解釈する」が基になっています。これらはともに改稿されて、さらに50枚程度が加筆されています。
 このような形になったのは、編集の方から、前回の応募作も今作とつながりのある内容なので、ともに改稿の上、掲載してはとご提案いただいたからです。
 以上のことからわかるかもしれませんが、私の頭の中では、まず[二]の「惑星ソラリス」の解釈が先にあり、その方法としての[一]の「ソラリス」、特にタルコフスキーが読んだはずのその小説の分析に至ったというわけなのです。
 つまり別のところでもお話ししたように、私にとってはまず何よりも「惑星ソラリス」ありき、でした。つまり[二]で展開していった、かなり深読み気味の解釈が先行していたということです。
 ここでやっとご質問の「心がけ」に到達するのですが、実際に反映できたかは別にして、私はいくつかのタルコフスキー論を読んできて、その考察の深さに魅せられつつも、その論拠のありように若干の不満がないわけではなかったのです。
 なので、私は[二]において、極めて的外れ的、あるいは妄想のような解釈であったとしても、ある程度はその根拠を示すことを心がけて書いてきたつもりです。ただこれらを一人のタルコフスキー・ファンの思いついた仮説の羅列に過ぎないといわれれば、その言葉を甘んじて受けなければならないでしょうね。
 また[一]での、日本語訳からロシア語初版の削除箇所を推察するという方法も、暴挙といえるのかもしれません。本来はポーランド語とロシア語にご堪能な方のお仕事であり、私は翻訳でこと足れり、とは考えていません。
 ただタルコフスキーの読んだ『ソラリス』が、いったいどのようなものであったのかを知りたいがために、まさに「思いあまって」進めていった作業が、ことのほか膨大となり、原作の『ソラリス』と原本の『ソラリス』の比較に、多くの枚数を割く結果となってしまいました。しかも細かい削除部分には、いろいろと言及できたのですが、その削除の核ともいえる、いわゆる「ソラリス学」や「ソラリス神学」に深く触れることができなかったのは、今後の課題といえるでしょうか。
栄村> 「日本語訳からロシア語初版の削除箇所を推察」の部分は、興味深かったですよ。削除箇所を示すことでソビエト当時の検閲がどのようなものであったか、また、タルコフスキーがこの後で映画化した「ストーカー」の原作者ストルガツキー兄弟をふくめ、旧ソビエトの作家たちが、どのようなもとで仕事をしていたかが、具体的にわかりそうでしたし……。
忍澤> この『ソラリス』のロシア語版に、レムはわざわざ序文をつけるなど、彼らしくないことをしていますね。そのあたりもポーランドの政治状況や、スターリン批判後のソビエト文化政策など、いろいろと興味深いところがあります。『ソラリス』の場合は、ロシア語の検閲版が出た1961年の11年後の76年に完訳版が発行されていますから、ロシアの読者はそれを比較検討すれば、私のように「寝技」を使わなくても、簡単にその削除状況がわかることになります。もちろん表向きは編集上の都合とか、という理由がついているでしょうけれども。
 ええっと、旧ロシアの作家たちについてですが、そのあたりは、あれ、どこにいったかなぁ、そうこれこれ、小さなブークレットなんですが、『ロシア・ファンタスチカ(SF)の旅」(宮風耕治・東方書店)を読んでみると、ちょっと悲しくなってしまうぐらいの状況でしたね。でも恥ずかしながら最近になってやっと、ストルガツキー兄弟の『願望機』の中の二作を読んだんですけど、これほどまでに社会批判、さらにいえば体制批判がよくできるなぁ、と思いました。
栄村> 『願望機』のゾーン自体、旧ソビエトが極秘にしていた兵器用プルトニウムを生産する秘密都市チェリヤビンスク65で起こった大事故――「ウラルの核惨事」をそれとなく暗示していましたからね。1957年に起こった国際原子力事象評価尺度でレベル6の大事故で、92年にロシア政府が地域住民に放射能汚染について知らせるまで極秘扱いでした。
『願望機』のことは、「惑星ソラリス」の映画パンフレットのタルコフスキーの作品総目録から知ったのですが、プロットが強烈に印象にのこりました。

「……3人の男は生命の危険を冒し、恐ろしい障害と耐え難い恐怖を克服し、秘密のゾーンの不吉な道を脱けて、ゆっくりとめざしつづけてきた目標に達しつつある。秘密のゾーンとは宇宙の訪問者によって起こされた異変の結果であり、“わが母なる地上にのこされた創痕”であり、“はてしなき未来が現代に伸ばした強力な魔手”であった。ゾーンのどこか奥深い、暗い谷間には、くもの巣に被われた巨大な金の円板がある。そして死の危険をいくつも乗り越え、この円板を踏むことに成功した勇気ある幸運児にだけあらゆる望みをかなえられるチャンスが与えられる……」
(「惑星ソラリス」パンフレット 日本海映画株式会社発行より)

 原作はたしか72年に雑誌に発表されたものの、当局の検閲に引っかかり、その後8年間、本のかたちでの出版は拒否されましたか。タルコフスキーが撮影しているときも、いろいろトラブルがあったそうで、映画が完成しソビエトで公開されたのが79年、日本で「ストーカー」という題名で公開されたのは81年。結局、映画を知って見るまで4年も待たされましたけど……。
忍澤> 文庫版の『ストーカー』の訳者あとがきによると、雑誌に掲載されたあとは、翌年の73年に要約された序章と第一章が『現代SF全集』に納められただけです。でも結局タルコフスキーの「ストーカー」の完成後、1980年に本として発行されたといいますから、映画の力は大きいのですね。なにやら改訂版の『ソラリスの陽のもとに』の文庫化も思い出してしまいます。
 タルコフスキーは「惑星ソラリス」を撮影中も、いろいろとストレスを抱えていて、一日も早く「鏡」を撮りたかったようですが、それが一段落すると、気持ちは「ストーカー」に傾いていったようで、『タルコフスキー日記』の1974年12月25日には、「私にとってもっとも調和のとれた形式を取りうるのは、いまのところストルガツキー[の路傍のピクニック]を基にした映画だ」とあります。さらに翌年の1月4日には、「主役を、男優ではなく女優に演じさせたら、どんなものになるだろうか」と記しています。タルコフスキーはきっと雑誌掲載時点ですでに読んでいるのでしょうね。皆さんがよく指摘するように「ストーカー」と「惑星ソラリス」とはかなり重なり合う部分があります。そのあたりの解釈も含めて、その他の作品に若干触れつつ、「『惑星ソラリス』理解のために[三]――写像としての『ストーカー』」なるものを近々書いてみたいと思っています。
 ところで栄村さんに教えていただいた「ストーカー」の説明文ですが、なんと1980年の「鏡」のプログラムにも同じものが使われていましたよ。
栄村> ええ。そうですね。「鏡」を観にいったときに買ったパンフレットにも、おなじ説明文がのっていましたから(笑)。当時、インターネットは存在しませんでしたし、冷戦下、むこうから入ってくる情報も少なかった。「ストーカー」自身、当局からいろいろ問題のある作品と見なされているため、日本の映画会社に入ってくる情報も少なかったかもしれませんね。
 しかし、いまは家のパソコンのモニターに、モスクワの映画劇場の上映スケジュールが出てくるわ、ロシア語に堪能な人はスカイプを使って向こうのSFファンに直接電話するわ、凄いことになっていますけど(笑)

 ところで、文学官僚による「ソラリス」のテキストの削除箇所の話を読んでいて、ちょっと不安になったのは、「砂漠の惑星」をはじめとする、いままで日本で発行されてきたレムの小説に、どのくらい省かれた部分があるのか。「ソラリス」を最初に読んだのは「世界SF全集」の版でしたが、10年近くたって完訳決定版といううたい文句で出された「ハヤカワ文庫SF」版で、はじめて割愛された部分があったことを知りおどろきました。そして、またそこから25年以上たって出た国書刊行会版で、まだ翻訳の脱落箇所があったことを知り、あきれているのですが(笑)。今まで自分の読んできた小説は、どのくらいポーランドで発行されたオリジナルに近いのか、という思いが生じてきまして……。
忍澤> 確かにその通りですね。前にも述べたように、私はあまり熱心なレム読者ではなかったのですが、それでも今回、SF全集版と国書刊行会版を比較してみて、レムの重要な意図の部分と思われる箇所が、ごっそりと削除されていたことを確認してみると、完訳に接することのできなかった読者の潜在的な不幸というものを考えざるを得ませんでした。他にも同様の運命を辿った作品があるかどうかは、外国語にまったく疎い私にはわかりませんが、『ソラリス』の踏み込んだ領域は、また特別であったような気がします。その特別をもってして、この事態となったのではないでしょうか。
 実は今回の拙文を書く一つの要因となったのは、西周成さんの『タルコフスキーとその時代』で、タルコフスキーは完訳本を読んではいないのではないか、という意味の文章を読んだからなんです。それまでは彼ほどの人なら、どこかで完訳を入手していたはずだと勝手に考えていたわけですが、ロシア語版を読んでいたとすると、「なるほど!」という部分が出てきたんですね。
 しかし今回、こういった事情のもとに、ロシア語版で削除されている箇所だけを読んでみると、つまり削除する側の思惑から、逆の意味でレムの核のようなものが少し見えてきたように思います。
 旧訳で削除されていた細かい部分、薄汚い箇所やセクシャルな描写も新たに知るとそれはそれでいろいろとおもしろいのですが、作品として大きく異なってしまったのは、やはり後半で大幅に削られた部分があるからだと思います。特に「怪物たち」や「思想家たち」、そして「夢」と「古いミモイド」で削除されたところは、ソラリスの研究がやがて神学的な様相を呈して、それが否定されつつも、クリスは自分のハリーとの関係や夢の記憶から、やがて特種な神学をスナウトに披露し、別れを惜しむようにソラリスの実際を眺め、そして触れ合うという描写が展開していきますが、そのほぼすべてが無くなっているのですから。
 特にクリスの神学的な解釈に行き着く思考の流れは、旧訳ではカットされているので、映画のサルトリウスに「失礼だが、昔の奥さんとのロマンスのほかにあなたは何も興味を持っていない」と批判されても仕方ないですね(笑)。
 ふと思うのは、タルコフスキーがもし完訳版をオフィシャルに入手していたら、どんな作品になっていただろうかということです。原作の最後近くの神学論争をどう解釈しただろうか。あるいはそれに反発して映画化しなかったかも、などいろいろと想像できます。彼は映画化した後で、完訳版を手に入れることができたはずですが、残念ながら私の知る範囲ではそのことについての記述を見たことはありません。
栄村> それについては、脚本でタルコフスキーと共同作業をしたフリードリッヒ・ガレンシュテインにも話をききたかったですね。完訳版を読んでどう思ったか。また、彼の感じていたソラリスとタルコフスキーの頭の中にあったソラリスとでは、どのくらい隔たりがあったのか。タルコフスキーとの共同作業の顛末と、脚本の初稿から決定稿にいたるまでどう変化していったかなど……。残念なことにガレンシュテインは、2002年に亡くなられましたけど。
忍澤> フリードリッヒ・ガレンシュテインについては不勉強で、その人となりも含めてほとんど知りません。「タルコフスキー日記」には、最初のほうの記述に何度か登場します。まず彼が「シナリオの手直しにかかることになっている」こと。彼が「書いてくれた原稿を、そろそろ取りにいかなくてはならない」こと。彼に借金を返さなくてはならないこと。彼と第二稿を書き終えたこと。そして一番興味深いのは、残念ながら「惑星ソラリス」ではなく、別の実験部門のシナリオを二人で作成した際の記述です。それはこのようになっています。
 「シナリオは次のように書いた。
 1 ふたりで厳密なプランを練る。(主導権は私。)
 2 フリードリヒが書く。それもすぐに。(まあ適当なものが出来上がる――ダイアローグやその他のディテールが。)
 3 撮影用コンテに私が自分でダイアローグやその他いっさいを書き込む。(これはフリードリヒには渡さない。)」(83p)
 これは前後の関係や時期から結局映画化されなかった「アリエル」なのかもしれません。ここから大胆に類推すると、タルコフスキーは、原作をガレンシュテインに読ませたあと、二人でプラン作りをし、彼に下書き的なものを書かせて、それを基にして、自分でコンテや実際の台詞を完成させたという感じでしょうか。これはちょうど「ストーカー」の原作者であり、結局は不完全のままで終わってしまった脚本家としてのストルガツキー兄弟とも似ているような気がします。
雀部> なるほど。>脚本家としてのストルガツキー兄弟
忍澤> そうですね。それでもストルガツキー兄弟は、消極的とはいえ映画を賞賛しているところが、レムと大きく違うところでしょうね。まあ、そういったことを勘案しつつ、さらに夢想すると、「惑星ソラリス」で原作におおよそ則っている部分は、ガレンシュテインが書いたものが基となっていて、それ以外の地上シーンや母親の登場、図書室の設定、そしてもちろんラストシーンなどはタルコフスキーのオリジナルといえるような気がします。
栄村> 海外のネットをさがしたところ、タルコフスキーの「ソラリス」についてのコメントを集めたサイトがありました。レムの小説の映画化を思い立った理由を述べているのですが、それによるとSFに興味はなく、小説の中に出てくるいくつかのテーマが、彼が映画の中で追求していた道徳や良心の問題と繋がるため脚色を決意したそうです。なかでも注目したのは、「進歩の値段」と呼ばれる、つらい痛みをともなう経験を経て生まれてくる新しいモラルの問題でした。これは科学技術の進歩によって生じる道徳的な葛藤であり、人間が自分自身に注意を向ける能力の無さといったものも含んでいる。テクノロジーの進歩は人間の願望を叶える一方で、道徳の崩壊や倫理的価値観の消失といったものを生むため、人はジレンマを抱えてしまう。……いまのネット社会を見るとよくわかりますけど。すべての道義的責任から解放されることを願いながら、また一方では、自分自身の行動の意味を理想のかたちでさがしている矛盾に満ちた人間の姿――彼はそこに影響を受けたようです。このテーマは、のちの「ストーカー」にも引き継がれてゆくのですが……。

 「ソラリス」の映画化については、タルコフスキーは独創性なく原作をたどることをさけ、自分自身の解釈の「ソラリス」をスクリーンに上映する方向で脚色を進めていました。そして、原作を人間の理性と未知の存在との衝突の物語というよりは、ハリーとケルヴィンの関係に象徴される、人間とその良心の結びつきや、地球と人間との強い絆――地球での過ぎ去った過去や、残してきた者たちへの愛、いま、自分が生きている時代への責任といったものに重きをおいて解釈していたようです。

 ソラリスの海に放射線ビームを送りこんでコンタクトを図ろうとした結果、「海」がその深淵から生みだしたものは、主人公にとって最も大切なもの――自殺した妻であり、地球に帰るという夢――だった。映画のエンディングで「海」がつくりだす主人公の故郷とそっくりの、美しく郷愁にみちた島。生まれ育った家があり、父親がいて、そして主人公の複製がその父親と抱き合う姿――このシーンは、神秘的で幻想的なソラリスと対比するため、そして、彼が独自の解釈で原作から汲み取ったテーマをしめくくるために浮かんできたアイデアだったそうです。

 コメントを読んで思ったのですが、タルコフスキーがもし検閲のない「ソラリス」を読んだとしても、映画自体はそう変わらなかったかもしれませんね……。
忍澤> ……すみません。私のアシスタント知性体の通信システムが、エンストを起こしてしまって、長いあいだ言葉のやりとりができなかったようですね。はい、その個体はスクラップにしました。今頃はバラバラに分解されて、そのほとんどが大気に交じっていることでしょう。10年近く私をサポートしてくれたのですが、最後はみなさんにご迷惑をお掛けしてしまいました。申し訳ありません。
雀部> アシスタント知性体をご使用だったとは、なんと先進的な。ひょっとしてソラリスから持ち帰られたとか(笑)
忍澤> いえいえ、近くの量販店で購入したものですが、この知性体はどうやら持ち主の煩悩の奥底に準拠していたみたいなので、ろくにことになりませんでした。
 ところで、栄村さんからいただいた資料は、そのアシスタント知性体もどうにか送り届けてくれたので、興味深く読ませていただきました。タルコフスキーはソラリスの大気に地球への郷愁を感じとったのですね。パラシュートのはらむ音もそうですが、最後にソラリスの海の中の陸地に降りてきたくだりでも、そんな思いに至ったのかもしれません。
いろいろとレムにいわれていますが、文章や日常会話の理解は、とうぜん受け手によって行われます。そのとき重要なのが、受け手の社会的存在というヤツですね。だから人は時として、単純な言葉でもその解釈の違いで争いを起こしてしまいます。ましてや芸術作品の解釈ともなれば、受け手は描写の一つ一つに自分の記憶や思いをダブらせてしまいます。それを送り手は禁止することができません。
 あまりに卑近な例ですけど、とある短編小説に出てくる桜台という町は、東京に住んでいる人でもなかなか知られていません。だから大阪在住の人なら、大阪近郊の町を思うでしょうし、地方の人はテレビドラマで見たどこかの下町に重ねるかもしれません。登場人物もおじさんやおばあさんなら自分のそれをイメージするでしょう。つまり日常会話に始まって芸術作品に至るまで送り手の世界は、受け手がその社会的存在という素材を使って頭の中にそれを再び構築することよってのみ実現できるということです。
雀部> 東京で桜台といえば、思いつくのは《アクセル・ワールド》の洋菓子店『パティスリー・ラ・プラージュ』だけだな(笑)でも、地図見てみると、桜台って江古田の隣の駅なんですね。親友が叔父さん宅に下宿していて(江古田のアトム歯科)、江古田には何回か行ったことがあります。友人が「なんせ練馬大根の産地だからなぁ」とぼやいたごとく、23区でもちょっち田舎の感じがしました。おっとそういえば、忍澤さんの「ものみな憩える」は、あのあたりが舞台なんですね。突然ぱあっと視界が開けるようなラストの感覚は、小松左京先生の「こういう宇宙」と同じく背筋がゾクゾクしましたよ。
忍澤> うわぁ、《アクセル・ワールド》の資料が新しいアシスタント知性体から「これを知らんのか、ボケ」という注意書きが添付されて送られてきました。ス、スゴイ作品なのですね。同じ桜台周辺でも、まったく別の世界です。さらに雀部さんが拙作を小松大先生と並べて論じられるなんて、まったくの想定外ですから、こういったことは止しましょうね。
雀部> では、小松左京先生と並べて論じるのは後回しにして(笑)
 話が逸れて申し訳ありません。つまりタルコフスキーの『ソラリス』は、彼が生きた時代背景やその人物像を考えて見なくてはいけないということですか。
忍澤> 本来、時代背景や人物像を知る必要はないのかもしれません。しかしその魅力に憑りつかれ、表現の迷宮に入り込んでしまった者にとっては、彼の生きてきた時代や生活環境そのものが、迷宮探索のためのツールになってくれるように思うのです。確かに芸術表現は、ただそれのみによって立つべきなのでしょう。でも実際にはそれは困難なのではないでしょうか。作り手の描写を理解するとき、受け手は自らの材料を駆使しなくてはなりません。作り手はそれを比較的わかりやすい場所に置くこともあれば、遠くてしかも地中深くに埋めてしまうこともあるでしょう。つまり受け手がそれを探すとき、自分の近くに見つけることもあれば、遠く場所で半信半疑になりつつ探し当てる場合もあるということなのです。まあ、当たり前のことなのですが。
 それからソビエト時代のタルコフスキーのその社会的存在とその独特な個性を考えるとき、レムの指摘したことは、逆にその理解のためのツールの場所を的確に捉えているような気もしてきます。レムの憤慨の対象となっているあの最後の家も、結局はタルコフスキーの生涯のモチーフとなったのですからね。
「僕の村は戦場だった」と「アンドレイ・ルブリョフ」では家を失った少年が登場し、「鏡」は家が主人公のようなものです。「ストーカー」は家から出て家に帰る物語ですし、「ノスタルジア」では郷愁そのものとして家が浮かび上がります。そして最後の「サクリファイス」では主人公の願いへの捧げものとして大切な家が焼かれます。
 栄村さんからいただいた資料の中に、レムの言葉として「認識の領域全体と認識論的な考察は、わたしの本の中できわめて重要で、ソラリス論とソラリス学それ自体の本質にしっかりとつながっていました。不幸にも、映画はどちらかというと徹底的にそれらの特質を奪い去っていました」とありましたが、ソビエト版「ソラリス」では、タルコフスキーの手に渡る前に、すでにそれらは奪い去られていたわけです。
 もしタルコフスキーが完訳版を読んだとしたらということは前にもいいましたが、あの最後のほうで展開する「神学論争」を、愚劣なパロディだと思って怒りだし、結局「惑星ソラリス」は存在しなかった、なんてこともあるかもしれませんね。
雀部> 高校生の時に、銀背の『ソラリスの陽のもとに』を読んだのですが、人間が理解し得ない異生命体が存在するかもしれないというメッセージは、十分伝わってきました。だからタルコフスキーも、そこは十分読み取った上で、あの映画をつくったのではないかという気がしてます。たぶんそこを主題にすると売れない映画になるだろうと考えたということはあるんでしょうかね。タルコフスキー自身が描きたかった主題の映画にしたいという欲求は別として。
忍澤> このインタビューの最初のあたりで触れたことですが、雀部さんの読まれた銀背、そして早川の世界SF全集版は、先ほどの「神学論争」も掲載されていないロシア語初版を訳出したもの、そしてタルコフスキーが実際に読んだものなんですよね。日本の多くのSF読者はこの版による展開をいわばインプリンティングされていることになります。そしてタルコフスキーの映画を観てから入った読者は、映画の公開時に発行された「神学論争」と一部のみが改訂済みのハヤカワ文庫SFを読むことになります。この昔からのレム好きがもともとのレムの著作に触れず、新参者が改訂版や完訳版に最初に接したという逆転現象はちょっと皮肉なような気もします。
 さて、そしてその原作にある「人間が理解し得ない異生命体が存在する」という点についてですが、タルコフスキーが最初にレムに映画化について話を持ちかけたのは、資料が正しければ、1965年のことです。しかし制作は遅々として進まず、ある日は文部官僚から突かれて、別の日にはレムからバカと一喝されて、とても可哀想なありさまでしたが、そうなる理由の多くは彼自身の中にあったはずです。そういった環境自体を決して是認するつもりはありませんが。
 というのも、私の思うところ、彼は「人間が理解し得ない異生命体」というよりも、「人間が理解し得ない現象」というあたりに彼はビビッときたのではないでしょうか。その現象はまさに彼の心の中心にあり続けた贖罪を具現化させます。だからこそタルコフスキーはハリーだけでなく、原作にはなく、レムの大嫌いな母親や父親と家まで登場させるのです。
 このあたりは先ほどのタルコフスキー理解のために背景を知ることに関連してきます。それはつまり彼の実際の父親や母親との関係です。尊敬すべき詩人である父親は、残念なことに父や夫としての役割をはたすことができず、またそのために母親は父親の役割も担うことになったわけです。さらにタルコフスキーは実際にも女性関係の上で父親と同じ道を歩むのですから。
 彼は昔からレムのファンであったようですが、たぶん映画制作の材料探しをしていくなかで、『ソラリス』の中に、自分自身のテーマである贖罪のモチーフを見つけたのだと思います。しかもSFですから、文化当局との折り合いも付けやすいと当初は考えたのでしょう。そういった映画を作るための条件としてのSFが、結局、表現の足かせにもなってしまい、また原作者のキャラクターも災いしたというわけです。
 さらに妄想すれば、とにかく原作の大枠を用いて、フリードリヒに脚本を書かせ、それに大ナタを振るいつつ、自分の材料、本人にとっては光り輝くように材料を、パッチワークのように継いでいったのではないでしょうか。そういったことを類推させるのが、「ストーカー」の成り立ちです。タルコフスキーは雑誌連載の形で「路傍のピクニック」に関心を持ち、ストルガツキー兄弟に脚本を依頼します。しかしご存じのように何度もダメ出しをし続けて、何本もの脚本を書かせただけで、それを「参考」にして、結局はストルガツキー兄弟のものではない、ほとんど痕跡を残してはいない「脚本」によって映画化されました。というわけで、現在、当初の小説である『路傍のピクニック』が、日本では映画のタイトルである『ストーカー』になっているというのは、なんともはやです。
 また「僕の村は戦場だった」でも、映画の展開は原作であるボゴロモフの小説に準拠していますが、タルコフスキー的な表現、浜辺を走るシーンや、井戸のシーン、馬車に乗って疾走するシーンなどはまったく原作にはありません。この「僕の村は戦場だった」の原作と映画を比較すると、よく似ているのが「惑星ソラリス」なのです。
 つまりこういえると思います。彼の作品において原作とは、映画を作るための前提条件とその展開のための骨格に過ぎないのではないかと。そしてさらに誤解を恐れずに大胆にいってしまうと、原作の内容、あるいは書き手の意図は彼の芸術表現の根幹にはない、ということなのです。
 「惑星ソラリス」においてタルコフスキーが必要としたことは、もしかすると、まず小説『ソラリス』の有名性ということになります。これを原作とすることで、ある意味その才覚には似合わない不遇の地位にあった彼に制作のチャンスを与えます。もちろん先ほどいったようにその原作には彼の表現したいことが含まれています。宇宙空間という人の意志を純化させる場所での奇蹟に、人はいったいどう対応するのか、それがまさに「人間が理解しえない現象」ということになるのでしょう。そこをあえて「異生命体」による「現象」とするならば、彼にとってその「異生命体」は「神」のようなものとなるのかもしれません。その証拠ではありませんが、映画の中のクリスは、水が入ったコップを置いたアンドレイ・ルブリョフの三位一体像の前で、まるで祈るように佇んでいます。
雀部> なるほど、それはかなり象徴的なシーンではありますね。
忍澤> 私は最近、タルコフスキーの日記以外のほぼ唯一の著作である『映像のポエジア』を精読し始めているんですが、今までの流し読みを悔いていているところです。そんな中で、「(芸術家は)人生の微妙な連関と人生の深いところで起こっていることの本質的意味を伝えるために、あるいは、その深みの複雑な様と真理を伝えるために、直接的論理から逸脱することができる」(31p)とか、「他の芸術の特殊性をスクリーンに持ち込んでも、それは映画独自の力を映画から奪い、自立した芸術としての映画の強力な手段に依拠して解決をはかるという探索を遅らせるのである」(33p)など、まさに目からウロコ的な言説に出会っています。
 「惑星ソラリス」理解のために……を書く前にもいちおう読んだはずだったのですが、まったく頭に入っていなかったんですね。この本はタルコフスキーが20年間に渡って書き綴ってきたものを、85年頃の視点で再構成したもので、ソビエト時代の奥歯にモノが挟まったようないい方がある程度は払拭されているようです。これと彼のいわば社会的存在への罵詈雑言集といった意味合いもある『タルコフスキー日記』、この二冊を読み込むことが、「『惑星ソラリス』理解」のその先への近道のような気が今はしています。
雀部> タルコフスキーの著作では『映像のポエジア』と『タルコフスキー日記』、一般文学では『白鯨』と『ドン・キホーテ』が鍵になるということですね。
忍澤> そうですね、「サクリファイス」の原作以外には、タルコフスキーの著作はほぼその二つに限定されていますから。『映像のポエジア』では、彼の芸術や宗教への深い洞察を感じることができます。そして『タルコフスキー日記』では彼の日々の悩みや人間性を知るための貴重な資料でしょう。まだすべて訳出されてはいないようなのか残念ですが。
 また『白鯨』はタルコフスキーというよりも、レム本人が『ソラリス』の範としたというようなことをいっているので、小説『ソラリス』を知る上で大切な文献だと思います。『ドン・キホーテ』についてはここではずいぶんと前に述べてように、「惑星ソラリス」の中で何度も登場して、さらに朗読までしているのですから、タルコフスキーが観客に与えた「解釈の導きの糸」といっていいでしょうね。実際に「ドン・キホーテ」を読んでみると、「惑星ソラリス」に移植されているところをいくつか見つけることができます。
 また「惑星ソラリス」は絵画的な引用を多く内蔵させている作品だと思います。そういった点を、ほんとうは目を皿のようにして探さなくてはいけないのでしょうが、残念ながら絵画の知識は極めて乏しいので、図書室にあるブリューゲルの絵以外にも、大切なものをスルーしている可能性が大なのです。ただ数少なくも見つけたと思われるものの一つに、登場人物が有名な絵画と同様の構図を取る場面があります。例えばスナウトが図書室に遅れて入ってくるシーンでは、鏡にクリスとハリーが映っていて、それはまるでファン・エイクの「アルノルフィーニ夫妻像」とまったく逆の構図になっています。これが結婚直後の夫妻を祝福しているとされる絵画を意識しているとすれば、クリスとハリーは、このソラリス・ステーションの中で初めて夫婦となったことを意味するのかもしれません。彼らはこのあと無重力状態の中で抱きあうのですが、この空中浮遊は「鏡」や「サクリファイス」では、より具体的に情交のシーンとして理解されています。また最後にクリスが父親と抱き合う、やや不自然な姿勢のシーンも、レンブラントの「放蕩息子の帰還」の構図とよく似ています。この推測が正しければ、タルコフスキーは聖書にあるエピソードをクリスとダブらせていると考えられます、といった感じで、「惑星ソラリス」の魅力は曲解や誤解である解釈も含めて大いに想像力を広げさせてくれる作品といえるでしょう。
雀部> SF評論賞に応募されるにあたって、誰(もしくはどういう読者層)を想定されて評論を書かれたのでしょうか。
忍澤> 私はあまり難しいことは書けません。ただ作品の中に見つけたり、思ったりしたことを、ずらずらと書いていっただけなんです。それでも同じ時期に第3回創元SF短編賞でも堀晃賞をいただいたので、その一作も読んでくれた友人や知人は決まって、こういうんです。「小説はよくわかるけれど、評論はまったくわからん」ってね。
 つまりあの拙文は、タルコフスキーファンからタルコフスキー・ファンへ向けた文章です。何度も「惑星ソラリス」を観て、いろいろと思い巡らしている私と同じファンに対して、「私はこんなの見つけちゃったけど、どう思うかな」といった具合に話しかけているんです。そして「惑星ソラリス」の謎に絡まってしまって、『ソラリスの陽のもとに』を読んだファンにも、「実はタルコフスキーが読んだのは、こんな原作なんだよ」と、知らせたかったのだと思いますね。
 だから、やはり映画を3度ぐらいは観て、原作も一度は読んだ人が想定読者といえるのかもしれません。
 ここで付け加えるならば、もともとのレム・ファンにはたぶん御免なさいなのです。[一]ではいろいろと書きましたが、私は熱心なレム読者ではないので、レム・ファンはまったく満足することはできないと思います。レムについては、私はまだまだ作品も評論も読む側の人の端っこにいます。
栄村> まあ、そうおっしゃらずに。「レムの『神学』と秘めたる『接触』」のあたり、結構、興奮し、感心しながら読んでいましたので(笑)。
忍澤> ありがとうございます。私の妄想にお付き合いいただいて、なんとも光栄です。栄村さんの挙げていただいた箇所などは、まさに新訳でしかわからない部分ですからね。削除した側の意図は明確ではありませんが、そのことによってレムの意図のかなりの部分が失われてしまったことは確かです。ネット上などでは、その新訳への誤解が散見されるのですが、もしレム・ファンであるのならぜひ新訳を読んでもらいたいと思います。私はその削除部分にこそレムの真髄があると思っているのですから。
雀部> なるほど。確かに忍澤さんの評論を読んでから、新訳の『ソラリス』を読むと、さらに理解が深まると思います。
 最近、忍澤さんのブログを拝見しに行ったり、Twitterでもフォローさせて貰ってますよ。
忍澤> 実は最近もツイッターでオキシタケヒコさんが「遊星からの物体X」を短歌風に紹介していたのに感化されて、恥ずかしながら私も短い言葉で「惑星ソラリス」の最初の地上のシーンの展開を綴ってみたのですが、そのいくつかをちょっと紹介させてください。

・清流に 水草揺れて 浮かび来る 紅き一葉 わが目を射たり
・原に立つ 男一人に 鳥の聲 枯草動き 静寂に入る
・友の子に 隣人の少女 近づきて すぐに打ち解け ブランコが待つ
・友のいう ヒロシマの非に 関知せず 理知なる姿勢 海まだあらず
・炎にて 舞い上がりたる 思い出が 伯母の涙に 遠くを霞む
・憤怒にて 高速走り 最後とて 伝えたること アナタは私

 すべて記憶で映画の場面について、その深読みも含めて書いたものなのですが、このように短くまとめて見ると、意外な発見というか、今まであまり気にしていなかったシーンに思いが至りました。
 まったく我流でお奨めはしませんが、こういったことも映画の個々の場面を分析するかなりヘンテコな手段となるかもしれません。
雀部> 短いけど(短いが故にかも)何か深いなぁ……


[忍澤勉]
1956年東京生まれ。明治学院大学経済学部卒。非常勤講師、広告制作会社、出版社を経てフリーランス。「東京シュプール」で第13回長塚節文学賞優秀賞受賞
[栄村]
レムの30年来のファン。「砂漠の惑星」を読んだのが、SFに本格的に身を入れるきっかけとなりました。彼が亡くなる前に一度、ポーランドを訪れたかったのですが……。
生前、レムが言っていたように、インターネットで世界中から情報が入ってきて便利になる反面、駆けめぐる膨大な情報のために、ますます世の中は複雑化し全 体像が掴みにくくなっているような気がします。彼のような広い知識と視野をもつSF作家は、これからますます生まれにくい状況になっているのかもしれませんね。
[雀部]
以下に簡単なレム氏著作年表あります
http://www.sf-fantasy.com/magazine/bookreview/lem_table.html
ネタもとは、アイザック・アシモフ著『科学と発見の年表』と、AMEQさんの「翻訳作品集成」及び、サンリオの『SF百科事典』、「Twentieth-Century Science-Fiction Writers」(St_J)、GROLIER社の"THE MULTIMEDIA ENCYCLOPEDIA OF SCIENCE FICTION"から。

トップ読切短編連載長編コラム
ブックレビュー著者インタビュー連載マンガBBS編集部日記
著作権プライバシーポリシーサイトマップ