Author Interview
企画・編集:[雀部]
『才のままに生きて、努力というものをしなかった小説家の遍(変)歴』
『才のままに生きて、努力というものをしなかった小説家の遍(変)歴』
  • 石飛卓美著/福崎録装画
  • 都築由浩・山陰SF創作会編集
  • 石飛裕見子発行
  • 2014.7.6発行
【目次】(前編は「生い立ち」から引用。後編はそれ以外から引用してます)
「入院と手術」「生い立ち」「波瀾万丈」「小説家」「あとがき」
「お礼」石飛裕見子
「刊行に寄せて」飛浩隆
「闘病記録」 
『神魂 KAMOS1』
  • 発行会:山陰SF創作会、代表者:石飛卓美
  • 編集者:上杉宏人、表紙画:飛浩隆
  • 連絡人:八坂臣嗣
  • 1983.6.1発行

山陰SF創作会のファンジン「KAMOS」は、松江市内にある古い神社「神魂(かもす)神社」からとっている。「雲湧き出ずる地の、魂」

神魂 KAMOS1
『SFにさよならをいう方法』
『SFにさよならをいう方法 飛浩隆評論随筆集』
  • 飛浩隆著
  • 河出書房新社
  • 1078円、Kindle版970円(税込)
  • 2021.12.7発行
「石飛卓美さんのこと」収録
 飛先生の評論とかあれこれ。名作が多くて改めて驚く。よって受賞時の言葉も多い。 『鹽津城』とのブックレビューはこちら→
 内容は、題名と違って全然SFにさよならを言ってないんですけどね(笑)

石飛卓美先生年表はこちら→「石飛卓美先生の生涯」著作紹介はこちらから→「著作紹介」

雀部 >

前号に引き続き懸案だった故石飛卓美先生の特集、後編です。石飛先生のパートは『才のままに生きて、努力というものをしなかった小説家の遍(変)歴』を編集して引用してます。
 さて、石飛先生は祖父の逝去(1977年12月)を機に故郷の島根県に帰られて、家業の椎茸栽培を手伝うことになります。

石飛 >

家業を継ぐことは地に落ちた気もしたが、絶望感や挫折感は感じなかった。世知辛い都会の生活より、のんびりした田舎暮らしのほうが性に合ってると思った。

帰省してひと月経ったある日、不意に父親から町会議員の選挙に出ないかと打診される。

政治の世界にはいままで全く関心が無かったが、考えてみれば選挙に通って議員になれば就職ではある。
 父親が「わしが手を打つからやってみろ」というからにはそれなりの目算も立っていたのだろう。否も応も無く腹を括ったが、引退するとされていた同じ地盤の現議員がそれを覆し再出馬するというのだ。

雀部 >

あ~、良く聞く話ではあります。自分の息がかかった後継者に禅譲するのはかまわないが、関係ない若造に地盤を奪われるのは我慢がならんというやつですね。(汗;)

石飛 >

元々その議員とわたしの父親は対立関係にあると思われていて、父親はまだ50歳と若く自分が選挙に出ようかと思っていたふしもあった。父親は豪快で出来た人物であったがそれ故嫌われる傾向もある。そこで反発が少ない息子に譲ったのではないか。
 地元の若者たちが応援・手伝いをしてくれたのですが、選挙はずぶの素人だったので苦戦は免れないと思っていた。また選挙の公示が出る前に、その議員が選挙参謀と共にやってきて「今回は降りてくれ」という話もあったが、もちろん断った。

立候補締め切り直前までは無投票ではないかという公算だったが、突然土木関係の社長が立候補を表明し、準備不足のまま選挙戦に突入した。

雀部 >

選挙演説を詩吟に託したというのもユニークですね。うちの親父も詩吟の会の顧問みたいなことをやってたので親近感が(笑)確か漢詩も作ってました。

石飛 >
貿易会社を共同経営していた友人の叔母さんが、詩吟の師範をしており、友人の誘いもあって帰省するまで習っていた。もともと声は大きく声帯も強く、高く良く響いた。
“若き血潮は燃え滾りこの町に賭けん 願わくば救い給え一票の力 ……”
一週間に及ぶ攻防はあっという間だった。
雀部 >
接戦を制して、からくも最後の当選枠に滑り込むという結果になったわけですね。
 同時当選した、締め切り直前に立候補した社長さんに議員になってから可愛がられたというのも、石飛先生のお人柄があってのことで、面白いエピソードですね。
石飛 >

若干26歳。県内最年少の町会議員の誕生は、翌日の新聞でも大きく報じられた。

一番喜んでくれたのは父親だった。自分が叶えられなかった夢を息子が実現してくれたのである。

予備知識のないままの議員生活は、当面の間は地に足が着かなかったが順応性は高く、宴会での所作も堂に入っていた。車の免許を取ったのは議員二年目になってからである。議会のないときは家業の椎茸栽培に専念していたのもあり、車は田舎では必要不可欠だった。

しかし議員としての資質は十分にあったが、それを引き出す努力をまったく怠っていた。光陰矢のごとしである。

雀部 >
二期目の町会議員選挙は前回の選挙の時よりも得票数は増えたものの、準備不足もあり残念な結果に終わって時間に余裕が出来て、そこから本格的に書き始めたのですね。
石飛 >

『神魂 KAMOS1』の「まずはほんの自己紹介」に書いたように幼少の頃から自分で考え創作するのが得意だった。中学生の頃には詩作、大学では音楽、そして小説の世界に入り込んでいった。最初にSFMの「リーダーズ・ストーリィ」に投稿したのがまだ議員の職にあった頃のこと。三〇歳で議員の職を失い、暇になったので本格的に書き始めた。豊田有恒氏の選評に毎号のように名前が載るようになり、やがて本名で描いた作品が掲載される。その後も豊田氏とは親交が続き多方面でお世話になった。私の最も尊敬する師匠である。

雀部 >

まだ議員だった時に、SFMコンテストの最終回候補となったり、「星群」同人になりデビュー作が掲載されたのですね。(石飛卓美先生年表参照)

折からのSFブームで、ファングループや同人誌も増え、イベントもそこここで開かれていた時代でした。

石飛 >

地元でなんとか同人誌かファングループを形に出来ないかと思っていた時、何かで出会った四人が集まって意気投合した。八十二年、社会人と学生が二人ずつ集まり「山陰SF創作会」が誕生した。

雀部 >
飛浩隆先生の「石飛卓美さんのこと」(『SFにさよならをいう方法 飛浩隆評論随筆集』所載)によると“地方紙の「売ります買います」「サークル募集」などの投稿を集めたコーナー、そこにSFファングループの旗揚げと会員を募るという文章が載っていた。”とあります。既にファンライターとしてよく知られた存在である石飛卓美先生が発起人の一人だったこともあり、飛先生も指定された喫茶店に出向いて会員になられたようです。
 こうしてスタートした山陰SF創作会の例会は、月一回日曜日に、発起人の一人Y氏の自宅にたむろしてSF話に興じ、当然の如く創作ファンジンを出したりするようになったとあります。
石飛 >

1984年に発表した作品が創作部門のファンジン大賞を受賞し、それが翌年SF雑誌に年間優秀作として転載され、実質的な作家デビューとなった。
 出版社との縁が出来たところで、かねてから構想を練っていた長編に挑んだ。86年の秋から三ヶ月で書き上げたのが『人狐伝(じんこでん)』であった。*注1『人狐伝』 

雀部 >

『人狐伝』(1987/9月)の後書きに“構想は五年くらい前からあり、資料も揃えていた”とあるので、1982年(町会議員落選の年)くらいから温めていた小説なのですね。

石飛 >
『人狐伝』は出雲呪族の末裔で狐の霊を操り、反出雲の謎の敵と戦う異能力者の話である。同時発売された八人の作家の本とともに出版社もかなり力を入れ、売れ行きも上々のようだった。もちろん地元でも大いに話題になり地元新聞にも書評付きで載り新聞のベストセラー欄にも載った。町の本屋では300部を仕入れ完売したという。
雀部 >
その後同じ徳間ノベルズから『天狐呪風』(1988/6月)『火焰菩薩』(1988/12月)と立て続けに伝奇物を出されます。
石飛 >

 元々寡作なので専業作家で喰えるとは思ってなかった。家業も継いでいたので収入はかなりあったのである。それでも小説を書くのは楽しくて仕方なかった。一作仕上げては出版社に送っていた。
 八九年の八月、名古屋で日本SF大会ダイナコンEXが開催され、ゲストとして参加した。会場行きのバスの中で既に出来上がってしまっていたが、会場に到着し、夜になると怪獣酒場なるところに侵入した。
 そこで酒を飲みながら友人と大声で小説談義をしていたが、ちょうど居合わせていた三人の若い女性が、どうやら酔っぱらいの話に耳を傾けていたらしい。まだ駆け出しの新人で、二作目の『天狐呪風』を上梓したばかりだったが、自己紹介をして、それぞれに名刺を渡した。

雀部 >

それが奥様との最初の出会いだったのですね。 

石飛 >

百姓をしながらSF小説を書いているなんて凄いなあと、後日手紙をよこしてきた。
 早速お礼の電話をし「よかったら遊びにでも来てください」と冗談半分、外交辞令でそう言った。
 ところが後日本当にやって来た。吃驚した。
 一晩泊めて翌日はあちこち観光地を回った。三〇歳で八つ離れていたが、その後も帰る気配がなく居座ってしまった。帰ったのは結婚を決めてしまってからである。

雀部 >

奥様、なんとも凄い行動力ですね。

石飛 > 
知り合って二週間ほど。まるで狐につままれたような感じがした。ともあれ、とんだ「押しかけ女房」である。父親は喜びすぎて事故死し、慶弔が重なってしまった。
 婚活しようにも当てはなく、議員ということで田舎町では尊敬はされても結婚相手としては敬遠される存在だった。まさか相手に見初められるとは。
 何の苦労もせず、尽くしたわけでも努力したものでもなく嫁を娶ってしまったのである。おまけに彼女は光物が嫌いで、どこにも気を遣う処のない、そして頭のいい女性であった。
雀部 >

『才のままに生きて、努力というものをしなかった小説家の遍(変)歴』を読んで、この題名をつけた最大の要因は、まさにここの“何の苦労もせず、尽くしたわけでも努力したものでもなく嫁を娶ってしまったのである。”という部分にあるのではと感じました。読んでいて一番力説していらっしゃる感じがします(笑)

石飛 > 
「あの石飛が結婚した」というニュースはたちまち全国へ広がり、ネット上を駆け巡ったという。「あの」は無いと思うのだが! 
雀部 >

なんか「あの石飛が」と言われて喜んでいるようにしか思えなくて微笑ましいです(笑)

石飛 > 
驚いたのは彼女はSF界の巨匠ハインライン氏と文通していたのだ。日本で二人しかいない。もうひとりは彼女が紹介した友人である。
雀部 >

「雲魂参拾四」で手紙を見せていただきました。増田先生に翻訳をしていただき、だいたいの内容もわかりました。数が多いのにも驚きましたが。
 *注2ハインライン氏からの最初の返信の手紙画像(裕見子さんから提供していただきました)

石飛 > 
結婚して三年くらいは、嫁さんが傍にいるのが信じられなかった。全国各地で開かれる色々なイベント、コンベンションにゲストとして新婚旅行代わりに参加した。人生で一番輝いていた時期である。新婚ではあったが、何年も一緒に暮らしているぐらい気の合った夫婦に見えたらしい。残念なのは子どもができなかったことくらいである。夫婦とも自然に任せる主義だったので、不妊治療というのはしなかった。
 ともあれ、最良の伴侶に恵まれたことは言うまでもないのだ。
雀部 >

ご結婚が1989年11月なので、『ふたりの森のラビリンス』が出版された頃ですね。この本に関してはちょっと面白いエピソードを聞きました(笑) *注4『ふたりの森のラビリンス』

石飛 > 
さて、小説の方はというと、短編なら幾らでも書けたので注文に応じていたが、長編となると寡作で年に一冊程度しか上梓できなかった。田舎暮らしで東京へ出ることも少なく、他の作家諸氏との交流も希薄であり、出版社の編集部に企画書なるものを提出するのが常道であることも知らなかったので、一作完成させてから送っていた。また編集者との打ち合わせをすることもなく、上京して挨拶回りをするとか、電話の一本も入れるとかの努力を怠っていたのだ。
雀部 >

『ふたりの森のラビリンス』と『グリーンソルジャー』は、今で言うラノベで、前者が少女向け、後者が少年向けといったところでしょうか。どちらの後書きも読者(少年少女)に向けての言葉が書かれています。お便りお待ちしていますとも。

石飛 > 
そうこうするうちに小説家として身を立てようと思ったときはもう遅く、原稿を仕上げても売り込むところも発表の場も、気がついたらどこにもなかったのである。おまけに伝奇本を出した一社は倒産して、二冊出した本のうち、一冊分の印税は僅かしか支払われなかった。
雀部 >

これは倒産した大陸書房のことだと思われます。『惟神伝 流転之巻』(1991/8月)、『惟神伝〈2〉 乱雲の巻』(1992/5月)と二冊出されてます。
 『惟神伝 流転之巻』の後書きに、“ゼラズニィの『光の王』の日本版をやろうと思った”という意味のことが書いてあり、読み終わって「おぉ!そうだったのか」と思いました。神々の戦いなんですけどね。
 『惟神伝〈2〉 乱雲の巻』は、“神と人間がつむいだ歴史の光と闇の部分の戦いを描いたものである”とあります。もう一つ、“妻はぼくの書いた小説を最初に読む権利を有しているのだが、この作品は前作よりも面白かったと評した”とも書いてあります。

この二冊、シリーズ化しても行けそうな感じがするので残念ですね。

石飛 > 
出版社との縁を自ら遠ざけ、新しい開拓もしないまま唯一続いていたのは、某スポーツ新聞のコラムだった。大阪本社版に週一回掲載され、あの思いっきりエッチな紙面の原稿用紙二枚半という創作掌編である。
これが当たって八年と少しという長きにわたって続いた。 *注3(スポーツ新聞コラム)
 しかし担当者が退職したために、創作ではなく実録をメインとする企画に変更になり、ついには仕事を失ってしまった。
雀部 >

スポーツ新聞ならではの、ちょっと猥雑なコラムも書かれていたのですね。

石飛 > 
これについては面白いエピソードがあって、弟二人が亡くなったのを機に三十数基あった墓を一纏めにして宗廟にすることにした。石材店が何軒かやってきたが、その中の一人が墓石に刻まれた建立者の石飛卓美の名前を見て驚いた顔をした。思い当たる節があったようで、
「ひょっとして、スポーツ誌に長いこと連載されていた方ですか?」
「はい。そうですけど、よくご存じで」
「ずっと愛読してました。名前を見てピンときました」
 紙面のメインでもあったので経歴や出身地まで載っていたこともあり、名前も特徴的で覚えやすかったこともあっただろう。
「是非やらせて下さい。これも何かの縁かと思います。お安くしますので」
 そのスポーツ紙は大阪版で公称五〇万部だが、田舎の町の石材店が購読していたとは何とも驚きであった。
 もうひとつ加えるならば、出身大学の学生部から電話が入ったことがある。これも新聞を読んだという問い合わせであった。卒業大学名が記載しており、宣伝効果もあったのだろう。
雀部 >

同じようなコンセプトというかアダルト向けの短編集に『日本未来ばなし』があります。表紙カバーの右そでのところに“エッチで楽しいSFショートショート”と書いてあります(笑)

初出を見ると「週間小説」誌、1989年3月~1992年6月となっていますので、この期間「週刊小説」に年に数回は書かれていたのだと思います。 

石飛 >
その後、上梓した本は架空戦記ものの一冊のみで、この出版社も会社形態を変えてしまい、以後の連絡は途絶えたままだ。編集者を紹介して貰った作家の方も若くして亡くなったというおまけ付きである。
雀部 >

これは『戦国疾風録 毛利の野望』(2003/7月)のことでしょう。
 冒頭が本能寺の変で、普通の歴史物と思いきや、秀吉が高松城の水攻めに失敗するあたりから雲行きが怪しくなってきて(笑)
 岡山城とか高松城とか、まあ地元ですので楽しく読ませて貰いました。
 毛利元就が情報戦において秀吉を上回っていたとかも面白い設定です。石飛先生らしく、島根県安来市生まれの武将(尼子三傑の一人)鹿介(山中鹿介幸盛)が重要な役どころを担っているところも面白いですね。
 この本を最後として石飛先生の著作は途絶えるわけですが、とても残念です。
 9年後くらいから闘病生活に入られて、2014年5月に逝去されました。
 闘病中にアレルギーで心肺停止に陥り、そこから奇跡の復活を遂げて、痺れる指で執筆を続けて書かれたのが自叙伝の『才のままに生きて、努力というものをしなかった小説家の遍(変)歴』になります。
 最後になりますが、「星群」の伊藤さんから、エビネランのことも書いておいたほうが良いのでは、とのアドバイスを頂きました。奥様(裕見子さま)はご存じでしょうか。

裕見子> 
エビネランを移植したのはわたしが来る前のことなので、正確にはわかりません。資料を探してみます。
雀部 >

ご面倒な事をお願いしてすみません。

裕見子> 
エビネ園のノート見つけました!
 もともとは公開してませんでしたが、1998年にNHKが取材にこられて放送されたら「どこにあるんですか?」と問い合わせの嵐だったそうです。他県からいきなり雲南市まで来てしまわれた方もおられて、公開することになりました。
雀部 >

なんとNHKの取材があったとは。
 移植が始まったのが1976年で、公開が1998年でよいでしょうか。

裕見子> 
正確には、義弟の直己さんが、裏山から庭のはずれに移植しました。後では少しは卓美さんも掘って帰っていました。2013年まで新聞記事も残ってます。 *注5(エビネラン)
雀部 >

公開は、NHKの放映が発端だったのですね。
 この頃のことで言うと、エビネラン一般公開の2年前(1996年)には、『亡霊たちのフォークロア』が出てます。
 *注6『亡霊たちのフォークロア』の記事

裕見子> 
正確には、新聞記事によると「ダムで沈む山から、裏山に移植」です。
雀部 >

2011年の新聞記事も読ませて貰いました。35年前(1976年)に自宅裏山に移植とあります。で、公開が1998年ということで裕見子さまの記憶と一致しますね。
 エビネランは、その後どうなったのでしょうか。

裕見子> 
エビネ園は、エビネがほとんど無くなってしまったので、2013年を最後に閉園しました。この辺は地滑り地帯で、水抜きのパイプを設置したら、地中の水の道が変わってしまいました。庭のたらいの木やミモザなどの木が枯れてしまいました。環境が変わってしまい、エビネもなくなりました。
雀部 >

なんと、それは残念、一度拝見したかったです。
 裕見子さま、今回は色々と貴重な資料をお貸し頂き、またぶしつけな質問にも快く答えて頂き大変ありがとうございました。
 この記事が、全国のSFファンが今一度石飛卓美先生のことを思い起こす切っかけになると大変うれしいです。
 お亡くなりになった年には、三刀屋町の深谷温泉の「ふかたに荘」で遺作展も開催されました。
 *注7石飛卓美追悼遺作展 2014年8月

(石飛卓美先生架空インタビュー前編はこちらから→
[石飛卓美]
 1951年生。島根県雲南市出身。SF作家。2014年逝去。 ファングループ「山陰SF創作会」主催。ローカル・コンベンション「出雲SFコンパ雲魂」主催。
[石飛裕見子]
 石飛卓美先生の奥様。ハインライン氏と文通していたことがあるSFファン。元「星群」誌友。
[雀部]
 生年と血液型(AB型)が同じと言うことで、勝手に石飛先生に親近感を抱いているアマチュアインタビュアー。大学卒業後、OSFFC(岡山SFファンクラブ)に加入。その後ハードSF研、コマケン所員(幽霊会員)。「ソリトン」(堀晃先生主宰)元会員。