
【収録作品】○前号インタビュー、◇今号インタビュー
他の収録作家の方たちも順次インタビュー予定
| ◇ | 蒼桐大紀 | 「世界のすべてとわたしのありか」 ☆ソラリス賞 |
| ○ | Yohクモハ | 「 |
| 秋待諷月 | 「生き急ぎの幽霊」 | |
| ◇ | 七名菜々 | 「スティール・ストーク・ストローラー」 |
| ○ | 九住龍 | 「忘れにし夏」 |
| 洛杜きんるい | 「フェリスの星」 | |
| 蒼井どんぐり | 「雪宙花火」 | |
| ○ | 渋皮ヨロイ | 「最低魔女とマシマシメンメン」 |
| ○ | 嶌田あき | 「プラネタリウムみたい」 |
| 八月休希 | 「タイタンにあがる月」 | |
| 萬朶維基 | 「万事調和クッル・シャイイン・フィー・インシジャーム」 | |
| ◇ | 柏沢蒼海 | 「ダイハードマン・コントラクト」 |
| 阿下潮 | 「プラセンタ」 | |
| ◇ | 六塔掌月 | 「真子と鏡」 ☆アニマ賞 |
蒼桐さま、今回もよろしくお願いいたします。
前回と同じく、作品掲載者さまには、以下の質問にお答え頂いてます。
蒼桐大紀です。この度もよろしくお願いします。
一人称の小説で主人公の容姿を描写するのに鏡を使うのは、ベタな手法なのですが、主人公の風音が抱いている自分に対するコンプレックスを強調するために採用しました。これは、自分の容姿だけではなく、その容姿が形成されるに至った起源を含めたコンプレックスであるため、ふと内省してしまうのはどんなときだろう? と考えて、やはり鏡の前だと思いました。
容姿の描写も読者への情報の提示だけではなく、風音が自分をどんな風に見ていて、どんなとらえ方をしているかを踏まえてもらうことで、なるべく彼女と同じ目線で物語を読み進められるように設計しました。
また、鏡に映った自分の姿を見ることは、他人から自分がどう見えているかを確認し、他者の中にある自分を意識する行為でもあります。作中で風音が言う「わたしのありか」とは、自分がマージナルな(境界性を持つ)存在だと踏まえた上のアイデンティティーのことだとそれとなく提示してみました
そうか、ネットがダウンした世界でしたね(汗;)
「かごめかごめ」は、覚えていた老人の誰かが子どもたちに教えたんでしょうね。
そういえば、Xのスペースで雑談したときに、九頭見さんから蒼桐さんが何回か改稿されているとうかがったのですが?
これは、九頭見さんにも多大なご迷惑をおかけしてしまった大きな反省点なのですが、著者校の段階に進んでから直すべきところに気づいて大きく、そして何度も手を入れさせていただきました。
私は最終的な紙面の状態を把握しておきたい作者なので、原稿提出前に手元の環境で組版通りに組んでみて調整をするのですが、今回その確認をおこたっていたため、自分の想定と著者校の紙面がかみ合わなかったんです。そして、細かな修正点を出しているうちに、頭が推敲をはじめてしまったためです。
重複していた説明など物語のテンポにかかわる部分を直せたことはよかったのですが、推敲のやり方について大きな課題があることを自覚させられました。今回、最大の反省点ですね。
つい先日、ようやっとアンソロジーを読みはじめて、自作を読んだのですが、まだ読者の目で読めませんね。作品との距離が取れていないです。
「世界のすべてとわたしのありか」は、書きはじめたときこそ傑作の予感を抱いていたのですが、書き上げてみるとそうした自信がしぼんでしまい、選考に通ったときも若干の驚きがありました。
ソラリス賞をいただいて、若干その自信が回復していたのですが、著者校作業を通して何度も見直しているうちに原稿との距離が近づいてしまったこともあると思います。
それとはまた違っていて、公開前の作品を寝かす場合は、作品から距離を取りつつ執筆時の意図を踏まえて推敲する必要があるので、離れすぎてもダメなんです。
でも、純粋に読者として読むには、そうした執筆時の意図さえも忘れているくらいが良いのです。自分の場合、「これを書いたのは誰だろう?」と思えるようになったとき、ようやく自分の中で評価が定まります。このとき「おもしろいもん書いてるじゃん」と思えれば最高です(笑)
今回、関連するアイデアをほぼ出し切ってしまったので、崩壊後の世界における図書館という場でどういうドラマを描くかが鍵になりそうです。
利用者が来なくなって、定期刊行物が止まって、しかも所蔵資料が劣化しない(!)という図書館なので、誰かが来ないとやることがないんですよね(笑)
『アポカリプスホテル』といえば、ヤチヨが強制的に休まされる第11話が大好きなんですよ。ヤチヨが仕事という自分の存在意義から切り離された状態で、自分や仕事仲間、ホテルや世界を内省的に見つめる視点も好きなのですが、どうやら致命的な損傷(パーツの消耗?)があるぞ、という匂わせがあってそれが静かに解決される、というまとめ方も大好きなんです。
こういう静かなドラマを書いてみたいのですが、文章でこういう話をやると起伏が作りにくいので、どうやったら書けるかなぁ……とときどきぼんやり考えます。
環国際図書館の物語としては、風音が訪れる前のエピソードが一つ二つ浮かびますが、いまはあまり気が乗らないですね。
こうやって考えてみると、今回の話で書きたいことは書き切れたのかもしれません。
千里が対等に話せる環という相手を持っていたことも関係していて、二体は図書館の中で最小単位の社会を形成していました。ところが、二体しかいないので、互いを相対化して見ることができない、というところが落とし穴になっていました。環は多くのデータを扱えるアドバンテージがあるので、この問題に気づいていて、テコ入れを試みたわけです(笑)
シリンダーベイビーについては、元来ヒトクローンの規制が厳しい日本(すでに規制法が実在します)で規制緩和されたことを踏まえても、同一人物の作成は許容されないだろう、という想定がまずあります。そうした中で「シリンダーベイビーはクローンではない。あくまでも体外受精児である」という屁理屈を押し通した人たちがいたわけですね。
その上で、仮に法的な枷を外せたとしても、同一個体を量産すると個々を区別する必要が出たときに面倒なことになりますし、クローン側に「入れ替わり」トリックなどを使われるリスクもあるからです。
それから、クローンにして均質化してしまうと、戦争が終わってクローンたちが子どもを望んだ際に近親交配で未熟児が生まれるリスクが高まる、という問題もあるからです。もともとシリンダーベイビーは、日本人の減少を補うために作られたので、日本人でありつつ多様性が生まれるのであれば、それは歓迎すべきことなのです。
というか、それがシリンダーベイビーが作られた本当の理由だったわけで、ナノ・パンデミックと世界紛争の勃発ですべてが狂った結果、兵器として扱われることになりました。シリンダーベイビーに多様性が生じるように作られているのは、最後に残ったひとかけらの良心ですね。
ぼくも何となくで考えてました。言語化さすがです。
ちなみに、改稿に際して一番影響を受けたのは「植叢(うぇる)びーいんぐ」で、「あ、こういう終わり方をするなら、最後の一文を取ったらだめだ」と思い直しました。九頭見さんが読後感のバランスも意識されて、編まれていることを思い知らされましたね(笑)
『アラタ』の主人公は自分の心を殺しながら生きています。そこに本当に好きになれるヒロインがあらわれることで、人生に変化が起こるというのが主となるストーリーラインです。
同じ時に『暗黒』も読ませて頂いたのですが、こちらは、他人の手足を売り買いしている店の小間使いの少女が主人公です。今回アマゾンでチェックしたら、無くなってました。Kindleの中には入ってるので、読めるのですが。
『暗黒』はnoteで公開しました。この作品の主人公も『アラタ』と本質的には同じで、過酷な状況下で自分の心を殺しながら生きています。どちらの作品も首の切断ということが大きなモチーフとして取り上げられているところも同じですね。『アラタ』は『暗黒』の発展版であるということが言えると思います。
首の切断、確かに。『暗黒』のほうは、『アラタ』とは反対に、切断されたパーツをつなぎ合わせたら首だけがなく、それでも生きかえった(?)少女が出てきますね。
百合系の物語を多く書かれていますが、なにか理由があるのでしょうか。
蒼桐さまからは、「若い女性を多く書いているのは、自分から遠い存在を書くことでキャラクターと作者を引き離せるようにしているから」とうかがったことがあります。
僕は「高野書店」や「遠くへ」といった作品で男性を主人公にしたことはあります。それはそれで書きやすかったですね。男性を主人公に据えると、主人公の気の持ちよう、それはつまり執筆中の自分の気持ちにも重なるのですが、それがシンプルになります。二重にならず、一枚岩になるという感じがします。
一方で女性を主人公にすると、気持ちの持ちようが二重になります。本心ではあることをしたい、けれども同時にそれを強く恐れているといった、矛盾した心のあり方を書きやすくなります。「アラタ」などではそれが顕著だと思います。彼女は職務をまっとうするという使命感と人を殺したくないという思いの板挟みになっています。
「アラタ」は確かに一部はわかりやすい結末ではないかもしれません。カタルシスはあるけど、それがすぐに打ち消されるような話の持っていき方になっています。何もかもに決着がつくようにはなっていません。
一方で二部は、自分としてはわかりやすい、すべてが解消するような結末になっていると思います。
「三〇七番」についてはご指摘の通り、カタルシスを徹底的に否定した作品です。あれは読み終えた直後は、読者は「なんだかよくわからない話だったな」と感じるのではないでしょうか。でも数日後に作品を思い出して、じわりと来るというか「あれって実はよいところもあったんじゃないか」と思ってもらえるようにしたいなと考えて作りました。
やはりそうでしたか。
六塔さまの作風は、ファンタジーぽいところもあるのですが、純文学的な根っこがあるように感じてます。まあ、お好きな作家とか作中に出てくる小説からもそれはうかがうことが出来るのですが。
私は詳しくはないのですが、小説の中で表現形式が一番先鋭的なのは純文学ですよね。
九頭見さん、フォローありがとうございます(汗;)
すみません、純文学的というのは、SF・ファンタジーと対比して、「娯楽作品ではない。エンタメを追求してない」という意味で使ってます(汗;)
「Hatena Blog」の「『真子と鏡』」を読む」で自作について語られているのを読んで、純文学的だなあと感じたのもあります。←これ以上うかがわなくても良さそうではありますが(汗;)
挙げられた作家の中では、三島由紀夫の「美しい星」やカフカの「変身」とかは、ファンタジー要素もあって読みやすいのですが、娯楽作品とは言えないような。
ともあれ、どちらも読んだ後で、事象に対する認識が変わったり、世界観・人生観が変わるような作品が読みたいことに変わりはないですが。
で、私の中では「真子と鏡」と「塔」は、六塔さまの作品の中でベスト2なのです。どちらもSF者にも優しい。←個人的感想です(汗;)
「真子と鏡」は、ファンタジーでは収録作のトップだと感じたので「アニマ賞」に選ばせて頂きましたし、「塔」は、処刑による自死を望んでいる二人の女性が主人公という、『アラタ』とちょっと似た設定ですが、結子と咲耶の細やかな心の動きの描きわけが見事で物語に引き込まれました。
この二作品は、より読者を意識して書かれたということはあるのでしょうか?
そうなんですね。私は「塔」のほうが読みやすかったのですよ。
すみません、まあ好き好きと言うことで(汗;)
あ、一つ聞き忘れていたことが。『東京銀経社アンソロジー いつかあの空を越えて』のブックレビューで「ブラインド・パイロット」は、“ホテルの設定は宇宙船でSFとして送られてきたものを、改稿されて、現代劇となった”とうかがったのですが、これは何故なのでしょうか。SFファンとしてはちょっと残念な気がして(笑)
そもそも僕は現代劇の方が得意なんです。創元SFの短編賞に送るにあたってSFにしましたが、陳腐な気がしてやめました。ホテルの方がよくテーマを表現できていると思います。
こちらこそありがとうございました。
自分の創作の姿勢について把握するきっかけにもなりました。『引き裂かれた世界の冒険』は実はもう一年ぐらい続きが書けなくて放置している状態です。いつか続きが書けたらいいなと思っています。以上です。