
【収録作品】○インタビュー済み。他も順次インタビュー予定
| 蒼桐大紀 | 「世界のすべてとわたしのありか」 ☆ソラリス賞 | |
| ○ | Yohクモハ | 「 |
| 秋待諷月 | 「生き急ぎの幽霊」 | |
| 七名菜々 | 「スティール・ストーク・ストローラー」 | |
| ○ | 九住龍 | 「忘れにし夏」 |
| 洛杜きんるい | 「フェリスの星」 | |
| 蒼井どんぐり | 「雪宙花火」 | |
| ○ | 渋皮ヨロイ | 「最低魔女とマシマシメンメン」 |
| ○ | 嶌田あき | 「プラネタリウムみたい」 |
| 八月休希 | 「タイタンにあがる月」 | |
| 萬朶維基 | 「万事調和クッル・シャイイン・フィー・インシジャーム」 | |
| 柏沢蒼海 | 「ダイハードマン・コントラクト」 | |
| 阿下潮 | 「プラセンタ」 | |
| 六塔掌月 | 「真子と鏡」 ☆アニマ賞 |
前回の『東京銀経社アンソロジー いつかあの空を越えて』から一年ちょっとで、九頭見灯火さん編集のアンソロジー第二弾がでました。
『東京銀経社アンソロジー 真子と鏡』の募集から収録作決定までの経緯をうかがわせて下さい。
前回の「いつかあの空を越えて」の公募が終わってから、執筆者それぞれ、新しい段階に入りました。一方で自分ももう一度アンソロジーを作りたいという気持ちが沸き起こってきました。
ちょうどnoteでも東京銀経社PR誌である銀経マガジン創刊号の立ち上げと重なる時期でもあり、マガジンとアンソロジーで相乗効果を狙いたい気持ちもありました。
収録作品については、特に悩まなかったですね。
「いつかあの空を越えて」からの執筆陣が継続して応募してきたこともあり、クオリティは申し分ない作品が多かったです。
わりと募集が始まった初期のほうで、六塔掌月さんの「真子と鏡」を大黒柱とする案が決まりました。
また各作品については、これまでのプロ向けの同人誌ではなく、アマチュアだからこそ出来ることも模索したい向きがありました。
「スティール・ストーク・ストローラー」や「フェリスの星」「万事調和」はそういう意味合いで選んだつもりでした。
また東京銀経社アンソロジーは、そのファンダムが作るアンソロジーであるというのも、第二弾でより鮮明になったと思います。
今回のインタビューは、本来なら冒頭掲載の「世界のすべてとわたしのありか」作者、蒼桐大紀さまから始める予定だったのですが、嶌田あき様から始めさせていただくことになりました。なぜかというと、以下のインタビューを読んでいただければわかります(笑) 蒼桐さまは、前作同様「『東京銀経社アンソロジー 真子と鏡』感想・紹介記事」をアップされています。
こちらこそお世話になっています。紹介を兼ねた感想記事という体で、今回も書いてみました。前回が好評だったこともありますが、『真子と鏡』は同人誌ですので、参加者が自発的にアピールする必要性を感じたこともあります。
今回、感想を書くのが難しい作品が多くて苦労しましたが、各作品の魅力や読みどころを極力ネタバレ抜きで紹介できたと思います。
蒼桐さま、今回も的確な紹介記事、ありがとうございました。
前回と同じく、作品掲載者さまには、以下の質問にお答え頂いてます。
嶌田あきさんは既に別枠でブックレビューをさせて頂いてます。「青春という名のSF」がお好きだと言明されているとおり、「プラネタリウムみたい」も題名どおり、プラネタリウムが舞台の青春ものです。
嶌田あきさんの作品は拙作の「忘れにし夏」が三角関係とその顛末のお話として冒頭5作目に配置しているところから、似た三角関係の内容を取り扱いながらも優しくて切ないブルーライト文芸として昇華させた作品として、対比して配置しています。
このアンソロジーの裏テーマで「対称性が自発的に破れる」というものを設定しており、似た内容の作品や、骨子が同じ作品をどのように非対称の関係にするかが悩みどころでした。
対比配置だったと知って、正直びっくりしました。七名菜々さんの「スティール・ストーク・ストローラー」と洛杜きんるいさんの「フェリスの星」の間に置かれた「忘れにし夏」の意図を読もうとしていて、まさか自作との関係性があるとは思いもよらなかったです(笑)。
「忘れにし夏」は物語性もさることながら文章そのものが主役って印象で、その透明感のある筆致に気持ちよく連れていかれました。裏テーマが「対称性の自発的破れ」というのは物理屋として胸熱で(笑)、編集の眼差しに脱帽です。
ちょうど編集中のことで、嶌田さんとのXでのリプで、対称性について一緒にお話したことがあったじゃないですか。
そのとき嶌田さんが対称性の破れ自体はそれほど面白くなくて、対称性の自発的破れが面白いんだという趣旨のことを仰ってたんですね。
覚えてらっしゃいますか? なので、編集のなかでそういう構造をメタ的に仕込めないかなって考えたんですよ。
蒼桐大紀さんの「世界のすべてとわたしのありか」に対しては、六塔掌月さんの「真子と鏡」。
八月休希さんの「タイタンにあがる月」に対してはストーリーラインが同一なのに、全く違う展望を見せる柏沢蒼海「ダイハードマン・コントラクト」とか。
覚えてます覚えてます(笑)。あのXのやり取りがアンソロジーの構造に仕込まれていたとは気づきませんでした。
物語の骨格が「対称性」、別の作者が同じ骨格で書いても変わらず読者に突きつけられる普遍的な問いやテーマが「保存量」、そして同じ骨格から全く異なるトーンや結末に落ち着くことが「自発的な破れ」といった感じでしょうか。きれいに対応してると思います(笑)。大ボラどころか本当にやり遂げてますね。
いつもアンソロジーの収録順を選ぶとき、「こういう方向だ」って決めます。そのとき、言語化が追いついていかないところがあって、今回も、「対称性の自発的破れってこういうことかもしれないな?」って半ば直感が働きました。
その感覚、すごくわかります。私も構想段階で「この話はこういう方向だ」という確信(という名の思い込み)が先に来て、プロットは後から追いかけるというのがよくあります。言語化しようとすると逆に輪郭がぼやけてしまって。最近はそういうときClaudeで壁打ちすることが多いですね。ざっくり伝えて言語化を手伝ってもらったり、そもそもプロンプトに書き込む過程で強制的に言語化する羽目になるので、プロセス自体が整理になっている感じです。
作品づくりの前段階の整理にも生成AIをお使いになっているんですね。
さいきんだと葦沢かもめさんのai文芸誌「ステラ・リテラ」が生成AIユーザーに話題になってたり、創作界隈でも新鮮な風が吹いてますよね。
自分の作品もプロットの壁打ちではないんですが、複数の生成AIのお世話になりました。
ClaudeやChatGPT……、でも聞き比べると、微妙に意見が合わない(笑)
ツールごとにクセがありますよね。ChatGPTは形式的な文章に強く、Geminiは画像生成で活用しています。長文での論理の一貫性や自然な表現への変換はClaudeが執筆向きかなという理解です。ただ、どのAIも基本的には賛同してくれる方向に流れがちで、もっと反論してきたり意見を譲らなかったりしてほしいんですよね。議論にならないというか、トコロテンというか(笑)。そこはまだ物足りないところです。
確かに、生成AIは、みんなイケイケなのはそう(笑)
ほかの作家さんも今の生成AIにはやや物足りなさを感じているのは、よく聞きます。刃向かってくるくらいがちょうどいいと。
ただエージェントごとにキャラクター性というかクセが違うのは、SFあるあるで、ちょうどSFの世界に生きている、そんな感じもします。
自分は、新しい気づきを原稿の中から引き出したくて、生成AIに読み込ませて、あれこれ言わせてみたんですね。
Claudeは、ゼロ年代ポストセカイ系批評みたいなことをサクッと提示してくるんですが、いっぽうでChatGPTは小説のキャラクター感情の非対称性を指摘してきて、「これだ!」となりましたね。
著者校のあいだ、多くの時間かけて修正していた執筆者もいるなかで、こっそりと自分の作品もイジってました。
「非対称性」はChatGPTっぽい指摘ですね(笑)。LLMごとに微妙に切り口が違うのは面白くて、それぞれ別の角度から光を当ててくれる感じがします。NHKの「プロフェッショナル」で庵野秀明さんが「自分の外にあるもので表現したい」と言っていて、めちゃくちゃ共感したんですよね。小説を書くことはエゴの塊なので、自分の内面だけで作ると思考の範囲を超えられない。自分では「どうかな?」と思うような外からの視点こそが欲しくて。それがAIエージェントとの壁打ちで得られる時代になったのは本当にハッピーで、めっちゃSFの時代に生きてるなあと思います。
ちょうど、新世紀エヴァンゲリオンで言うところの、マギシステムみたいですね(笑)
メルキオールは賛成してくれてるけど、カスパー、バルタザールは賛成してくれないとか。
原稿を書き直していた昨年は、小川哲の「言語化するための小説思考」という本を読んでいました。改稿に向かう際に、小川が脳内のとっちらかったアイデアや問いの芽を摘みあげてやることが、一人の脳内という限界を越えていくという趣旨のことが書かれていて、それは「自分の外」というものに自ずと響き合っていくと思います。
AIエージェントの存在も大きいですね。
生成AIへの問いの精度が上がっていくと、自ずと答えがすぐそばにあったみたいなこともありそうです。
マギシステム、まさにそれです(笑)。AIエージェント同士で議論してほしい、ただし人間にわかる言葉で(笑)。小川哲さんの新書、私も読んでいました。P102の「原理的に埋められない差」という指摘が特に刺さりましたね。
書き手にとって唯一の手がかりは「自分が面白いと感じるかどうか」であるのに、小説を評価する基準は常に「読者(他者)が面白いと感じるかどうか」――小川哲「言語化するための小説思考」(講談社、2025年)
私は練りに練った設定やいけてる(と思い込んでいる)シーンが先行しがちなので、耳が痛いことばかりでした。自戒。いわゆる「良い書き手は良い読み手」というのも真実だと思っていて、良い書き手と呼ばれる作家はほぼ例外なく良い読み手ですよね。他者性からは逃げられない、ということなんだと思います。
いつも読ませて頂いてます嶌田さんの練りに練った設定、好きですね。
収録作の「プラネタリウムみたい」は、いつもの嶌田さんらしい設定よりも構成の作品だと思いました。
すとんと落ち着きのよいストーリーラインに収まる感覚がありました。読んでいて、作家の手のひらの上だな、と(笑)
ありがとうございます。私も九頭見さんの作品を(負けじと)読んでいるのですが、なかなか貿易赤字ですね(笑)。九頭見さんの読みの深さと幅のスペクトルの広さに、いつも感銘を受けてます。「プラネタリウムみたい」は設定に凝るのを意図的にさぼっていて、プラネタリウムという概念自体がすでに詩的な装置として機能するので、あえて読者に「読み」の余地を残す方向で書きました。ただ正直、設定を練り込まないと落ち着かない自分との葛藤もあって、抑えるのが難しかったですね。自戒の続きです(笑)。
九頭見さんの考えている構成と、私の考えているものが似ているかどうかわかりませんが、「プラネタリウムみたい」を読んでいた時につきまとっていた違和感があります。
それは“だから今夜、空で輝いているあの星の中に――もうそこには存在しない星が、あるのです”という部分です。
同じ意味の言葉(「消えても、届く」とか)が何回か出てくるのですが、光が地球に届くまでに何百年とかかるのなら、光が地球に届く途中で星そのものが存在しなくなっても、発せられた光が届くのは自明です。ということは、これは星の光にかこつけて、作者が読者に何かを伝えよう(誘導しよう)としていると考えるのが妥当なところでしょう。読んでいくと、徐々に著者がその理由を明かしてくれる構成になっていて、切なさが増していきます。ここらあたりが上手いなぁと。
光のスピードが有限で、私たちは何年も前の星の姿を見ているというのはSF読みの方には自明なわけですが、あえてもう一度立ち止まって、その事実をいろいろな方向から観察してみようというのが正直なところです。はやりの歌でいまだに「光年」を長い時間のことだと扱っているものがあったりして、「大事なことは何度も言う」精神もあります。
遠くに行けば行くほど過去になる、それはある種のタイムマシンで、宇宙の始まりや果てという素朴で重要な疑問への入口にもなっていると思っていて。星のアナロジーを身近な物語にくどくなく説明臭くなくそっと結びつけるのが腕の見せ所だと思っているので、「上手いなあ」と言っていただけたのは素直に嬉しいです。
個人的かつSF者の思いなのですが、相対性理論に縛られている現実世界がミンコフスキー空間(光円錐)の範囲内だとしても、数値化できない・観測できない人間の想い等は、ミンコフスキー空間の非因果領域に含まれているのではないかと。
また、元々相対論においては「時刻の相対性」が言われていて、絶対的な時刻は無い(ある人にとっては過去の事象が、別の人にとっては未来ともなりうるという)とされてますので、「リョータの想い」と「ユカの想い」は、過去・未来に関わらず両立するし通い合うことも可能なんだなと、読んでいて感じました。
素敵な読みです。私、理系人間なので科学的にありえないことを書くのにはかなり抵抗があって(笑)。ただ科学で説明がつかないことはある、とも思っていて、そこに物語としてそっと踏み込んでいくのが小説の強みだと思っています。
SF読みの方からすると科学的な飛躍が少なくて薄口に感じるかもしれませんが、そのバランス感覚は大事にしていて。リョータとユカの想いもそういう気持ちで書きました。
ご自宅から天文台が見えるとは贅沢な環境ですね。プラネタリウムは好きで、近くの区立のものに子どもの頃から折に触れて足を運んでいます。昔ながらの五藤光学製の光学式が今も活躍中です。最近は大型映像と組み合わせたドーム番組やミニコンサートにも使われていて、星を「見る」というより「体験する」という感覚に進化してきましたよね。「プラネタリウムみたい」を書くにあたっても、あの暗闇と静けさの中で満天の星空が広がる瞬間の感覚を文章で再現したいというのが出発点のひとつでした。
なるほど、そこが原点でしたか。
光害があって、暗い星は見えない都会の夜空に比べると、プラネタリウムのほうが綺麗というのはとてもよく分かります(笑) 作中でも記述がありましたが、それを見た時にどう感じたかのほうが重要ですよね。
都会育ちなもので、実はプラネタリウムの星空にずっと「偽物感」しかなくて(笑)。
本物の夜空よりランクが低いというか、エンタメ的な誇張というか、そういうものだと思っていたんです。ところがハワイのマウナケアで夜空を見たとき、意識が完全に逆転しました。「あ、プラネタリウムって本物だったんだ」と。作中でもそのあたりに触れているのはそういう経緯があります。
おお、マウナケア! 確か日本が誇る「すばる望遠鏡」もありますね。
取材で行かれたとかでしょうか?
遙照山の空もなかなかプラネタリウムですよ(笑)
観光ツアーで行きました。車で4000m級の山に登るので酸欠がヤバかったですが(笑)、すばる望遠鏡を目の前で見られて、日本の技術がここで宇宙を見ているんだという感慨がありましたね。日没後は一般人は2800mのオニヅカセンターに降りるのですが、そこで見た星空がとんでもなかったです。遙照山の空も、ぜひいつか体験してみたいです。
ぜひ岡山にもいらしてくださいませ(笑)
この度はお忙しい中、二度もインタビューに応じていただきありがとうございました。
嶌田先生には、宇宙や科学への憧れを正面から書いた青春小説をこれからもお願いしたいです。
あ、現在執筆されているポストアポカリプスものも、ぜひ読みたいです!(笑)
こちらこそ、丁寧に読み込んでいただいてありがとうございました。深く掘り下げていただくことで、自分でも気づいていなかったことが見えてきて、インタビューって面白いなと改めて思いました。ポストアポカリプスものは書き上がったのですが、コンテストの登録をミスって応募できずでして(笑)。でもこれは改稿のチャンスと前向きに捉えて現在改稿中です。「青春という名のSF」の軸は外さないつもりなので、楽しみに待っていてください。
あちゃ(笑)←コンテストの登録
嶌田先生の新作、アルファポリス等をチェックしながらお待ちします。
嶌田さまへのインタビューは、ほぼ九頭見さまとの掛け合いに任せてしまったので、このまま九住龍さまへのインタビューを始めようと思います(汗;)
嶌田さまにとって、九住さまの作品の魅力はどこにあるのでしょう?
「忘れにし夏」は、あちこちに仕掛けられた「深読みしたくなる要素」が一番の魅力だと感じています。
たとえば「ノエル」という名前。文中にあるとおりOasisのノエル・ギャラガーへのオマージュなわけですが、そうだとすると、二人称の「きみ(ユウ)」は弟のリアムであり、同時に英語の「You」とも重なるトリプルミーニングに読めてきます。他にもFoo FightersやThe Jamを思わせる名前が散りばめられていて、UKロック好きとしては「忘れにし夏」というタイトルの曲があるのではないかと、探してしまいました(なかった!)
あはは。そこまで考えてませんでした。
ちょうどエヴァンゲリオンみたく、深読み・考察がそこまで意味はないかも。
UKロックには疎いのでスルーしてました(汗;)
ザ・フーくらいは知ってますが。
登場人物の「フー」は名前からして誰でもありえますよね。私は最初「ドクター・フー」から来ているのかと思いましたが、小林さまの物語には時々登場する名前ではあります。
フーは、ドクター・フーのつもりでした。ただ、「誰でもない」象徴というのかな、記憶のなかのノイズみたいな感じです。
誰でもないし誰でもある存在ですね。誰にも探して見つけ出したい人が居る。その象徴みたいなものでしたか。
SFとしては、「カラビ-ヤウ空間型断層」というハードな設定を舞台に、「きみ」と「おれ」が交差する不思議な世界。幻想的でありながらもファンタジーには流れず、時としてSF的にシャープに像を結ぶところが面白いです。二人を結ぶのが紙飛行機とペンギンというのも独特で、「きみ」を見つめているのは誰の視点なのか、というトリッキーな仕掛けも読むたびに新しい発見があります。
語り手誰視点問題。これも読者のみなさんの感想を見ていると、いろいろ発見が見えます。作者的には答えは用意したんですが、語り手の位相がいくつかの視点に分散しているので、読むたびに不思議な深みを作り出しているのかも。じつは、きみとぼくという二人称ではないパターンも書いたバージョンも存在します。その場合は、ぼくとおれ。
それは二人で一人称なのかな。混乱しそう(汗;)
「夏」の設定や「きみ」という呼び方は『夏への扉』を連想させますが、この作品はむしろ夏でなくても成立しそうな乾いた空気感があります。量子SFの定番「猫」ではなく「ペンギン」を選んだ捻りにも、何か意図がありそうです。
まだ読み解ききれていませんが、読み方の自由度を広く残してくれる、懐の深い作品だと思います。
ありがとうございます。これは、じつはペンギンSFアンソロジーに収録した「海が消えた日」という2,000字の短編がありますが、それを10倍に膨らませた作品だからなんですね。
『ペンギンSFアンソロジー 上巻』収録ですね。すっかり忘れている(汗;)
読み返してみると、これも高次元断層が起こった世界の話ですね。
嶌田さまへのインタビューで、“「忘れにし夏」が三角関係とその顛末のお話”とうかがいましたが、それ以前に背景となっている舞台装置(世界)が私には興味深いですね。
次元断層であちこちがデタラメに繋がってしまった世界ということで、オールドファンはどうしても『10月1日では遅すぎる』(フレッド・ホイル著)を連想してしまいます。
『10月1日では遅すぎる』は未読なんですが、いま読んでいる「伊藤典夫評論集成」のなかで、こんなSFがあるんだ!という驚きがありました。
「忘れにし夏」はやることは奇を衒わずオーソドックスにしようという狙いがありました。
それは、九住さま基準のオーソドックスなのでしょうか?(笑)
語られているのは思春期の失われた日々の記憶だと思うのでそこらあたりはオーソドックスだとおもうのですが、日々得られる情報に縮小確率だとか高次元断層とか色々出てきますね。
たとえば、世界の終わりが緩やかにやってくるということは、セカイ系の系譜に属するものとして、割とオーソドックスだと思います。
そうなのですね。蒼桐さまのインタビューでも、『渚にて』を引き合いに出させてもらいました。
この話はいわゆる多元世界のなかでも世界同士の次元がズレてしまった多元世界モノとして捉えて書きました。雀部さんのようなSF読者がどう捉えるかには関心があります。物語の最初に出てくる、「こちら側」の世界では量子力学が発達した世界としているので、統計で縮小確率や高次元断層の仕組みといったことが考えられています。
友人側の世界では、こちら側の世界とは違った科学の進歩があり、高次元断層の仕組みがもっとイメージ的なものとして違って捉えられています。こうすることで学説の相対性みたいなものを書こうと思ってました。
かつてデカルトが心臓の仕組みは蒸気で動いていたと説明していたり(それは解剖学の進歩で途絶えるわけですが)そういう科学の自由さも考えてみたかったです。
学説の相対性を語った部分、面白かったです。
また九住龍(小林蒼)さまの作品の特徴のひとつでもある、最新科学理論の採用があります。「忘れにし夏」でも「カラビ・ヤウ空間」とか「ループ量子重力理論」が出てきていて良く分からないながらも、なんか凄いことが起こったんだなと(汗;)
超ひも理論に予言されているふだんはコンパクト化されている余剰次元が、我々のいる三次元空間に張り出してきたら……という思考実験のつもりで書きました。
ちょうどフレッド・ホイルが「10月1日では遅すぎる」で、ハイゼルベルクの不確定性理論に対する不満と過去から未来へ直線的に流れる時間の一般通念への疑問を持って「10月1日では遅すぎる」を書いたというエピソードがありますね。
モチベーションでは似ているのかもしれないと思いました。
ということは、「余剰次元は、通常は三次元空間に張り出してくるものだ。現在の我々の住む世界のあり様は、極めて希な均衡状態に過ぎない」という前提で書かれた作品ということですね。
物語内では、いまある世界はたとえば真空崩壊の示す世界像のように、偽の真空のような安定状態にあり、ちょっとした極めて低い確率で起こること(物語内で対応するのは超高次元化)が真の真空になりえる、つまり本当の安定状態があるというイメージで書きました。
準安定状態にあった世界がより安定した状態に相転移してしまったと。
「真空崩壊」は、私の中では、心配してもしょうがない宇宙的(量子論的)厄介事のトップ事象です(笑)
「忘れにし夏」は、極めて心情的な作品なのですが、宇宙全体が折りたたまれて終焉を迎えるというところは、《三体》のラストにも似て詩的なイメージを感じました。
ありがとうございます、ただ《三体》や「プロジェクト・ヘイル・メアリー」はSF読みなら必読ですが、《三体》だけ厚さ(自分も極厚本を作っているのに笑)と巻数の多さで読めてないんですよね。読んでみます。
《三体》は、読んで損は無いシリーズだと思います(笑)
記憶と時空が相互に強く結びついている世界では、パッチワーク状に再配置された空間の影響で人間同士の脳(ユベール野?)の働きとお互いへの影響も再配置されて、科学の急速な進歩が起こったように読めて面白かったです。
そんな読みをしていただけるなんて、感動です。ユベール野は、グレッグ・イーガンの「万物理論」に出てくる「ラマント野」から影響を受けました。
仰るとおり、この世界では時空と記憶が密接に絡まっています。宇宙のグラフ状の時空システム上に駅の電車のように記憶が乗り入れています。記憶ひとつひとつの点は、宇宙にもとから記録されていて語り手の彼女がそれを見ている、写真データやアルバムのように読み出している、外の記憶が別の記憶を自己生成している、そんなイメージでした。
空間が記憶する(覚えている)というヤツですね。
少し前の「小林ひろき自作を語る」を読み返してみて、作風が随分変わってきたのに気がつきました。
あの頃(4年前)は、AI(機械知性)が登場することが多かったように思います。また最新の科学理論にも詳しくなられたので、ハードぽさが増大して、それが物語の展開(筋立て)に影響してる感じを受けました。
装いは変わったと思うのですが、表現したいことはそこまで変化してないと思います。でも、確かに仰る通りかも。
表現したいこと、書きたい伝えたいことは変わってないと思いますが、表現する方法が変わってきたなと感じました。
先日、八月さまと電話で色々話したのですが、その時「九頭見さんの仕事は何なのだろう」ということがひとしきり話題になりました。
参りますね。
さいきんは、ペンギンSFアンソロジーをペンギンバザールに出展することになって、かなり薄利な書店サークルみたいな(笑)
ちょうど初代のポケモンでロケット団という悪の組織のお兄さんお姉さんがふだんはバイトやチケット売りとか怪しい職業で糊口をしのいでいますが、そんな感じです。
じゃぁ、正義の味方のロケット団の元締めということで納得します(笑)
それにしても、編集に加えて「第二回円城塔賞ぜんぶ読む」(感想付き)などという空恐ろしいことを平然と成し遂げられているエネルギーには驚嘆いたします。
寝る時間あります?
それ、みなさんに言われるのですが(笑)
寝てます。でも寝る時間が惜しいと思う日は資料を読んだりしてます。ああいうコンテストは3ヶ月間とか期間が決まっているので、帰ってこられるんだと思います。
ちゃんと帰ってきて下さいね(汗;)
皆さん、同じ心配されてるんだ(笑)
さなコンとか古賀コンもありますし……
Webで拝見していると、アマ文学界を支える母親的存在、もしくは文芸分野に著効があるマルチビタミン剤の役割を果たしてらっしゃる(笑)
もはやお一人の身体ではないので、ご自愛下さいませ。
渋皮ヨロイさまは別枠で「異類訪問譚」著者インタビューがあります。
「最低魔女とマシマシメンメン」は、理不尽な姉に苦労する弟のお話。
『東京銀経社アンソロジー いつかあの空を越えて』でも、「ほしのもと」が掲載されてます。(前回はブックレビュー)
渋皮ヨロイさんの作品はアンソロジーのちょうど真ん中に配置しました。この配置は「いつかあの空を越えて」と変わらず、私からの渋皮さんへの厚い信頼の現れでもあります。力を抜いて楽しめるのはもちろんのこと、平易な文で書かれたニュートラルで端正な文章の数々は、読みやすく、くすりと笑ってしまう、そういう魅力があります。
ありがとうございます。今回もどっしり真ん中を務めさせてもらいます。九頭見さんからご指摘いただいたように、読みやすい(ばかばかしい)お話ですので、箸休め的に力を抜いて読んでもらえたらうれしいです。
九頭見さんからの熱い信頼、確かにわかりますね。
渋皮さまの作品(作風)がユニークで、アンソロジーの中で比較対象がなく、真ん中に置くとバランスが良い。重心にもなるし!
それと泣ける・感動系の話とサンドしているのも。「雪宙花火」「プラネタリウムみたい」に挟まれているんですね。
これは後から気づいたんですが、読者の感情が大きく動く話のあいだに、この作品があることで、一度リセットされる(笑)
おっと、そういう効果もありましたか。
渋皮さんにも既に 『異類訪問譚~みんな、うちにやってくる~』のインタビューをさせていただき、どういう作風であられるかある程度わかってまして、それを踏まえておうかがいしたいと思います。
前回の掲載作「ほしのもと」は、なんと男性が惑星を生む話で、ぶっ飛んだ記憶があります。女性だけが産む性であるのは片手落ちなので、男性にも生ませてやろうという配慮(笑)が働いたとかがあったりするのでしょうか?
特にそういう意図はなくて(何しろ「お尻」から出てくるわけで、性別による身体的対称性を意識して書いたものではないです)、なんとなく、古谷実の昔の短編漫画(「僕の健康」)でうさぎをトイレで産む話があったなあ、と思いながら書いた記憶があります。
古谷実先生って『稲中』の人ですよね。そんなマンガも書かれていたとは。
「ほしのもと」のブックレビューで、蒼桐さんが、“「僕」の日常の手触り感は、ほしのもとによって産んだ惑星の実体感を補強し、両者がひとしく物語における現実なのだと伝えてくれます。”との感想を寄せられてますが、私もそう思いました。
ご指摘いただいたことの答えになっているかわかりませんが、日常に変なことが起こる作品を書くことが多いので、不思議な状況そのもの以外は、匂いや身体的感覚などを丁寧に描くことを意識しているかもしれません。その実感を錘にしないと、変なことが浮き上がってしまう、距離ができてしまう、というところはあるかもしれません。そんなことをご指摘から思いました。
確かに、そこらあたりの身体的感覚は、女性作家が得意な感じがしますね。伊藤計劃先生は例外(笑)
「ほしのもと」と「最低魔女とマシマシメンメン」は、どちらも男が苦労する話だと思うのですが、なんか諦観が感じられるところが面白いです。
渋皮さんの作品全体に関しても「何か変なことが起こっても、登場人物たちが慌てない」という共通点があるように思います(笑)
そうですね。どうしても受け身になってしまいますね。「変なこと」という波がきたときに、ばたばた暴れるというよりも、なんとなく身を任せてその流れに乗ってみて、どこまで運ばれるか、その動きと、辿り着いた先の景色を描く感覚が好きなのだと思います。
その感覚、北野勇作先生の世界と近しいような気がします。
SFだと、普通でないことが起こったら、まずどう対処するかとか原因究明に向かうような流れになることが多いです(笑)
北野勇作さんの作風もとても大好きです。
自分は説明しないもの、されないもの、みたいな「わからない」作品をずっと好きで読んできたので、半ば開き直って、理屈を説明しすぎないようなものを書いています。不思議な状況が起こったあと、それが通り過ぎる様子を描くだけで、あとは扉を閉じないでおく、みたいな感覚です。
北野先生といえば、ほぼ100字小説(SF)があるのですが、渋皮さんの「ヨロイマイクロノベル」も、100文字ちょいですね。
はい、北野さんがマイクロノベルという呼び名でX(Twitter)上に書かれているのを見て私も始めてみました。タグを入れて、字数制限ぎりぎりに収まるように書くことを意識しています。
ときどきフォロワーの方からお題を募って即興で書くことがあるのですが(マイクロノベル祭)、時間と精神的余裕、何よりも体力がないとできないので、なかなかやれないです。また是非ともやりたいのですが……。
それは落語の三題噺に通ずるような、なかなか面白そうな試みですねぇ。
ぜひ拝見させて下さいませ。
「ヨロイマイクロノベルその50」(全部で500話)では、 「新じゃがです、春キャベツです、二人合わせてスプリングティーンです」が好きです。なんかツボにはまりました(笑)
先ほどお答えしたように、何かしらのお題やテーマがあったほうが書きやすいので、新じゃがとか、そういう季節のもの(たぶん夕食のメニューで用いたんだと思います)をとっかかりとすることが多いです。
おっと、こっちは日常生活に根ざしている。
「ヨロイマイクロノベル」の他にも「うそ日記」という連載もされてますが、この使い分けはどうされてるのでしょうか。まあ、どちらも「うそ」が混じっているのでしょうけど(笑)
普段、なるべく固有名詞を使わないようにしていて、「マイクロノベル」も基本方針はそうなのですが、もっと固有名詞を使ったものを書きたい、あとは日常の自分の生活に即した(ようなでたらめな)ことを書きたい、ということで「うそ日記」を始めました。実は一度挫折して中断しているのですが、意外と大変なので、今回もいつ止まってもおかしくない状況です……。
そうなのですね。大変だとは思いますが、楽しみにしている読者もいらっしゃるでしょうし、分量を減らしてでも続けて下さいませ。
今回はお忙しい中、インタビューに応じて頂きありがとうございました。引き続き、ちょっと変なそれでいて読者をクスリとさせるユニークな作品を読ませて下さいませ。
こちらこそありがとうございました! 「異類訪問譚」の著者インタビューに加え、こちらでもたっぷり質問していただき、普段、作品のことを自分から語ることがないので、とても貴重な体験でした。楽しかったです。